賀川豊彦の畏友・村島帰之(128)−村島「アメリカ巡礼」(2)

  「雲の柱」昭和7年6月号(第11巻第6号)への寄稿の続きです。  

        アメリカ巡礼(2)
        ロサンゼルス其の他(二)
                             村島帰之

     (前承)
     インペリアル・バレー

   十八日
 眼を覚ましたのは六時、昨夜は暑熱を怖れて、全部の窓を開け放って網戸だけで寝たのだが、暁方はさすがにひんやりとした。窓から眺めると、デーツの木が巨人のやうに突っ立って、可愛いゝ実をブラ下げてゐる。蟲除けのためか、各房に紙袋をかぶせてあるが、たいしゃ色の実がその紙袋からはみ出して、赫顔の百姓が頬冠りしてゐるやうに見える。

 赤星氏の話では、デーツは初め南米で栽培して見たが駄目。そこで、此處で試作して見て成功したのでアメリカ政府でも大に奨励してゐるのだとの話。
 喰べて見ると、熟柿を更に甘くしたやうな味だ。

 赤星さんは白人の料理人をして居られたが非常に主人に信任されて、主人の死ぬ時、家も建てゝ貰ひ、少なからぬ遺産を貰はれ、今はその未亡人を扶け、メキシコ人を使用して、デーツの栽培をして居られるのだ。正己、和子、華子といふ三人の可愛いお子さんが居られる。

 メキシコ人は粗末ながら小屋を提供して貰って労銀は一人三弗だといふ。日本人はどうも使ひにくいがメキシカンは使ひいゝので使つてゐるのだといふ。

 自動車で教会へ行く。途中、スクール・コーチ(學校の自動車)を待受けてゐるハイスクールの女の児を二三人見受けた。

    洗礼式
 八時から先生の農村開発の講演。終って、堂後の森で高野健作氏の洗礼式を行ふ。
高野氏は全村基督者の中にあって久しく酒盃の友となってゐたが、夫人の熱心な奨めで、つひに仲間入りをされる事になったのである。夫人は今、重病の床にあるといふので、先生は養生の心得を手記して贈られる。

 前夜から詰めかけて、けふの集会に遅れぬやう、先生を連れて行かうと意気込んでゐるプローレーカレキシコの人々は、洗礼式の済むや否や、先生をせき立てて自動車に乗せる。私たちは、なつかしき此のクリスチャン村にいひ知れぬ愛着を持ち乍らも、時間の制限から、わづか一日にして立去らればならない。尻から追ひ立てるプローレーの諸君を、すまない事だが、うらみに思った。

 九時半、自動車は高速度で走る。ロサンゼルスの兄弟たちが運転する時には、先生の健康を思ってせいぜい三十哩しか出さない速力を、今日は他の地の人なので走るは走るは。

 モッㇳ遅く行ってくれと言っても、時間に遅れてはといふのだから話にならない。
 道はいよいよインピリアル・バレーに這入る。

    海面下二百尺の低地
 この辺は海面下十九尺乃至二百尺の低地で、加ふるに左右には、立木一本ない山が屏風のやうに聳えてゐるのだから暑い事此の上なしだ。山あひから、強い風が吹下すがそれが温いのだからやり切れない。

 「一体此の辺の気象は凡て男性的ですよ。暑さもきびしいし、寒さもきついし、それに、この通り風までが荒いんですからね。だから、この男性的気象によって鍛へられた此の地方の人は皆健で元気ですよ」
と、案内役の國分牧師が説明される。

 インピリアル・バレーは、最初は独逸人が開拓し初めたのだが、中途で引揚げて行ったのを今から約二十七年前、日本人が引継いだのである。インピリアルの名のあるのは、日本帝國の意味ではなく、独逸帝國の事なのだが、今日では日本人によって開拓された上地として、日本帝国のインピリアルの如く思はれてゐるさうだ。

 日本人は約三千人。主として沖繩県の人で果実の栽培に従事してゐるが、レタース約四萬エーカー、メロン四萬エーカー、ピー一萬エーカーといふ畑地面積を算してゐる。

 以前はそれぞれ土地を所有してゐたが、果物の暴落で大損を招いて、銀行から借金をし、翌年はウンと儲けて借金の帳消しをしやうとして投機的に大量栽培をやった處、またもや損。そのため折角の土地を二束三文で銀行に抵当流れに取られて了ふたといふやうな向が多く、昨日の地主に変わるに今日では、純農業労働者を以てしてゐる人が少くないといふ。

 日本人が日本人を信用しないで、金を融通せないし、日本の銀行はあっても正金の如き、為替銀行で、農家に金を貸さぬのだから、日本のお百性は白人の銀行の餌食となる許りなのだ。金融制度の確立が何より必要である。

 間もなくソルトン湖が左に見え出した。コロラド川の氾濫の時、この凹地に水がたまった儘引かないで湖となったのだといはれる。さういはれて見ると、山の肌に、その氾濫した水の跡が明かに一線を引いて残されてゐるのが見られる。

