賀川豊彦の畏友・村島帰之(140)−村島「アメリカ巡礼」(1)

  「雲の柱」昭和7年9月号(第11巻第9号)への寄稿文です。

         アメリカ巡礼(1)
         羅府・ハリウッド
                       村島帰之

    羅府監獄へ
   十月四日
 今日は日曜日だ。早天礼拝を済ませて午前九時、南加クリスト教聯盟社會部の斎藤さんの案内で監獄見物に出がける。但し、今日は在監中の日本人のために、教会の人達が説教するので私もその説教隊の一人に加はるのである。

 市廳舎の裏手、小高い丘の上に建てられた十階建の堂々たるビルディング、それが監獄だと教へられた時には一種異様な思ひがあった。が、さらに其處は裁判所との同居だときいて、多分八階以上の上層に窓をひろく取って、光線を充分に吸収してゐる部分が裁判所で、八階以下の窓の小さい、見るからに暗さうな部屋が、てっきり監獄だらうと思ってゐると、豈はがらんや暗いのが裁列所、明るい方が監獄だと聞かされて、驚きを再びした。

 「ゴリキーの「夜の宿」の歌に、牢屋は暗いいふのがありますが、此處ではあべこべで、牢屋は明るいといふ訳ですね」
 と、同行の南加大學で犯罪學専攻中の徳さんを顧た事だった。

 ホールの中へ這入ると、さすが、日曜だけあって、裁判もなく、被告らしいものも、傍聴者らしい人も見えないで、ただ数人の白人がゐるだけだ。

 「あれは救世軍やその他白人の教会の牧師さん達で、私達と同じやうに、在監囚人へ説教をしに来てゐる連中です」
 と説明される。其處へ知合の東條さんその他が、日本語の聖書や讃美歌や、それにヴァイオリンまで携帯してやって来る。

 正面の時計が十時を指すと、奥手のエレベータ―が上から降りて来た。私達はそれに乗せられてするすると八階に上る。
 陽は明るくさすのに、そこには銀で鍍金した鉄の格子が裟婆と監獄との境界線を引いてゐる。

 ピストルを腰にした看守がその鉄の格子を開けて我々を中に招じ入れた。
 ああ、我等は完全に入監した訳だ。見よ、私達の背後の格子は再び閉められて、大きい錠が掛けられたではないか。
 「もう逃げやうたって逃げられませんぜ」
 東條さんが冗談を言ふ。白人の看守も分らない乍ら、その言葉を察してほくそ笑む。

 監獄を出る時に、囚人を連れ出すやうな事があってはならぬといふので、代表者の名前とー行の人数だけが記帳される。本当なら、各自が一々サインし、出監の際再びサインして、二つのサインを合せ、決して替玉をしてゐない事を立証させるのだが、我々がミニスターだといふので、信頼してその手続きをとらないのだ。

 携帯晶の検閲も同様省れて、私達は案内者もなく、勝手知った斉藤さんを先頭に、監房の方へ這入って行った。
 そこは狭い動物園に異らない。両側は三寸あき位の眠の格子のはまった檻が、長屋のやうに連って、その中にカーキー色の囚人服を着た囚人達が、檻の中のライオンのやうに、絶えずあっちこっちと歩き廻ってゐるではないか。

 彼等の歩いてゐる處は、二十人位の共通の廣場で、その廣場を前にして、小間の寝室が作られてある。寝室は上下一組の寝台によって形成さてゐる。ベッドの傍には手洗場と便器とが置かれてある。便器と言っても日本のとは違って水洗式だから臭くもないだらう。

 手洗の上の小さな棚には小さい鏡が置かれてあって、監獄に居ても、見づくろいするだけの自由は許されてゐるらしい。

 私達は、やがて、とある監房の前に立った。おお、其處には懐かしき日本人が十名あまり!
 私は腰天から脊隨へ氷が走るやうな気がした。此處は日本人のみの監房なのである。

 斎藤さんが檻の中へ首を突込んで挨拶をした。そして、日本から私が来てゐる夢を話して、これから話をして貰ふ、とみんなに紹介した。

 私は言ひ知れない感激を抱いて、斎藤さんと同じやうに、鉄の格子を握りながら首を中へ突込むやうにして話かけた。十人あまりの同胞はさすがに日本人らしく床の上にきちんと端座して円陣をつくった。

 「どうかあぐらをかいて下さい。そして自由に聞いて下さい。私も自由に話ますから」
 でも、誰一人膝をくづすものはない。私は日本の近状を先づ話てから、身体は拘束されてゐても、魂はくゝられてはゐない。今こそ静思の結好の機會だ。と言って冥想の話をした。

 話が終わると、同行者の一人が弾くヴァイオリンに合せて、みんなで讃美歌を歌った。
 此処はアメリカの監獄であるが、歌は日本語の讃美歌である。格子の空間から差し入れた讃美歌集を受け取って、囚人達も一緒に合唱した。コンクリートのホールに讃美歌が反響する。
ゴシック式の教会の中では味はへない感激だ。

 私達は檻の内外から堅い握手を交わした。携へて来たキングや講談倶楽部を差し入れ、又読み古しの邦字新聞を渡して、日本人らしくお辞儀をして、見送る同胞の囚人を後に其處から去った。

 日本人の囚人は十階にももう一群、拘束されてゐた。私達は前と同じやうに話をし歌を歌った。

 これ等の日本の囚人達は、多くは酒の密造か密賣で収容されてゐるものだ。
 「何しろ五勺位の小瓶一本の酒が一弗にも売れるのですから、つひ法を犯す気にもなるのでせう。殊に日本人の作った酒はうまいといって、評判がいゝと言ひますから」

