賀川豊彦の畏友・村島帰之(133)−村島「アメリカ巡礼」(4)

   「雲の柱」昭和7年7月号(第11巻第7号)への寄稿の続きです。

         アメリカ巡礼(4)
         羅府を中心にして
                         村島帰之

   (承前)
    加州大學講演
   二十三日
 先生は前夜ポモナの講演をすませて、ハリウッドに引返し、同夜はハンター氏方に一泊、けさは七時半から加州大學の朝餐会に出席、三百名の教授、學生を前にして「平和論」を講演せられたが、その席上には主戦論のムーア總長も列席してゐたといふから皮肉だ。
その後で學生の質問を受けたが、一生徒が「日米間の友情を促進する方策如何」と質したのに對し、先生は言下に「移民法撤廃」とやって退けられたさうだ。

 十時。先生は一応、合同数會へ帰られたので一緒にパサデナに向ふ。
 途中、オーストリッチ・フアムに立寄る。

    オーストリツチ・フアーム
 駝鳥が百七十匹ほど飼養されてゐるのだ。生後五日六日といふやうなひよこの蛇鳥が日和をかけ廻ってゐる。一匹十五弗だと訊いて、古谷さんは「買ってこか?」といふ。

 蛇鳥は一夫一婦だ。四歳ぐらいになると、異性の中から恋人を選び出して、生涯連添ふで離れないといふ。そして、ふたりの間に生れた卵は、昼は父が、夜は母がその翼の中でぬくめる。そのために、男の羽は灰色で砂漠に對してカモフラーヂとり、女は黒色で夜の目に外敵から発見されない様になってゐる。

 ひなは二年たゝねば性別が判らない。その頃になって黒くなるもの、灰色になるものの区別がつく。各オーストリッチには、ルーズベルトだの、フーバだの、リンデーだのと、大統領や飛行家の名がついてゐる。リンデー夫妻の如きは世界一の大蛇鳥で、一季節に百十九の卵を生むといふ。

 私たちは園丁から蜜柑を貰って蛇鳥に喰べさせた。彼等はそれを丸呑みだ。長い喉を通時、丸口のみかんが胃部へおりて行くのがわかる。

 賀川先生と私とは一匹の蛇鳥の曳る車に乗せて貰った。十数貫の人間を、やすやすとひいて行った。
 彼等の卵は人間の子供の顔ほどあった。そして石のやうに堅くて重い。そのためには、石をも食べさせるといふ事だ。何といふ物凄い胃袋だらう。

    バ サ デ ナ
 正午、パサデナの第一浸礼教曾の午餐曾へ。社交室には六百の紳士淑女が集ってゐた。
長老教會のフリーマン氏が司會した。彼の教会には千萬長者の信者が六十人もゐたさうだが、彼の自由思想が災ひ(?)して、半数は教會を脱退したさうだ。アメリカの教会の商業主義化だ。

 午餐を終って説教。パプテスマを施す場所が正面上段に王座のやうな位地を占めてゐる。
 先生の説教は素晴しい出来だった。

 畢って、此度は百哩をサンタバーバラに向ふ。ハンターさんがドライブして先生を送らうといひ出したが、途中で先生に語をしかけられて困るし、ドライブ振りや車台の良悪も考慮に入れて、われ等が百パーセントに信頼する田中さんにお願ひする。田中さんは信者で、そして寫真技師だ。

    サンタバーバラ
 海沿ひのㇵイウェーがあるが、少し遠道なので海路にそれをとる事にして、行きは山越えだ。美しい山の景色の大部分は、ドライブして下さる田中さんには済まぬが、眠ってゐたので見ず。先生も同様。
「二人とも眠って居られたので、起こさぬやうにと思って四十哩出したいところも三十五哩にしておきました」
と、田中さんがいはれる。

 サンタバーバラの町に這入ったのは薄暮だった。後の自動車――高橋さんの――が遅れてゐるので約束に従ってオールドミッション前で待つ事にする。

       (つづく)