賀川豊彦の畏友・村島帰之(138)−村島「アメリカ巡礼」(3)

  「雲の柱」昭和7年8月号(第11巻第8号)への寄稿分です。

         アメリカ巡礼(3)
         サンペトロの日本人漁村を訪ふ
                            村島帰之
 
    (承前)
    漁師の第二世

 日本の漁師には青年は居ない。その筈である一九二四年以後は日本人がやって来ないからだ。叉寫真結婚の禁止で一九二四年以後は、日本から女房を探して連れて来る事が出来ないのだから若い女も居ない。

 然し日本からの補充が絶えたとしても、アメリカ生れの第二世が漁師として親に代って働かうではないか――と云ふ人もあらう。然し漁師の多くは一九一五年から二四年までの間に寫真結婚をした人達だから、第二世も十五歳以上のものは殆どゐない。第一世の日本漁師にこの第二世が一人前になるまで、老ひさらばえた身を、暑い日光の直射にさらして猶数年を我慢したら、漁具を二世に譲って安楽が出来るのだらう。

 いいや、それは恐らく夢として終らう。
 日本漁師の第二世はどこへ行く。
 日本漁師の後継はどうなるだらうか。

 第二世達は、今多くはアメリカの小學校へ通ってゐる。そして両親の國の言葉を分る為に、別に、日本語學校へも通ってゐる。彼等は小學校を出たら更にㇵイスクールに這入るであらう。いかな貧しい漁師でも、月謝の要らないㇵイスグールには必ず入れるに違ひない。いや、現に其處へ行ってゐる子供達も少くない。

 其處ではアメリカの市民として、彼等は白人のお友達と同じやうに學び、同じやうに遊び、そして同じやうに将来を夢見てゐる。彼等のうちの何人が果して、天日に赤く皮膚を焼く漁師の業を、自分の将来の仕事として夢見てゐるだらうか。

 漁師のある家からはピアノの音のきこえて来るのを聞いた。ビアノ! 驚くには足りない。中古なら百弗以下でも買へやうし、アメリカに発達してゐる月賦制度を利用するなら、千弗のピアノも買へやう。日本漁師華やかなりし頃に、その子の為め、妻の為め、ピアノを買込んだ漁師も少くはなかった。

 そのピアノを弾きながら夢見つつある第二世の夢! それは、日本漁師第一世が望んでゐる處と果して同じだらうか。
「恐らくは、第二世の中で半分も漁師としては残らないでせう。そして大部分の第二世達は加州の農村に散らばってゐる日本人第二世と同じやうに、華やかな都會に憧れて、両親の期待に反する仕事に就くのでせう」と案内役の西田さんが語った。
若しさうだとすれば、此處の日本人漁業も一代限りになるのではあるまいか。

    罐詰會社を見る
 私達は、それから、一つの罐詰会社を見た。大きな機械仕掛けで生鰹が網に入れられ、蒸され、人の手によって綺麗に整理され、罐に詰められ、十分とは経たぬ内にレッテルまで貼られた一個の商品の罐詰になるのであった。

 蒸された魚を整理する仕事には、多くの日本人の女がメキシコ人などに交って働いてゐた。一時間賃金で三十五セントになるといふのだから、一日八時間として、三弗近くにならう。さうすれば漁不況の折柄望ましい仕事だが、これは年中続く仕事ではなく、罐詰界不況の折柄、一週間に精々二日位しか仕事がないといふから、この方でも日本漁師の家庭は全くロックアウトされてゐる形だ。

 蒸気の熱で蒸されるやうに暑い罐詰会社を出て、海岸に涼風を入れ乍ら立つと、其處には数十隻の漁船がつながれてゐる。そして、それが日本人の漁船であゐといふことは、舷側に書かれた日本字の船名で直ぐうなづかれた。これが先にきいた出漁停止中の鮪船なのだらう。

    漁船に乗る
 折から来かかった一人の日本人漁師に案内されて、その中の一隻に乗り込んで見た。太いロープ、頑丈なチェーン、それは幾百度、メキシコの荒海を乗切って来た功績を語るものであらねばならなかった。船底をのぞくと其處には幾つかに仕切った大きな船艙がある。

 「これはアイスボックスですよ。釣上げた魚はその儘こゝへ入れて、腐らないやうにすゐんです」

 船の中央へ行くと、数十本の物干棹のやうな釣棹が並べられてある。デッキの其處此處には軍艦の信号兵が旗を振る際に立つ台のやうな、水面に向つて突出た處がある。漁師達は荒海の中で、その出張った處に突立った儘、その太い釣棹で魚を釣るのだ。

 「隨分力のいる仕事で、そしてかなり危い仕事ですよ」
 西田さんはさう言って説明した。デッキに上って沖を見ると、アメリカの軍艦が十数隻並んでゐるのが見えた。

 岡田さんと白石牧師と私と三人は、付近のチャイナ館に這入って昼飯を食べた。その辺一帯のストーアは皆日本漁師相手に商ふてゐるもので、漁業不況の今日では、このスㇳーアから品物を借買ひして払はずにゐる向も少くないやうな話だ。

 食後、暫くして、私達は教會前においてあった岡田さんの自動車でロサンゼルスに帰る事になった。學校前の一軒のハウスをピアノ教習所にしてゐる西田氏の令嬢が出て来て、
 「御飯を一緒に食べるつもりで仕度をしてゐましたのに」
と言はれる。
 此處からロングビーチは恰度湾一つを隔てゝゐるので、夜の美しさは叉格別だといふ事だ。

      (つづく)