賀川豊彦の畏友・村島帰之(132)−村島「アメリカ巡礼」(3)
「雲の柱」昭和7年7月号(第11巻第7号)への寄稿の続きです。
アメリカ巡礼(3) 羅府を中心にして
村島帰之
(承前)
二十二日
七時起床。聖オーガスチィンの彫刻のある扉を押して食堂に入る。私たちのためにこしらへてあったテーブルは、日々ミラー翁夫妻のつくテーブルだと聞いて、けふも朝から、翁の好意をひしひし感じさせられる。
食後、暫く美術品を見て廻る。
素晴らしいコレクションだ。しかも悉くが宗教に関係のあるもののみで、就中、鐘の聚集は驚く計りだ。
大化二年本多義光寄進の銘のある―一かかえ半ほどある鐘――蒲団の上に据えられたもの――は、日本でも最も古いものだらうといふ。
先生はその鐘をしゅ木で敲いて見た。善い音色が、美術品の上を漂ふ。
礼拝堂もあった。別に聖オーガスチィン教会の建物がメキシコから移されて工事中のものもあった。日本の寺院の一部も丁度建築中であった。
私たちはこれ等の美術品を前にして植松さんのフィルムに入った。
ミッション・インは、私たち一行の宿泊、食費一切を徴収しないのだといふ事を聞いた。
ポモナ
八時、ミッションインを辞して、ポモナに赴く。そして十時からポモナ大学で講演会。聴衆学生約五百。
懐かしき博士ラーネッド
そこで珍しくニューエル博士に会ふ。
「シヤトル以来ですな」
と挨拶され、隣席の田舎老爺のやうな紳士を紹介される。
「ドクター・ラーネッドです」
ああラーネッド! 同志社大学に在る事数十年。日本で社会政策の講義をした最初の人――が此の人なのか、と、しみじみ手を握る。
聞けば、このポモナは、組合教会から各地へ派遣された宣教師が、宣教の戦ひを終わって帰国した後、その老後を静養する場所だといふ。
さう聞くと、ここに世界の宣教師の何ページかが活きてゐるのだと思って、敬虔な気持ちになるのだった。
先生は約四十分に亙って講演した。
それから晩まで時間があるので、自動車で、ひとまずロサンゼルスへ帰る。
ライオンフアーム
午後四時、再びポモナへ赴く途中、ライオンフアームに立ち寄る。二百匹のライオンがここで育成せられてゐるのだ。
丁度、時刻が来てライオンは檻へ追ひ入れられるところだった。大きなライオンが園丁のさし出す鉄の棒一つで、従順に通路を通って狭い檻の中へ入って行く。
四畳くらいの檻に二三匹づつ詰め込まれて眠るらしいのだが、喧嘩もしないで仲がいい。たえず檻の中を動き通してゐるライオンが、うずくまってゐるライオンの頭の上をしじゅう跨いで通るが、跨がれる方でも手筋一本動かさない。
猛獣といふ気は少しも起こらない。
一匹のライオンが吠えだした。すると同じ檻、隣りの檻にゐるライオンがこれに和して吠えだした。本当の獅子吠だ。狭い家に響いて物凄い。私はこわごわその方へ寄って行った。すると、吠えたててゐたライオンが、ピタリと声を収めて了った。
これが百獣の王のライオンだらうか。何と可愛い王さまではないか。私は頭でも愛撫してやりたい気がしてならなかった。
次で、ベビーライオンの檻へ行く。多くの子獅子が、圓木に登ったりして戯れてゐる。まるで猫の子だ。
園丁の話では、母乳で育てた子獅子と、牛乳で育てた子獅子とは、毛の色が違ふといふ事だ。事務所の婦人は、一匹のベビーライオンを抱えて出て来た。
「生れて二十日目です。牛乳で育ててゐますが、こんなに温順しいのですよ」
と、背を撫ぜて見せた。子ライオンは喉を愛撫された子猫のやうに声を出して鳴いた。
同行の一人が触りかけて、怖しさうに手を引こめた。
「背中を撫ぜるだけなら大丈夫です」
といはれて、彼はこわごわ撫ぜてるヨセミテの熊といひ、このライオンといひ、敵意と飢餓がなかったら、さう生物同志が喰ひ合ふものでもなく、却って親和すゐものだといふことを泌々教えられた。
人間同志だってそれに違ひない。
先生にそれからポモナヘ。私ちちはまたロサンゼルスへ引き返す。そして高橋さんの御馳走になる。
後から聞いた話だがポモナでは新築のオーデトリアムに溢れるやうな聴衆だったが、先生はここで始めて貧民窟物語をされ、偉大なる感動を与へられた。
ポモナ大學の二人の學生は徳牧師に、自分も學校を出たら無産者の為め全生涯を捧げたいからミスター賀川に是非握手して貰ってくれと頼んだ――。
(つづく)