賀川豊彦の畏友・村島帰之(130)−村島「アメリカ巡礼}(4)

   「雲の柱」昭和7年7月号(第11巻第7号)への寄稿分です。

         アメリカ巡礼(1)         羅府を中心にして
                         村島帰之

   九月二十日(日曜)
 眼をさますと汽車の中だ。八時、ロサンゼルス着。小川牧師や、前夜自動車でサンチアゴから夜道を帰羅した高橋さんや、大坪さんたちが早や先廻りして出迎へに見えてゐる。

 直ぐ合同教会へ行くと、折柄、早天祈祷會がすんで、食事が始まる處だったので、一緒に食事をする。

 皆は、先生がエルセントロで倒れられたと聞いて心配してゐる處だったので、元気のいゝ先生の顔を見て一同大悦びだ。

 先生は立って「さう心配する必要はないのに、徳さんと村島さんとで、すっかり僕を一室に監禁して了ふので・・・」と笑ひ乍ら話される。
 徳牧師も私もその後から釈明したり笑ったり。何しろ、笑って済ませる事の出来たのは感謝の極みだ。

 十一時から南加大學の講堂で、二度目の聯合日曜礼拝を持つ「七つの仮装」といふコリント後書六章のお話である。決心者十一名。

 午餐は徳牧師邸で。それから先生はメソヂスト教会に開かれた第二世の青年大會に臨み、さらに義勇伝道者の集りに出て奨めをされ、夜は白人長老教会へ出られる。

 最後の白人の集會には無慮二千五百の聴衆が集って収容しきれぬため、時間前二十分位に戸はしめられ、空しく帰る人が多かったといふ。

 私は先生の留守居の意味で牧師さんたちは、全部白人の方の集會に出て居られる合同教会の日本人の集会に出て、「天國日本と地獄日本」と題して一時間ほど話た。聴衆約三百名。非常な盛況だ。

    エスの友の集り
   二十一日
 朝六時からイエスの友の集曾を持つ。疲れられてゐる先生の眼をさまさぬやうにと、地下室で讃美歌も小声でやったが、矢張り先生は七時には出席された。

 私はそこでイエスの友會の現状を話し、先生はイエスの友の歩むべき道を述べられた。
 この時、平田ドグトルーは立って「此の度先生が武蔵野で始められろ傅道事業のために一弗献金をやりたいと思ふ」と発議され、忽ちにして数十口の申込があった。これは向ふ五年に亙り毎月各人が一口一弗づつを献金するするものである。

 六年前には、恰度その頃先生が始められた大阪の四貰島セツルメントのために、一弗献金を開始し、五年間の久しきに亙って毎月百弗づつを送金して来られたのが、今度は改めて武蔵野傅道のために献金せられやうといふのである。

 イエスの友会に今朝の献金三十五弗をいたゞく記念寫真をとる。
 先生はこの集會の終ると共に白人美以教会の白人牧師會に出席、ついで加州大學で學生のために講演された。

 加州大學の學生團は先生の農民福音學校に大に共鳴し、これが校舎の建築資金として数百弗か寄附したいと申出た。

     リバーサイド

 午後三時、七十哩ほど距ったリバーサイドに向ふ。自動車は井下さん。一行は先生、徳夫妻、鵜浦牧師、高橋、田中、植松の諸氏と私。植松さんは活動寫真機を持參である。

 赤い実を地上一面に落としている何とかいふ木や並木の下を自動車が走る。日光附近の並木の下を行く心地だ。

 ガム樹は成長が早いので、かうしたドライブウェーの並木には持って来いだ、と鵜浦さんが話される。

    基督者市・禁酒市

 善いハイウェーだ。一九二六年、日曜學校大會がロサンゼルスに開かれた時、出席した日本代表二百名が五十台の自動車をつられて此の道を走ってリバーサイドに向ったのだったが、特に警官が先駆してくれたので、六〇哩をノーストップで走りつづけたといふ。

 「葬式の列までが一行の通る間、立止ったほどですから大したものでしたよ」
と、その時も自分のミシンを提供して世話をされた井下さんの話。

 この辺一帯は蜜柑の産地だ。蜜柑畑がつづく。鵜浦、徳両牧師共に、苦学時代に蜜柑ちぎりをして学資を稼いだといふ昔話が出る。背が低くて、手先の器用な日本人は、蜜柑ちぎりには向いてゐるのであらう。

 ルピト山上の十字架が見える。毎年イースターには羅府及びリバーサイドの信者が悉くこの山上に集まって祈祷会を開くのだといふ。

 リバーサイドの町に這入る。美しい街だ。大きなシュロの樹が立ち並ぶ。この街は禁酒法実施以前から禁酒を実行してゐるドライ・タウンで、人口四万しかない此の市に、四十の教会があるといふのだから、如何に精神的な町であるかが窺われやう。仏教は、ここに限って入る事が許されず、わずかに国語学校としての仕事が許されてゐるだけだ。名実共のクリスチャン市である。

     (つづく)