賀川豊彦の畏友・村島帰之(127)−村島「アメリカ巡礼」(1)

  「雲の柱」昭和7年6月号(第11巻第6号)への寄稿分です。  

        アメリカ巡礼(1)
        ロサンゼルス其の他(二)
                             村島帰之

   コーチュラ
 正午、セントラルステーションから汽車でコーチュラに向ふ。山崎、堀越両牧師、平田ドクトル等が送られる。小川さんは仕事が山積してゐるので留守居で、賀川先生と私だけだ。
 約三時間でインデオ駅着。自動車でやって来て先着してゐる徳牧師等に迎えられ、自動車でコーチュラに向ふ。

    暑熱百二十度の砂漠
 この辺は一帯の砂漠だ。灰のやうな砂塵が立つ。風も熱を持ってゐて肌に薄気味の悪い温気を伝えるだけだ。

 山を見ると、木一本見えない。勿論、日本の田舎に見るやうな小川の流れなどは何処にも探したって見当らう筈はない。
 大きな椰子に似た樹が繁茂して、バナナを小さくしたやうなチョコレート色の実がたわわにぶら下ってゐる。

 それはデーツと呼ばれる果実で、熱いところで、而も雨の降らむところでないと成らぬ果物だといふ。「内地では百日の日昭といひますが、ここでは百日どころか、二百日の日でりがあるのです。今年の夏は珍しく二三度雨が降りましたが・・・」といふ。ひと夏に二三度の雨が珍しく多いといふのだ。
 温度はと訊くと、百二十度位までに上るさうだ。でも朝夕はメッキリと下がって、迚ても涼しい。それゆえに此処に住まってゐられるのだ。空気の乾燥してゐるために、暑い割合に汗も出ない。只鼻の穴が乾いて気持ちが悪い。灰のやうな砂地を行くこと約十五分で、境弘氏の家に着く。

 とてもひどい蠅だ。蚊のやうな小さな蠅が群れをなして襲撃して来る。
 境さんは四十エーカーの土地を所有し、数家族のメキシコ人を使用してゐる。只見れば灰のやうな畑に、恰度今、豆の種を蒔いたところだといふ。暑い處なので、今頃蒔いても育つ。そして季節外れの豆としてニューヨークの辺で非常な歓迎を受けるのだといふ。

 境さんは福岡の人、十八年前に渡米し、今はこのコーチュラの村長格で、日曜の礼拝も氏が牧師代りを勤められるのだと聞いた。
 小憩して歓迎会場の教会へ向ふ。

    美しき基督者村
 この辺は隣家といっても二三哩は離れてゐる。教会へ通ふのに二十哩も来なけれでならぬ家もあるといふ。

 學校は勿論遠い。生徒たちは毎朝自動車の通る路まで出てゐて、そこで、學校の自動車に順々に拾はれて行くのだといふ。

 教会へ来た。大きな森に二方を囲まれ、二方は廣々とした灰の砂地が展開されてゐる。
 私たちはその森の下で、五六十名のこどもたちの歓迎を受けた。父母の故國を知らずこの暑熱の地に生ひ立つ小さいわが同胞よ! 私は涙が湧き出るのを止めることが出来なかった。

 こどもは嬉々として走り廻る。その度に灰が立上るが、風もないので、その灰も高くまでは登らずに直ぐ地に戻る。
 それで大地は常に掃き清めたやうな光沢と、なめらかさを保って、鼠色の天鴛絨のやうだ。只こどもの走り去った後に、一條の足跡が残されるだけだ。

 太陽がその砂地に反射して目は痛い。スキー場の反射のやうに。
 こどもたちは小蠅の襲撃をうるさがって、やたらに限をこすってゐる。
 「こどもたちは、みんな蠅ために眼を悪くしてゐます」と、一人のママさんが説明してくれた。教會堂は木造の簡単なものであった。「イエスの友」と記した礎石が据えられてゐる。

 コーチュラの日本人村は基督者村である。全村十八戸の中、十六戸までが信者で、その家族大人三十二人と小児五十人が、日曜毎にこの教会へ集って集りを持ち、日曜學校を開くのだ。