 バレー一帯、未耕地だらけで、徒にブラシの草が繁茂してゐる許りだ。
 「なぜ開かないのでせうね」と訊くと、何しろ川がないのだから、耕作するためには、まづ井戸を掘らねばならない。それには少くも二千弗の金が要るが、若し掘り損へば大損になるから、うかつには掘れないといふ。アブラハム、イサクの昔語りを聞くやうな思ひがした。

    プローレー
 いよいよインペリアル・バレーの中心地プローレーの町に這入る。小ぢんまりとした市街を通って日本人教会へ行く。立派な教会だ。なんでも此の市中では一番善い教会ださうで、日本人のこどもはこれが白人のこどもに對する大きな自慢なのだといふ。

 勿論、教會は日本語學校を兼ねてゐて、百八十名の生徒を収容してゐるが、そのために児童送迎用の自動車三台とバスー台とを持ってゐるといふ事だ。

 佛教徒の方でも同様、語學校を持ってゐて、ほぼ同数の生徒を収容してゐるが、基・佛双方共、くだらぬ競争や攻撃は控へてゐるとの事だった。

 児童の送迎自動車といへば、ここでもㇵイスグール、グランマースクール共に送迎自動車を出してゐるが、うれしい事には、こゝの白人は日本人の開拓の功績を感謝してゐて、メキシコ人や黒人は白人と同じ學校へは入れないが、日本人は歓んでこれを迎へ、自動車も白人並に出してゐるといふ。

 殊にうれしい事は、この町から十数哩離れたところに一軒の日本人が住んでゐて、そこからㇵイスクールに一人と、グランマースクールに一人のこどもを出してゐるが、市では毎朝二台の自動車を特別に仕立ててこの二人のこどもを送迎しゐるといふ事だ。

 インピリアルバレーには排日はなく、親日だけがあるのだと思って、しみじみうれしくなった。

 教会に這入って一杯のアイスウオーターを呑んだ時の快さ! 喉を通って行く水がハッキリと感ぜられた。

 「先月は百二十八度に上った事がありましたよ。その時、公園の木の下で空腹を抱えて寝てゐた放浪者が三十人ほど日射病で死んで了ひました。畑にゐる人たちも水をひたしたタオルを頭にのせて、ただじっとしてゐるだけでした。動くと暑くてやり切れぬから動かずにゐる事が唯一の避暑法なのです。蝿もさうなるとモウ飛べないで、ノロクサノロクサと這ってゐるだけです」
と、教会の人が説明される。

 此の辺の児は雪といふものを見た事がない。霜も殆ど降りた事はなく、若し降りればトマトの収穫に大影響を及ぼすといふのだ。
 空は曇った事がなく、日が出ればその儘直射するのだから暑いのも道理だ。
 水はこの市の附近はアリゾナの方から引いてゐるので世話はない。

 正午からホテルで市民の歓迎会に臨む。冷却装置があるので涼しい。市長なども出席した。午後一時から教会で説教。私が前座を勤めて先生の働きについて語る。
 先生の説教で五名の決心者が与えられた。

    エルセントロ

 プローレーの説教の終ると同時に、またもや白動車に乗ってメキシコざかひのエルセントロヘ。
 無理なプログラムだと思ふ。一日に場所を替へる事三度、その間白動車で運ばれること二回約八十哩。

 最初プログラムには、コーチュラとモウ一箇所だけといふ事になってゐたのに中途から殖えたのだといふ。
 エルセントロはメキシコに接近した、つまりアメリカの最南端の都市だ。それだけに暑いことは非常なもので、両側の家の前には、いづれもトンネルのやうな日除けの屋根が出来てゐて、通行者はその下を往来してゐる。
 街路は自動車のみが通る。

 アメリカの、飲みたくて飲めない連中は、ここを通ってメキシコへ這入って行くのだが、國境の向ふは、天下御免の酒場が軒を並べておいでおいでをしてゐるといふ。私は多くの酒に関する面白いエハガキを買った。

    メキシコよりの密航者

 酒の密輪も多いが、人間の密航も多く、年に三十名位の密航者が捕はれるといふ。多くは、(七割までは)海路を傅って来るので、ロシア人の漁夫なので、専門にその手引をするものもあって、二百弗から三百弗も手数料を取るが巧に上陸させるといふ。

 陸路を来る者は夜、トラックの荷物の下に潜んで、國境を突破してくるのだが、多くは日本人か支那人だといふ。中には帰國しやうとする支那人で、金銭や荷物は先に支那へ送還して貰はうとする者もあるといふ。

 メキシコへは宗教家を入國させない。メキシコは元来スペインの領地でヂェスイットの勢力範園であったが、今日では基教殊にカトリックに反感をもって極端な圧迫だといふ。で、國分牧師などは、SS學校の教師といふので往来してゐるのださうだ。

 ホテルのパーラーで小憩後、先生は古本を見に出かけた。

      (つづく)