賀川豊彦の畏友・村島帰之(134)−村島「アメリカ巡礼」(5)

  「雲の柱」昭和7年7月号(第11巻第7号)への寄稿の続きです。

         アメリカ巡礼(5)
         羅府を中心にして
                         村島帰之

  (承前)
   オールドミッション
 オールドミッションは、加州が未だスペインの領地であった頃建てられたフランシスカンの教会で、加州には現在三十ほど残ってゐるが、歴史の新しいアメリカでは、これを大切に保存して自分たちの歴史の一つとしてゐるのだ。

 サンタバーバラのオールドミッションは、一七八六年の建立だといふから百五十年前のものだ。荒壁のやうな外廓で、正面の御堂だけがサブセン塔のやうな塔になってゐる。外は兵営か何かのやうな細長い平家で、圓柱の並んでゐるところに、寺らしい色を残してゐるだけだ。

 時間が遅いから外郭だけ見て帰らうとしてゐると、黒衣の蠅のやうな紐をした僧が出て来て、案内をしてやるといふ。先生と私と田中さんの三人がその後に従ふ。

 重い扉を押して中に這入ると、右の一室には洗礼の壷がある。木の蓋をとって見せてくれる。中は恰度絵具を解く皿のやうに幾つにも区画が出来てゐる。

 堂へ這入ると、片脇に基督の像がある。色彩のついた石膏像だ。前に赤い電燈が蝋燭代りについてゐる。更に前へ進むと、中央ぐらゐのところの片側の壁の中に、聖フランシスの像が立ってゐる。二プ色のガウンを着た貧者の姿だ。その向ひ側は児を抱いた聖アント二オの像がある。

 壁といふ壁には、基督一代記の絵が處せまきまでに色美しく書かれてゐる。
 正面を見ると、神々しい聖壇が立ってゐる。ひざまづいて祈るところまで進んでそれを仰ぐ。加州の第一次の知事もここでひざまづいたさうだ。

 外へ出る。森だ。そしてその奥の方へ行くと、信者の墓がある。加州第一次知事の墓は御堂に接続した處にあった。僧は朝四時から夜九時まで勤めるのだといふが、折柄、呪文を唱する声が聞えて、次第に暗さを増して行く御堂の庭後を一層神泌なものとした。

 庫裡でエハガキや鐘のオモチヤを買って、折柄到着した徳牧師、高橋幹事等とー緒に、賀川氏の後援者の一人であるハンモンド氏の邸宅へ行く。

    八ンモンド氏邸
 ハンモンド氏邸では数時間前から待ち兼ねてゐるところであった。
 早速食事を共にする。主人公は未亡人で、子息は飛行工場の技師。令嬢――といっても三十ぐらゐの――と三人ぐらし。支配人の筑前さんは熱心な信者だ。

 食後、再び町へ出で、レクリエーション・センターの白人の集會に臨む。満員の盛況だ。
 仕方がないので外へ出て見ると、そこに一人の老いたる日本人が病気で倒れて田中さんの腕に抱かれてゐるではないか。聞けば萩谷さんといふ此の地方のバイオ二ヤーの一人で豫て中風症だったのを先生の声咳に接しやうとして来て倒れたのだといふ。私は唯祈るより外はなかった。やがて市の救急自動車が来て病院へつれて行ったが、その車を見送りつつ恢復の速かならん ことを切に祈った。

 白人の講演がすんでから、賀川先生の事業の映画があって、日本人講演の始まったのは九時すぎ。先生もヘトヘトになってゐて元気の出る筈はなく、とうとう二十分足らずでやめられた。

 それから再びハンモンド氏の邸へ引返したが、先生は飛行技師の令息で飛行機の話に興を湧せて十二時近くまで話込まれる。

    軍備反対の主張者
   二十四日

 目がさめると、ブルの家の客となってゐる自分である事を発見する。窓の外は太平洋だ。周囲はひろびろとした庭だ。
 庭のローンの間に、ドライブウエーがついてゐる。

 ミセスが現れはれた。彼女はわが社の新渡戸博士を知って居り、堂ブルホテルを知り、将棋を見たこともあったりして、日本についていろいろと語る。
 感心したのは彼女が平和運動者の一人で、各種の軍備反対運動のㇳラクトやパンフレットを沢山蔵してゐることで、彼女の部屋にはそれが本屋の店先で見るごとく、ズラリと並べてあるのを見た。先生と私とはその幾つかを貰ひ受けた。

 朝飯をすませて、出迎への西田さん其の他と共に写真をとりなどして八時半、サンタバーバラを辞す。

      (つづく)