 「何しろ隣近所が離れてゐて毎日行き来が出来ませんので、一週一度教会へ集ってお話を聞き、又お互に世間話を交すことが、何よりの楽しみなのです」
 と境さんが説明した。
 
 尤もコーチュラがクリスチャン村になったのは古い話ではない。今から六年前、賀川先生がこゝを距る約六十哩のリバーサイドで説教をされた時、唯一の信者であった境さん夫婦に導かれて聞きに出かけた武蔵こと、佐々木あさの両姉妹が、非常な感銘を受けて帰って、信者の境さんと語りあって、村全体に向って戸別訪問的に伝道を始めたのが起りで、一九二五年の九月には一時に二十四名の兄弟姉味が徳牧師から洗礼を受けたのだった。

 かうした全村の日本人が基督信者になったいふことを聞いた同地方の地主ロビンソン氏は大いに感じ、殊に氏の夫人が賀川氏の同労者タッピング女史のお母さんと同級生で、予てから賀川先生の事を聞き知ってゐたので、自己所有の土地一エーカーに金干弗を添へて教会堂を建てるやうにと言って寄付して来た。そこで村民たちは、別に自分たちで二千弗の浄財を集め、右の米人の寄附金とを併せて教會堂を建築し、なほ三エーカーの土地を購入して、将来、共同耕地などを行ふ計画を持ってゐるのである。

 教曾堂は同時に日本語学校でもあり、また村のコンミニチー・センターでもある。

 村民はいづれも裕福で、全村みな多少づつの土地を第二世の名で所有してゐて、全然、土地を所有せね者は二三戸しかないといふ事だ。
 なほ感化はこどもたちにも及んで、ここでは喧嘩が殆どないといふ。
 かうした美しい話を聞いて行く内に、私はこんな處で一生住んで見たいといふやうな気が起こるのだった。

    涙ぐましき歓迎會
 賀川先生にこどもたちが教会堂の前の階段に腰かけさせて、廣場の方から話をした。サムエルが神の声を聞いた話だ。最初は日本語で、後には英語で。
 こどもたちはこれに對し「主われを愛す」の讃美歌を日本語で歌ってくれた。
 羅府から来た人たちは、きつい日射が、こどもたちの顔に当るのを避けさせるために、人垣を作ってそれを遮った。

 すべてが涙ぐましい場景である。
 こどもへの話がすんで、一同、教会の中へ這入る。内地の田舎の小學校の校舎のやうな部屋だが、そこには一面に山海の珍味が並べられてあるではないか。曰く、壽司、ぼた餅、ざくろ梨、バナナ、鶏肉、等、等、等、いづれも姉妹たちの心尽くしにならぬものはない。

 賀川先生は「正月と盆と天神祭が一緒に来たやうだ」と挨拶された。私も「親戚の家へ祭りによばれて来たやうな悦しさを感じる」と挨拶した。

 歓談の裡に日が暮れた。
 外へ出ると、三日月さんが照ってゐる。日本の三日月さんだ。空気が乾いてゐて、澄み切ってゐるので、三日月ではあるが、十五夜のやうに明るい。こどもたちは名月の夜のやうなつもりで、灰のやうな砂を蹴ちらし乍ら走り廻る。

 さすがに夜の空気は冷たくて、シャツーつになった肌に冷えびえと触れる。
 私たちはその砂灰の中に椅子を出して、月を眺めたり、こどもの遊ぶのを眺めた。

 七時から説教が始まる。賀川先生は先に白人の教會へ短い説教をするために行かれたので、先生の見えるまで、私が話をする。

 百人ほど坐れる椅子の大半が一杯になってゐた。二三十哩離れたところからも来てゐるとの事であった。
 先生の話の済んだのが十時。羅府から来た人たちは、各信者の家へ分宿させて貰ふことになった。

 先生と私とは、六哩ほど離れた赤星八郎氏(熊本県下盆城郡豊野村出身)の家に泊めて貰ふ。

      (つづく)