賀川豊彦の畏友・村島帰之(121)−村島「アメリカ巡礼」(6)

   「雲の柱」昭和7年4月号(第11巻第4号)への寄稿の続きです。

         アメリカ巡礼(6)         太平洋沿岸
                          村島帰之

   (承前)
    野放しの熊に會ふ
 夕飯前の一刻を、自動車で散歩に出ると、森の中の道路で、はからずも一匹の熊がノコノコ森から出て来るのに會ふ。私が試みに自動車の窓からキャンデーを放ってやると、うまさうに喰べる。そしてあとをくれといはん許りに前足をチンチンさせるのだ。まるで犬だ。

 私たちはその猛獣である事を忘れて、次から次へとヤンデーをやる。そして、やり終って、いくらチンチンしてもやらなくなると、さうと悟って、ノソリノソリと行って了った。無抵抗のところには獣も抵抗しない。

 ホテルのカフェーテリアで夕飯。キャンプが寒いので、スㇳーブをたく。それも大きな木の片をたくのだ。浮世離れのした簡易生活の悦びといったやうなものを感ずる。

 九時から熊に夕飯をやるのを見に来いといはれて自動車で出かける。

 うっさうたる森の中を行く。やがて、技師が求て電燈のスィッチをひねる。と、川の向ふの一地点に、今し方、運ばれた食糧を中心にして十頭近くの熊が集ってゐるのが、電燈の光にうつし出される。

 彼等の或者は夫婦連れであった。また或熊は他の熊と種類が違ってゐるので、遠慮勝ちに喰物に近づいて行った。技師の話では、この山には少くも百五十、多くて四百の熊がゐるといふ。そしてヨセミテといふ言葉はインデアンの「大熊」といふ意昧だといふ。

 私たちは珍しい経験をした事を喜び合ひ、キャンプに帰り、一同祈りをして眠る。

   十一日
 目をさますとまだ暗い。が、時計を見るともう八時だ。暗いと思ったのは、このハウスが森の中にあるためであった。急いで起きて食事もそこそこに立つ。

 途中、前夜の熊の食堂へ来かゝると、恰度朝飯時間で、熊が六七匹来てゐる處であった。私たちはそれを寫真におさめたりして、森の中の道をフレスノに向ふ。そして前日と同じやうな道を走る事約百哩。マセダ駅に着。

 駅を通過して行く貨車の上には、多くのルンペントランプ連が乗ってゐる。駅には貨車の空車が何百台となく繋ながってゐる。いづれも皆果物輸送用のものだ。不景気のほどが知られる。

    フレスノ

 マセダで石丸さんの自動車を降り、そこまで出迎へられたフレスノの森民治郎氏の自動車に乗る。

 二時、市廳前のフレスノホテル着。先生はキプソン博士の依頼で瀕死の重体にある牧師モントゴメリーの病床を訪れて祈って来られた。

 五時から第一メソヂスト教會で白人のため講演。聴衆八百。

 六時からレストランとで歓迎曾。私は中山真多良牧師の隣りに坐って、フレスノにおける佛教徒の分裂の話などを聞く。西本願寺の一教誨師の排斥から、七千の信徒が騒ぎ出し、東本願寺へ改宗してもと意気込む者もあるといふ話だ。兎に角、此の地の仏教は旺んらしいが、第二世の宗教としてはどうだらう。アメリカにおける佛教の普遍性について考へさせられる。

 面白い事に、アメリカでは一般の年中行事となってゐるクリスマスを、全く黙殺する事が出来ないで、佛教徒もクリスマスを祀るといふ。つまりクリスマスを基督の降誕日と見ないで、アメリカの祭日とするのだ。面白いと思ふ。

 八時からリンカーン公會堂で日本人のための集會。六十名の決心者を与へられた。

     (つづく)