賀川豊彦の畏友・村島帰之(129)−村島「アメリカ巡礼」(3)

  「雲の柱」昭和7年6月号(第11巻第6号)への寄稿の続きです。  
        アメリカ巡礼(3)        ロサンゼルス其の他(二)
                             村島帰之

    (前承)
    賀川先生病む

 七時から説教。その前に先生がトイレットへ行かれると、心配してゐた腎臓から到る小量の出血があったといふので、私たちは色を失って狽狽した。

 明朝カレキシコでやられる予定だった講演は断然中止とし、そのため今夜の集會のすんだ後、カレキシコの信者の宅まで泊りに行くことも中止して、近くのホテルで休んで貰ふ事に決めた。明日のサンデアゴの午餐會もやめたいと思ったが、これは中止出来ない事情のあるのを知ってこれだけは出て貰ふ事にする。

 説教は最初は第二世に對し英語で十五分ほどやって貰ふと云ふ約束だったのに、倒れるまでやるといふ決心を持った先生は、却って四十分近くに亙って長広舌を振はれた。私たちは楽屋でハラハラしてゐるのだが、先生は病気の事などは忘れたかのやうに、冗談を交へ乍ら元気で話をつづけられる。

 英語演説が終わって、息抜きのために私が出て少し喋舌る。そして先生の病気の事を話して、日本語演説も簡単にして貰ふからと断りをいったのだが、いざ先生が再度演壇に現はれて話し初めると、これはどうしたといふのだ。いつもよりも永く話されるではないか。
 私たちは「先生も余りだ」とこぼし合った事だ。

 小数しかなからうと思ってゐた決心者が二十五名も与へられた。
先生が降壇されると直ぐ引浚うやうにして無理に裏から自動車でホテルヘ運ぶ(全く運んだといふのが適当してゐる)そして比較的静かな一室へお入れして、面会人は一切断った。
 徳牧師と私とは隣室に部屋をとって只祈った。

    サンデアゴ
   十九日

 心配で徳牧師も眠れなかったさうだ。私も同様だった。午前二時頃、火事が近所にあったのも手伝って――。
五時半には二人とも起きてゐた。先生はさすがに疲れて居られたと見えて七時まで眠られる。そして元気な声で、
「もう大丈夫だ。よく眠ったから」
といはれる。

 近所のランチで朝飯をたべて、八時には早くも自動車で百二十哩を山越えでサンチヤゴに向ふ。

    メキシコを遠眺して
 けふのドライバーはイエスの友の井ノ下さんだ。ミシンも善し。ドライバーもよしと来てゐるので山路も安心だ。振りかへると、来墨の國境をなしてゐるシグナル山が三角錐のやうに見える。

 山路にかゝると一面の石塊の堆積だ。誰が積んだのかと疑はれるほど上手に積重ねてあるのだ。そしてその石と石の間に、いろいろの形をしたサボテンが、とぼけ顔に突っ立てゐる。

 「サボテンは政府が保護してゐて、濫伐を防いでゐるのです。で、たとへ買っても受取りを貰っておかんと後で面倒です」
と井下さんが説明される。

 峠にかゝると、ひどい風だ。後の自動車を待つために、自動車を下りると、横倒しに倒されさうな風である。
来た道をと振り返ると、インペリアルバレーが、まるで海のやうに平らに瞰下される。そこで同胞が営々として働いてゐるのだ。

    移民官の取調べ

 峠を降りて小さな部落へ這入ると、後から来た自動車が、われ等を追い越して、ストップの合図をする。
 アメリカの警官だ。メキシコからの密入者を警戒してゐる移民官だ。

 同乗してゐた中村牧師が旅券を見せて賀川先生を説明する。私も旅券を見せた。
 「日本への帰り道ですか」とあいそをいって、
 「オーライ」だ。

 かくて、正午少し前、サンデアゴ市に着。一まづメーランドホデルヘ落つく。
 正午から、ホテル・サンデアゴで白人たちの歓迎會。會衆約四百。一流の淑女紳士だといふ。百貨店の持主で親日家のミス・ヘレンといふ女性などが気焔をあげる。

 先生の演説は素晴らしい出来だった。日本がアメリカの宣教師によって啓発された事を感謝し、今ではアメリカよりも却って日本の方が浄化されてゐると説き、何ならば、日本から宣教師をアメリカへお送りしてもよい。諧謔喝釆を博した。

 前夜の事があるので。夜の講演の時まで先生をホテルに監禁しやうとしたが、先生は頑として従はない。結局、一時間だけといふ条件付きで、自然博物館だけを見せる事とし、三時にはホテルへ連れ戻って無理に休養して貰ふ。
 私は駅まで徳牧師と同行し、そこでカウボーイ藁人形とメキシコインデアンのトーテムを買ふ。

 サンデアゴは軍港だ。日本を目標にした軍港だ。明るい街だ。空気が善いので、金持の隠居が沢山に住んでゐるといふ。
 曾てパナマ記念博覧会のあったといふ公園を通り抜ける。その公園に接近した高台の住宅はそれ等の金持の別荘らしかった。

 私も前日の睡眠不足を取り返すために一時間ほど午睡する。
 六時から日本人教会で晩餐曾。会衆百五十人。中村牧師は此處を牧してゐるのだが在米三十年加州同胞発達史の生字引だ。

 八時半から第一バプテスト教会(白人)で日本人のための説教會を持つ。
 例によって私が前座を務める。先生は全く元気を恢復して一時間除り話される。

 私はその間に一寸附近を歩いて見た。軍港らしく水兵さんが右往左往する。中には五六人でミシンを操ってゐるのもあった。ダンス場からジャズがもれる。此の夜の決心者十四名。

 私たちはロサンゼルスヘ帰るのに、明朝の飛行機をとるか、今夜の汽車を取るかに迷ったが、先生は早く羅府へ着く方がいいといって後者を指定される。
 で、十時、ステーションヘ行く。アメリカとしては最南端の、従って終点の――ステーションだ。

 寝台に這入る。徳牧師は上段、先生と私は下段。徳さんに済まないと思ひ乍ら眠る。
 汽車は二時になって動き出すのである。

       (この号はこれで終わり)