賀川豊彦の畏友・村島帰之(131)−村島「アメリカ巡礼」(2)

  「雲の柱」昭和7年7月号(第11巻第7号)への寄稿の続きです。

         アメリカ巡礼(2)         羅府を中心にして
                         村島帰之

   (承前)
   ミッション・イン
 リバーサイド教会の高橋牧師や柴田さんの案内で、有名なミッション・インへ行く。(インといふのはホテルとほぼ同じ意味、旅籠か)。

 修道院風に建てられた高雅な建築だ。鐘のはめ込まれた蔦のからむ古風な門をくぐって、いろいろの南国植物の葉の下を行くと、そこには支那の寺院の鐘があったり、中世の、色彩のある古い聖像が置いてあったりして、二十世紀に生存してゐることを忘れさせられる。

 ここは五十年前、南加州を開拓したゼスイットの宣教師を記念して建てたものだ。建設者キャプテン・ミラーは南北戦争当時の大将で、最初百五十弗の金を持って平屋の建物をたてたが漸次建てまして今日に及んでゐる。創立当初から全然禁酒ホテルで押し通して来てゐるのである。

     親日家ミラー氏

 現経営者フランク・エー・ミラー氏は親日家として知られ、或は親友ルーズベルトに勧告して、日本人に帰化許可の途を講ぜしめ、或は1907年の桑港における学童問題の際には率先して日本人を擁護し、或は排日土地法に対しジョルダン博士と共に防止運動に奔走し、或は加州土地法に際しては各地を巡回して反対演説を試みた等々、日本の為に尽くした事は枚挙に遑がない。最近の人形使節交換も此の発意だといはれる。日本の勲三等の帯同者だ。私たちが玄関に行きつく前、そのミラー夫妻はわざわざ一行を出迎へに門際までやって来た。

 夫妻ともに背丈は高いが、しかし痩せすぎの、どっちかといへば弱い健康の持主の如く思はれた。
ミラー翁は広い額の下に、柔和な眼を微笑ませて一人一人の手を握った。
夫人は、つつましやかに夫ミラーと並んで一人一人に握手した。

 夫妻は親友ヂョルダン博士(有名な親日家)の葬儀に行かねばならぬのを、是非賀川氏に会ひたいといふので一日延ばして待って居られたとの事であった。

 私が日本の新聞記者だといふと、更に強く手を握った。毎日新聞の名も善く知っていた。
パーラーにも、いろいろの骨董品が置かれてあった。食堂へ通ふ木のドアには聖フランシスのいろいろの物語が彫刻してあった。

 案内所の脇には大統領タフトが腰かけたといふ大きな木のチェアーが置かれてあった。私はそこへ腰を下ろして見た。
 「どうです。大統領に見えませんか」
 「痩せっぽちの大統領ですな」
 誰かが笑ふ。

 全くだ。私なら二人、裕に腰を下ろせるほどの広い椅子だ。曾てタフトが電車の中で婦人に席を譲ると、その後へ二人の婦人が腰を下ろすことが出来た――という挿話を数年前、どこかで読んだ事を思ひ出す。

 私たちは中庭で食事を共にする事になった。西班牙風の建物が四方に立てつらなった中央、約百坪ほどの庭園には多くの卓が置かれてある。卓上には蝋燭が点ってゐる。燭台には可愛らしい小さな鐘がつられて、それでボーイを呼ぶことになってゐる。

 ミラーさんはわざと遠慮して食卓へは出て来ない。私たちはそこで水入らずで食事をとった。「きれいな月ですよ。御覧なさい」と徳牧師がいふ。

 西班牙の月なのか、アメリカの月なのか、それとも日本の月なのか、あくまで澄んだ月光を仰ぎ乍ら、私たちは落ちついて、楽しい食事の時間を過ごした。

 寝室としてミラー翁が特に賀川先生にルーズベルトの寝た部屋を、私にはその隣室のタフトの泊まった部屋を提供してくれた。共にガッシリとした木製の分厚いクッションのついたベットが置かれた古めかしい部屋であった。

 が、賀川先生は、
 「僕は無産者だから、こんな部屋はいやだ。それよりも聖像のある部屋に泊めてほしい」
 といひ出した。ミラー翁は早速と部屋を変へてくれた。今度のは二階の南向きの明るい部屋で、そこには注文通りの聖像が、壁の中にはめ込みになってゐた。

 部屋の隅が穴倉のやうになってゐて、そこに手紙を書くテーブルが置いてある。
 特に主人の心ざしであらう。メロンを盛った竹かごに日米の国旗が挟んであったのは。

 すべてのもてなしが、親日家ミラー翁の温かい友情から出てゐるらしく、うれしい限りであった。そればかりではない。与へられた部屋には二つのベットがあったので、先生と私とが寝る事にして、隣室には徳夫妻を迎へやうとした處、支配人は曰く、
 「賀川氏は是非一人で一部屋に寝て貰ふやうにして、村島氏はその隣室に矢張り一人寝て貰ふやう、ミスターミラーからの申し付けだから――」と私たちはミラー氏の細かい心づかいに、涙の出るほどうれしい思ひをした。

 八時からユニテリアン教会(白人)で、まづ白人のための説教が開かれる。ミラー翁もわれ等と同行される。聴衆約二千。

 教会堂は片側だけに二階があり、正面教壇の上のデザインもわざと両側を異なったものにした風変わりのものであった。
 聖歌隊の合唱があって、先生は元気に説教された。話の中へ大阪毎日と私が飛び出したりした。

 白人の集まりが済んでから、改めて日本人の集まりであった。コーチュラからも境さんや佐々木さんたちが大勢でやって来てゐた。先生は大分疲れてゐたので、邦人への説教は短かった。ミッションインへ帰って、果物を食べながら暫く話して後眠る。大統領の夢は見損なったけれど。

     (つづく)