賀川豊彦の畏友・村島帰之(135)−村島「アメリカ巡礼」(6)
「雲の柱」昭和7年7月号(第11巻第7号)への寄稿の続きです。
アメリカ巡礼(6) 羅府を中心にして
村島帰之
(承前)
カガワストリート
今度は海岸沿ひのハイウエーを走る。サンマ―ランド付近では石油のやぐらが海中に沢山に立ってゐた。海の中から石油が湧くのだ。
ロサンゼルスに這入りがけに、カガワストリートといふのがあるといふので、そこへ車をやる。
小高い丘の東西に通ずる四間道路だ。町名標には明かに KAGAWA STの字が読める。
誰がつけたのか、賀川先生も町の名にされるやうになったのだ。
町名標の下に賀川先生を立たせて記念の映画をとる。私たちも一緒に。
正午、YMCAに着。檀上でブラザーフードランチョンに出席、多くは此の附近の牧師さんだ(中には此の地の警察署長も交ってゐたが)。
先生は兄弟愛は飯を一緒に喰ふだけでなく、政治的、経済的にまで進む必要があると説いて大いに感動させた。
午後三時からはアメリカ婦大大會。
さらに六時からはㇵリウッドのハンターさんの教会の晩餐会。そこで、ハリウツドの青年代表がメッセージを朗読した。ガール代表のガルドストランド嬢は日本の少女の尊敬すべきことを述べて、移民法の不可にまで及んでゐたのは痛快であった。
晩餐会で役すみかと思ってゐると、何の事だ教会の説教もする事になってゐやうとは。
先生は自分の宗教経験を話した。神秘的な先生の宗教経験を伺ったのは、アメリカではここが始めてである。集まった人々が先生の後援者ばかりだったので先生も安心して話されたらしい。会衆は金七百五十弗也を先生の事業に献げた。
八時半から告別大演説会。
告別大演説会
會場へついた時には、もう開会時間が迫って、司會者は會衆に讃美歌の練習をさせてゐゐ最中であった。
今日が南加州に於ける賀川先生の最終の演説だといふので、聴衆は堂に溢れてゐた。その中に交って共産党の連中が「今宵こそ賀川の集會をブッこわさねば叉と機会がない」といふので、早くから會場のあっちこっちに散兵を敷いてゐるといふ情報があった。会場はだから一種の息づまるやうな殺気と緊張にみなぎってゐた。
プログラムが進んで。献金といふ段になると、果然「一文も出すな」といふ共産党員の野次が飛んだ。
先生は演壇に立った。キㇼリとロを結んで。
演題は「神と歩め、大和民族」といふのだった。ピッチの高い先生のアッピールは、聴衆の胸を射た。
共産党員の妨害
すると、何か一声野次るものがあつたのをチャンスに、共産党の連中が革命歌らしいものを歌ひ出した。
司會者は、その歌をもみつぶすために讃美歌の合唱を命じた。
讃美歌と革命歌の二重唱だ。然し、ともすれば讃美歌が革命歌に消され相に見えた。讃美歌には闘争的なトーンが乏しいからだ。酔っ払いを鎮圧するのには十二分に力を持つ讃美歌ではあるが――。
この時、警官が大きな身体を會堂内に運んで来た。そして一人の共産党員が場外に拉致されて行った。
この日、委員の諸君は、かねてこの事あるを予期して、共産党員と覚しいものの傍にはそれぞれ監視者を配置してゐたので、彼等の妨害はそれ以上に出る事なくして終わったのだ。然し、主諜者の拘引と共に場外に出た共産党員たちは、賀川先生の帰りを待ち受けて場外に網を張ってゐるらしく思はれた。
演説は続いた。先生は剛健なる精神を高調して淳々一時間を超える大説教を終った。聴衆は感激の項点にあった。そして閉曾後暫くは先生を取り巻いて感激の握手の雨だ。
やがて委員達は場外に待ち伏した共産党員の裏をかくべく、豫て横町に準備されてゐた自動車へ押込むやうにして先生を乗せた。小川先生と私とが両脇に重って護衛し、フロントには田中さんと徳さんが。
自動車は田中さんの名ドライヴで飛ぶやうに走った。共産党員らしい自動車が後を追って来た。まさに活劇の一場面だ。が、田中さんの前もって考へておかれた道順は美事、彼等の追跡を外して了ふことが出来た。
