賀川豊彦の畏友・村島帰之(137)−村島「アメリカ巡礼」(2)

   「雲の柱」昭和7年8月号(第11巻第8号)への寄稿分です。

         アメリカ巡礼(2)
         サンペトロの日本人漁村を訪ふ
                            村島帰之
 
    (承前)
    サンピトロ
 サンピトロの海岸に近づくと、石油タンクが見え出した。西田さんはこれが重油のタンクで、日本海軍の特務艦がわざわざ重油の積込のため此處へやって来ると説明してくれる。重油ロングビーチは勿論、遠くはベーカスフイールドの方からパイプで地下を送って来ゐんださうだ。

 サンピトロは島になってゐる。そこへ渡る大桟橋は開閉式になってゐる。サンビトロヘ盗人が逃げ込んだ時、この橋をあげて島内一面を捜索した事があったが、島が大きい上に、港には多くの船があるし、材木置場などがあって到頭捕らなかったといふ。

 私たちはサンピトロ教會と國語學校を見、白石牧師を訪ひ、さらに日本人の漁師町へ行く。日本の漁師が約六百戸、その人口約二千。大部分は和歌山県の出身者(特に東西牟婁郡が多く海草、那賀が之に次いでゐる)で、静岡県人が少数交ってゐる。

 漁は主としてまぐろ(トンボシビ)、かつを、いはし、さばの類だが、まぐろは数年前から寄りつかなくなり、またかつをは以前は、これだけで一年の費用が取れたものだが、八月以来、政府の保護法によって五パウンド以下のものの漁獲を禁止されて了ったので、これまたとれても役には立たず、いはしは罐詰會社が買ってくれぬのでこれもダメ。魚油も元は一ガロン四拾五銭してゐたのが今は拾五銭に下り、肥料も日本の肥料安がこたへて、六拾五銭から參拾銭に下ったので、何も彼も不況といふ有様だ。

 欧洲戦争の頃には日本の漁夫が千三百人もゐて、此の漁場の半数を占めてゐたのが、今日では八百人に減って、漁場全員の三割に減って了った。不景気なので元の百姓に変わったり、他に岸を変わった者が多いからだ。

    日本漁師村
 漁師の村はザッとしたバラックだ。罐詰會社の建てたものだ。全く同一型のものが数百戸行儀よく並んでゐる。家賃一箇月六弗だといふ。

 でも、入口のパーラーには、青い草花などを飾って楽しんでゐる。南加漁業組合の理事の一人中川新太郎さん(和歌山県下里の人で、熱心な基督教信者)が、私の自動車の傍へ来て漁業の不振を語ってくれる。

 この辺の漁は日帰りの釣船もあるが、メキシコ方面へまで出かけるのが多く、出漁すれば一箇月も帰って来ない事が多いのだが、近頃は前にいったやうな不況で出漁が少く、遊んでゐる船が多い。

 船は船主一人の専有の場合もあれば、また五人位の漁夫と協同で持ってゐるものも有る。何しろ、一艘一萬弗もするのだから、多くは罐詰會社から金を借りて、月々の魚代で償却して行くのが多い。  

 罐詰会社は七軒(いづれも白人の経営)あって、漁師の漁獲は約千六百噸ほど東部へ生のまゝ送る以外は全部罐詰會社で買ふのだが、以前と違って、近頃はアメリカを挙げての不景気のため、罐詰の需要がぐんぐんと減じ、漁師が持込んで来る魚を、その儘全部受付けるといふ事がない。何だかんだと言って、制限を加へるので、漁師は以前のやうに漁が多くさへあれば儲かるといふわけには行かなくなった。若し罐詰会社がとってくれなければ他にこれを消化する道のない彼等なのだから。

 彼等の家庭の食卓を賑はす魚なら、サイズの小さすぎる落第品で結構だ。それに魚は一匹々々えさで釣るのだから折角捕って来ても、罐詰会社にロックアウトを食はされてはくたぶれ儲け以上の損である。

 右のやうな不況のため、鮪漁などは出漁中止をしてゐる向が多くて、今日も日本人の船が五杯休んでゐるといふ事だった。五杯といっても少くも十二人の乗組員を有する発動汽船だから合計六十名の日本漁師がミスミス仕事を得ずにゐるといふ訳で、問題は大きい。此處サンペトロの日本人漁師村の不景気さが知れやう。

 日本人も、以前は罐詰会社を持ってゐた事があった。今も「東洋」と名のつく罐詰会社が残ってゐて、白人によって経営されてゐるが、これなどは日本漁師華やかなりし頃の名残りが僅かにその會社の名に残されてゐるものなのだ。

 日本人は資力が細い。日本の銀行も彼等をバックしない。日本人が船を買はうとしても、それは会社かブローカーの手による外道はない。高い利子でかりた金がうまく廻らなかったら、彼等はブローカーの奴隷になり下る許りだ。

 近海漁業をやってゐた頃の船は精々二十馬力の発動汽船で事足りたが、遠洋漁業の今では百馬力以下の船では仕事が出来ない。目下十萬弗をほうり出して大漁船を建造中の白人の船主もあるといふ。これでは資力の細い日本人が太刀打の出来ないのも道理だ。

 そこで多くの日本人は船を持たずに、白人の船主から船を借りて漁に出かけるのだが、十人位の日本漁師が組んで、一隻の船を白人から借りたとして、採算はどうなるか。大形満船百噸の漁があったとして、その値ひ六千五百弗――これがその儘、日本人漁師の懐ろに這入るのなら、日本漁師萬歳だが、ドッコイさうは問屋が下してくれない。四割五分――三千二百弗は船の借賃として船主の懐ろへ這入って了ふ。べら棒に高いと言ひ給ふな、諸事に物高なアメリカの話なんだから――。

 その他えさ代だ、ガンリンだ、何だかんだと、雑費が二千弗は消えて了ふから、残る處は僅か一干弗。これを十人の漁師が分配をするのだ。一人分前約百弗これが一箇月も波荒いメキシコの海へ出かけて行って漸くに稼ぎ得た純盆なのである。

 これがそれぞれの家庭に於ける何人かの家族の生活費なのである。更にこれは運よく仕事のあった漁師の収入であって、出漁中止の漁師には望まれない収入なのである。

 日本の漁師は、だから謂はば罐詰会社と船主とブローカーの奴隷として、その搾取する儘に働かされてゐる長良川の鵜なのである。殊に罐詰会社などはこの頃の不況による減収をのがれやうとして、季節以前の漁獲は一応は時價で引取りはするが、シーズンになって値が出ればよし(勿論値が暴騰したら儲けはその儘會社の懐ろに入る)若し價が下れば、それを漁師の頭の上に転嫁して、損害をまぬがれゐため、魚を買込むに当って時價額面の三分の一はホールすると称して一時預りの形式をとってゐる。會社はこれで危険をまぬがれやうが、惨めなものは日本の漁師である。

 私はかうした日本漁村の悲しい話をきいて憂鬱とならざるを得なかった。
 サンペトロと言へばアメリカを通じて最も多く日本の漁師の居る處だ。モントレーにも日本の漁師は居るが、地理的に恵まれないで、此處とは比較にならない。叉加州以外には日本人に漁業権を許してくれてゐる處はどこにもない。

     (つづく)