賀川豊彦の畏友・村島帰之(139)−村島「アメリカ巡礼」(4)

  「雲の柱」昭和7年8月号(第11巻第8号)への寄稿分です。

         アメリカ巡礼(4)
         サンペトロの日本人漁村を訪ふ
                            村島帰之
 
    (承前)
    羅府港埠頭
 日本の漁師村にアバユウをつげて、程近い波止揚につく。日本郵船會社のつく處、いはゆるロスアンゼルス港である。羅府港にはいっても羅府市の中心へは二三十哩を隔てた處にあるのだ。私達は、港内を自動車で見てまはった後、元来た道をロスアンゼルスヘと走らせる。

 途中大きな材木置場があったので、西田さんにきいて見ると、オレゴン松だといふ事である。これが日本の津々浦々にまでも運ばれて行く處の日本名の米松だと思ふと、一種の感慨が湧くのだった。

 サンペトロの島を離れると、遊船らしい船が沢山にもやってゐるのを見た。西田さんにきいて見ると、これがすべて酒呑の偽に用意された船だといふのだ。アメリカ内地では公然酒を呑む事を許されないアメリカ人が(或は日本人が)この船を借りて國法の及ばない沖合数十哩に船出して、其處ヘカナダから、或はメキシコから来る酒船につけて、其處で天下晴れて酒をのむのださうだ。友がピクニックのつもりで、國境を越えメキシコまでドライブして行き、そこで強か酒を飲んで即日アメリカヘ戻って来るのと好一對の、禁酒國の悲喜劇である。

 「そればかりぢやありません、ロスアンゼルスあたりでは小さな店にグロサリーを並べて、こちらでは酒を呑ましてゐる家が何軒あるか知れやしませんよ。表で野菜を買ひに来るお客を待ってゐる、その家の女房は実は、警官の来るのを見守ってゐるのです。この家では酒を飲ます外に、賭博もやらせるので、日本人でこれをやってゐる向きが決して少なくはないのです」
と西田さんは嘆かはし相に話した。

   シグナル・ヒル

 私逢はロサンゼルスに這入る前にロングビーチをドライブし、特に海中に作られた圓形のドライブウェーを走った後、石油の宝庫シグナル・ヒルを見る事になった。此處は全日本が一箇年に産出する石油を此處丈けで一箇月間に産出するといふ石油の宝庫である。加州は、いやアメリカは、この無尽蔵の宝庫によってどれ丈け恵まれてゐるか知れない。

 眼前に展開する小丘の上に何と夥しいやぐらの林だらう。それが悉く石油を汲出す油井戸なのだ。
 一個の油井戸から一昼夜にどんなに少くても五百バール、多きは千五百バールの石油を汲上げるといふ。一バールといふのは四十三ガロンに当るといふから、最小二一五〇〇ガロンに相当する油量だ。
 これでは一台の井戸の建造費が十何萬圓以上を必要しても、直ぐに消却が出来て了ふ。

   石油井戸の林      
 私達は油井戸の林の中を分け入って行った。不思議な事には、油井戸の林の間の中に、墓場があったり、人の棲まぬ空家があったりするではないか。

 私の不思議がるのを見て、酉田さんの説明して呉れるのによると、此處は以前も盛んに油を汲んでゐたが、いつの間にか脈が尽きたと見えて油が出なくなった。其處で、これを放棄して住宅を経営して墓場まで出来たのであったが、その後、或人が、従来の地下四十尺ほどしか堀下げなかったのを、試みに思ひ切って地下約一哩ほどまでボーリングを入れて見ると、油がこんこんとして湧いて来た。

 それを見習って、あっちでも、こっちでも地下一哩までボールを入れて見ると、出るは出るは石油の泉! もう油脈は尽きたとしてあきらめてゐた連中があはて出した。そして瞬く間に住宅は取り払はれて、殆ど空間のない程密接して数干の油井戸が建てられた。

 油井戸と言っても、その面積はやぐらの間に八坪を出でないもので、それが一二間を隔てて藪のやうに立ってゐるのだから天下の奇観でなくて何だ。

 やぐらは半町以上もあらうと思ふ處の高さに組まれて、ピストンの動くに連れて油が汲みあげられる。数百数千の油井戸がコットンコットンとピストンを動かしてゐるのは見てゐても面白い。

 何しろ、油井戸一つで一日に萬に近い量を稼ぐのだから、その土地を所有してゐる地主の懐に這入る地代も夥しいものがあるに違ひない。私達はこのヒル一帯の大地主であると共に大金ちである人の家を覗いて見たりした。

 ボロイのは地主ばかりではない。大小の石油会社はなほボロイ。そこで彼等は血眼になって脈を探してはポールを地下深く突込んでゐる。

 私はまだ山のものとも、海のものとも分からない試験中の井戸を見た。動力によって管が次第々々に地下にもみ込まれて行って反對に叉地下水が地上に送りあげられて来る。やがて脈に突当ってるのかも知れぬが、見た處は、こんこんとして泥水が湧き出る許り。私は正直爺さんの話を思ひ出して微笑んだ。