私達は暫くして合同教曾の高橋幹事の部屋に落着いて、先生の無事を喜ぶことが出来た。そこへ幹部の諸君が帰り着いて、心からなる感謝の祈りを捧げた。そして、高橋夫人の手になる夜食を頂き乍ら、殺気立った今夜の集会の物語りに花を咲かせて、何時果てやうとも思へなかったが、数時同後には賀川先生を東に送らねばならぬ事を思し出して、みんなは名残り惜し気に散って行った。
これより先、賀川先生はロサンゼルスにおける日程が三日間延びたので、トロントにおける講演の日取りに狂いが生じ、これを取り返すためには、飛行機によって米大陸を飛ぶより外に道が無いのだった。
先生は飛行機料金が邦貨弐百円を越えるのをきいて、小川先生を汽車で立たせ、自分は一人空の旅を続けると言い出した。皆は心配した。
「どうしても小川先生を連れて行っていただかなければ、私たちは安心できない」と言い出した。然し先生は、
「貳百圓の金があれば日本では十人近くの失業者が一月養へるからね」と言ってこれを肯んじなかった。
その時、これをきいた古谷氏の令嬢たづ子(一四)さんが「是非先生に小川先生を連れて行って頂くやうにと言って、自分の貯金から六拾圓の金を取り出し、先生の許へ届けて来た。頑強に小川先生同行を拒否してゐた賀川先生も、この涙ぐましい申出には、手もなく参ってしまった。そして今宵は、小川先生同道でトロントに向ってアメリカを一飛と仕様といふだ。
出発が午前二時だといふので、幹部の人達は家へ帰る時間がなく、みんな思ひ思ひに合同教会の空き部屋、空椅子に横たはり暫くの時間を眠らうとするのであった。
賀川先生の航空大旅行
二十五日
うとうととしたと思ふと「もう二時過ぎましたよ」と隣室の小川さんに起される。小川さんは準備のため一睡もされなかったらしい。
午前二時半、いよいよ賀川、小川両先生は飛行機でロサンゼルスを立たれるのだ。
「けふは、しみじみ村島さんが羨しいよ。モウ二三日ロサンゼルスにゐたいがなア」
と、先生は羅府への別れを惜しまれる。実際、羅府の兄弟の友情は例えへやうもないほどに深いものがあったからだ。
両先生と私と徳さんとは、田中さんの自動車で、夜更けの羅府の街を走る。街路は夜中に水で洗れてゐて、まるで拭きとったやうに美しい飛行場は周囲を赤い電燈で囲んであって、なほ高い塔の上ではサーチライトを照らしてゐた。
サーチライトといへば、私たちの宿泊に近い市庁舎の上にも航空用のサーチライトが照らしてゐるが、そのサーチライトを最初に照らした時には、フーバー大統領が羅府からスィッチを切ったといはれる。
風の方向を見るための吹流しの布袋が、朝風になびいゐる。見送り人は二三十名を越えたであらう。一同「また会ふ日まで」を合唱する。
先生は元気だ。みんな一人々々に堅い握手をされる。
サイレンが鳴った。いよいよ出発だ。両先生が構内に這入る。栗鼠のやうに小さくて敏捷な徳牧師は、看視の眼を掠めて巧く構内へ這入って了ふ。十二人乗の大型の飛行機だ。先生は中から手を振ってゐる。見送り人一同も手を振る。
やがて爆音勇ましく飛行機は滑走を始めた。そしてフワリと地上を離れたと思ふと、もう空高く舞ひ上って、遠くへ飛び去って了った。みんなは、じっと胸に手を置いて一路平安を祈った。
かくて、ロサンゼルスを中心とする南加の十二日間の先生の神の國運動のプログラムは一段落を告げた。しかし、それは先生のプログラム丈けで、南加としてはこれからだ。牧師さんたちの腕の見せどころはこれからだ。
三時半帰宿、少し眠って、九時起床して見ると珍しい雨だ。まづ「先生の飛行機はどうだったらう」と心配する。飛行場へ訊くと、事無行ってゐるとの事に安心する。
正午深田種嗣氏の来訪を受け、一緒に天ブラを喰べに行く。夫人、令息、令嬢同行だ。令息五歳は「僕。ヤロータクシーのシャファーになって、沢山お金を儲けてパパとママにあげる」といふ。
ロサンゼルスは日本の延長だ。天プラでも、すしでも、うどんでも、トコロテンでも、汁粉でも何でもある。
此の処、英語不用の看板をかけてもよささうだ。
深田兄と、
「このまま別れるのは惜しい気がするね。だがそうかといって」
といってお互いに別れを惜しむ。
弟と別れて行くやうな気持ちだ。深田牧師のお土産のポテトを高橋さんに貰って貰う。ポテトはベーカースフィルドの名物である。
(この号はこれで終わり)