賀川豊彦の畏友・村島帰之(120)−村島「アメリカ巡礼」(5)

  「雲の柱」昭和7年4月号(第11巻第4号)への寄稿の続きです。

         アメリカ巡礼(5)
         太平洋沿岸
                          村島帰之

  (承前)
   スタクトン

 まづスタクトンの支那人街のあるレストラントへ着く。ここで歓迎會が催されるのだ。
 農業大會で思はぬ時間をとられたので、會衆は空腹を抱えて待ってゐてくれられた。私と向ひ合って食卓を共にした須藤夫人は、関西學院の岸波さん夫妻を知ってゐられて話がはづむ。

 歓迎會がすむと、大阪毎日の販賣店をやって居らるゝ○○○さんの案内で、ここの名物、支那賭博場を見る。家号を月華殿といふやうな支那名の外に松島、東京、横浜などといふ日本の名称をも並べてつけてあるところは、明かに日本人が善いお客であることを物語ってゐる。

 それからスタクトンの住宅区域を走って石川栄助博士邸に行く。道幅も廣く、街路樹の美しい街だ。

 石川博士邸の近くにフィリッピン人の本部があるが、先般、一フイリッピン人が白人の女を凌辱したといふ事がら、リンチ事件が起こって、この本部に爆弾を投げたものがあったといふ。入口の階段がヘシ飛んで今はその影さへ見えない。

 七時からハイスクールのオーデトリアムで講演會。聴衆約千五百。學校の講堂でも立派なオーケストラボックスもあれば、美しいビロードの緞帳も下りてゐる。シートも勾配になってゐやうといふ堂々たるものだ。青年の音楽があって後、先生は「日本の神の國運勁」について述べた。

 八時から朝日座で日本人講演曾。街路樹の影に美しくないミシンが百数十台もパッキングしてゐる。いふまでもなく、近郊から先生の講演を聞きにかけつけた同胞農夫のミシンだ。どうか賭博などに金を費さないで、信仰の道を辿ってくれゐやうにと祈らずにはゐられなかった。決心者三十名。

 先生は石川博士邸に泊り、私だけは石丸さんの夫人が経営してゐるサンジョアクイン・ホテルに泊る。

 ホテルはイタリー人の住宅地帯の中にあって宿泊客中にもイタリー人が多いといふ事だ。
 「不用心ですから、ドアには必ずキーをかけるやうに」との注意を受ける。

 スタクトンは人口六萬。ホテルの数は五十三あるが、その内三十八(六割)は日本人の経営だといふ。客商用は日本人が一番適当なのだ。

    ヨセミテ

  十日

 七時起床、今日は石丸正吉氏(前日のドライバーは氏の令息)のドライブで熊の棲むといふ國立公園ヨセミテ行だ。

 まづ石川博士邸へ寄って一緒に朝飯をよばれる。
九時、大山夫妻を始め大勢に送られて、ヨセミテヘ百二十哩のドライブ旅行の途に上る。一行は先生、僕、坂口牧師、石丸さん、それに救世軍のスタクトン小隊長大利大尉外一人、都合七人。

 この辺は砂糖大根の産地と見えて、まるで砂利を積むやうに砂糖大根を乗せて行く貨物列車を見る。

 もう夏の季節を外れてゐるし、それに休日ではないので、ヨセミテ行のミシンも少い。
 町を離れ二時間も行くと、私たちは見渡す限リ一台のミシンの姿も見えない(もちろん、犬ころ一匹歩いてなんぞゐない)平原を走る事が出来た。両側はまぐさの原だ。處々に放牧された牛馬を見るだけだ。

 退屈だらうといふので、石丸さんが、農業の話をしてくれる。
 近頃は第二世の名前で土地を買ふ人が殖えて来たが、第一世でも表面は賃銀労働者で、而も事実上は収益の分配契約が出来てゐて、日本の小作人のやうな状態でやってゐる人が多く、大体に日本人も落ついて来たやうだ。
 昔のやうに一儲けしたら日本へ帰る――といふやうな気風は漸吹減って来た。第二世が大きくなったので、帰国するよりもこの國に居った方がいいと判って来たからだ。地主もメキシコ人などと違って、日本人は土地を大切にするので悦んでこれを迎へるといふ風がある。

 石丸さんの農場はアマゾン川の川下の低地で四十年前、ポテト王牛島謹爾氏の拓いた十八萬ヱーカーもあらうといふ平原の一部で、約四百エーカーを作ってゐる。元は川の三角州だった関係からガマが腐って出来た土のことゝて、土のかたまりに試みに火をつけるとポーッと燃え上るといふ有様だ。従って土地は肥沃で何でもよく出来るといふ。

 川には鯉が沢山ゐて、始めは汁等にしたが余り多いので、今は殆ど省みずほってあるといふ。

 「勿体ないね。養鯉組合でも作って販路を拓いたらどんなものかな」と先生が羨しさうにいふ。

 石丸さんは本年五十三歳、土佐の人。二十二年前に此方へ来て、今では大きな農場を持って多数のヒリッピン人を使ってゐる。

 賀川先生が、土地を焼いて灰を作る事をすゝめると、
 「私はもうやってゐます。地主は嫌ふけんど二年に一度位、二吋ほど焼きます。確かにきくですよ」
と相槌を打つ。

 道はいよいよ山にかゝった。道がうねる。渓流に沿ふたところに、上り道だのに下って行くやうに見える。山道に自動車も十五哩しか出ない。

 ヨセミテは、アメリカインデアンの住んでゐた處だが、アール・ウイルソンといふ人が狩猟に来て迷ひ込み、捕はれ、殺されるところを酋長の娘に助けられ、後、この娘と結婚して、つひに此の土地の所有者となったのだといふ。

 海抜三千尺。二萬年前、地球の氷河時代の産物で両側は何千尺といふ高い岩が屏風のやうに立ってる。立木も何百年斧を入れぬといふ鬱蒼たるものが昼なほ暗く茂ってゐる。

 公園の人口では二弗の入園料をとられる。博物館へ行って、インデアンの遺物などを見て、キャンプハウスに落つく。

 ハウスは六畳敷位の木造で、ベッドが二台と鏡台や机もついてゐる。ストーブもある。私は先生とその一軒を借りた。

 水に外へ汲みに行く。便所も小半町行かねばならぬ。が、その不便さが却って趣味があるのだ。

    (つづく)