 スタンダ―ド會社や、リッチヒールドや其他多くの石油會社は、出るか出ないか分らない井戸を堀るために、互に争ってこの辺の土地をかりてゐるといふ事だ。耕作もせず、家も建てず、それかといって井戸もまだ堀ってゐない、廣々とした土地が至る處にあった。賭博といふよりは、此處もと一番掛合の奇術と言ひ度い。金儲けは賭博であり、奇術である。

 猶、近来の不況と、石油の増産の為めに、石油聯合会が申合せて三昼夜の割合で生産制限を行ってゐるとかで、ピストンの翼を休めてコトッとも音のしない井戸もあった。

 私達は油井戸の中を見て叉再びサンペトロの大道路に出た。サンペトロからロサンゼルスに通づる大道に都合八本、いづれも幅員百尺以上のものだが、沿道の地主がその所有地の地價をあげる為め競ってつけたものだといふ。

 道端にはビーチパジャマのやうな粉飾をした店があって、或は果物を賣り或はチキンを食べさせてゐる。やがて鉄道の附近へ出ると、そこには大きな青物市場がつくられてゐる。これは鉄道会社が土地繁栄のためにロサンゼルスの青物市場に對抗しつつ作ったもので、中央の廣揚には、八尺づつを区切って、トラックを置けるやうにしてあるが、附近の百姓は月拾圓の借賃を沸って、その八尺の土地へ青物を満載したトラックを引込み、その儘で青物を賣る組織になってゐる。

 そして二十五年間連続して此處を借りてゐたら、その土地の所有権は借主に移るといふ契約ださうだ。周囲には在来のやうな市場式店舗もあって、其處に沢山な青物のストックがあった。これは前記のトラックの儘、売買するのと違って、他の地へ送り出すものが多いやうだ。

 私は阪急電車宝塚歌劇場を経営し、住宅を経営してゐるのを思ひ合せて、産業方面に力を注ぐアメリカの鉄道の方針を面白く思った。

 私達の自動車は――とはいふが岡田さんがドライブしてくれて、私一人がお客さんの、二人っきりの自動車なのである――は、漸次ロサンゼルスに近づいて来た good ir と横っ腹に大書したツェッツペリン式の飛行船がとんで来る。それは自動車のタイヤーの廣告である。都會の中心に来たといふ意識がして、呼吸もつまる思ひだ。

 かうして西田さんの案内で、ロスアンゼルスの近郊を丸一日かけ廻った私は、やがて合同教會の宿舎へ送り届けられた。今日一日を振り返って色々の感慨が湧いて来る。

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   羅府の兄弟達!
 今日、昭和七年の七月十一日、アメリカヘ向って日本を発ってから恰度一年目です。
 私の生涯を通じて、昨年のアメリカの旅が、そしてアメリカにおける皆様の御親切が、忘れる事の出来ない感銘を与へてゐることは御想像以上のものがあります。だのに私は帰朝以来八箇月、まだ一通もアメリカヘ感謝の手紙を書かないのです。御礼状も、クリスマスのお祝ひも年賀状さへも。

 然し、それは私が皆さんの御好意を忘れてゐるのではないのです。御好意が肝に銘じてゐるだけに、短い手紙では感謝の心が書き表せない儘つひ怠って今日になったのでありました。

 私はこの「アメリカ巡礼」を書く毎に、どんなにか皆様をなつかしみ、皆様に感謝してゐる事でせう。「アメリカ巡礼」もロサンゼルスに入ってからは、書く事が多すぎるので、アメリカで書き切れず、内地へ持ち越し、今日此の頃になって、ノートの覚書を見返しては当時を思ひかへしながら書き綴ってゐる有様なのです。

 羅府滞在一箇月の事共が、この日記を書きながらパノラマのやうに思ひかへされて来ます。合同教会を中心とした日本人街をバックとしてクローズドアップされて来る懐しき人々。

 起き臥しから食事萬端のお世話をして頂いた高橋幹事夫妻。萬事の指圖をして下すった徳牧師夫妻、私の為には足になって自動車を走らせて下すった高橋兄、井ノ下兄、桝中兄、田中兄、私のために近郊の案内をして下すった西田兄、瀧澤兄、私の身体の心配をして下すった平田ドクトル、古本屋の案内をして下さった静岡兄、御馳走をして下すった古谷兄、植松兄、清水兄、其他親切な各教会の牧師さんがた等々々。私はそのお一人々々に夫れぞれ長い手紙を書かえばならぬのですが、帰朝以来、講演に引張り廻されたり、旅行をしたり、病気をしたり、それに新聞社の仕事があって、目の廻るやうな忙しさの中に置かれて、それを果たせないのが残念でたまりません。

 今日も私は社の仕事に疲れて、病床にゐるのです。今度、病気がなをったら、今度こそ、本当に順々に手紙を書いて行き度いと思ひます。果たしてゐない約束をも果たして行きます。どうぞ悪しからず御許し下さい。

 「羅府近郊」を書きながら、ふと皆様に物を言ひ度くなって書いて見ると、矢っ張り、詑状になって了ひました。皆様の上に御恩寵を祈りつつ。

    (この号はこれで終わり)