 「彼等は改心しますかね」
 「入監中は色々面倒を見てやる私達の手前丈けでも、改心して二度と再ぴ罪を犯さぬとちかってゐますが、いよいよ外へ出るとなると、ボロい儲けがあるので、どうも改心が出来かねるやうです」
斉藤さんの説明に、私達は心が暗くなる思ひがした。

 元来た這を引返して行くと、白人の囚人を前にして、救世軍の女士官が美しい声で説教してゐた。私達はその前を遠慮勝ちに通って事務所の方へ行った。其處ではジャズバンドの稽古中だ。

 「監獄の外から来てるのですか?」
 「いいえ、囚人がやってゐるのですよ。改悛の情の見えたものは、かうして檻の外で音楽の稽古をする事も許されてゐるのです。尤も、監獄の外へは滅多に出してくれませんけれど」

 私達は軽い気持ちでそのバンドの一人にグッドバイをした。彼もまた自分が囚人である事を忘れたやうな態度で、愉快相にグッドバイを返した。
 新聞を賣りに来てゐるものもあった。

 書落したが、此處は加州ロスアンゼルス郡の監獄で、六箇月未満の懲役囚を収容する處、六箇月以上のものは桑港近くにある加州州立サンクインテン監獄に送られるのだ。私達は看守達のニコニコ顔に送られて鉄格子の外に出して貰った。

 「どうやら無事出獄が出来ましたね」
 「お目出度う」
 みんなは笑ひ合ったけれど、獄内の邦人囚人の事を思ふと、私はどうもシンからは笑へなかった。

 午後二時から合同教会の婦人會で賀川夫人の話をする。泣いて聞いてくれてゐる聴衆もあった。そして若干の浄財があつめられて賀川夫人に送られる事になった。
然し現金を贈れば決して夫人が自分の用に使ふ筈がなく、賀川先生の事業の方に廻されて了ふに違ひないと話たので、その半分は夫人及び子達のために品物を買って送る事にきまった。

 婦人会が済んでから、私は桝中幸一氏夫妻の案内でロスアンゼルスの見物に連れて行って貰ふ事になった。桝中氏の運転で。

 先づ近頃有名になったマクハーソン女史の教会を見に行く。彼女はサバーゴスペルの一派で癒しをもやるので評判なのだが、何かしら民衆を引きつけるものがあると見えて、日曜説教などは数千人を容れる會堂が一杯で這入れないといふ。
私達が行って見ると果して満員で門外に溢れた人々が帰らうとしてゐる處だった。

 マックハーソン女史は本年四十三歳、一昨年は海岸で誘拐されたと言って騒がれ、叉最近は三十四歳になる男と結婚し、しかも飛行機でㇵネームーンに出かけるなど、兎に角、尋常人でない事丈けは間違でない。

 自動車は新たに開けた山手を走って、ロスアンゼルス市立公園へ這入る。鬱蒼たる林だ。湖もある。然し以前は此處ら一帯は禿山で、全く見捨てられてゐたのだが、羅府の発展と共に、この禿山を緑化する為に、市が大規模な植林をやったのだといふ。緑陰を行くと、到る處水道のパイプが引込まれて、水がふんだんに樹木の根を霑してゐる。 

 この森林を縫ひ、湖水に添って多くの自動車が走って行く。多くはこの日曜を幸ひ、愛人を携へて行く連中だ。中には、眺めのいい緑陰にミシンを止めて、若い男女が抱き合ってゐるのさへある。然も誰一人それを笑ふ者もなけれぱ、岡焼をするものもない。「彼等をして、ほしいままに生命を楽しませよ、我等も亦かくすべければ」と言った態度だ。

 かうして自動車によるランデブーに利用される公園だけに、夜八時以後は戸を閉めて、入園禁止といふ規定がある相だ。羅府らしい公園ではある。

 私が民衆娯楽の研究をしてゐるときいて、桝中さんはハリウッドボールヘ案内してくれた。ボールと言っても球ではない。野外音楽堂だ。無雑作に丘の斜面を切落して、数千のスタンドを造り、正面にはお椀を半分に切って伏せたやうな恰好をしたステーヂが作られてある。一箇月前には関谷敏子が此處で歌ったといふ事だ。スタンドの観客席には前面を特別に設備して、所謂特等席としてあるのもアメリカらしい。

 ボールを出て暫く行くと、山の上に十字架が見える。それはピリグメイジシャターとよばれる野外劇場で、山上の十字架は、今、アメリカで評判のクリスト劇、グリーンパスチャーがつかったものだ相だ。

 此處は興行のない時は入口の扉が閉ざされてゐるので這入る事が出来ないが、ボールと反對に、山のスロープが一帯に舞台として使はれて、反對側の方から見る事になってゐるのだといふ事だ。年に二箇月位しか開場しないが、いつも千人からの客を集めるといふ。夜間開演のだから、この大規模な舞台に對する照明の如き、大したものだらうと思ふ。日本にもこんな大野外劇場かあったらと思った。

 続いて、グリーキ・シヤターヘ行く。これは三年前に建てられたもので、前の二つ程には自然が取り入れてはゐないが、矢張り屋外劇場でギリシャ式の石の舞台が千五百のシートに面して立ってゐる。

 ボールと言ひ、野外劇場と言ひ、グリーキシヤターと言ひ、青空を天井とした劇場は、年中殆ど雨の降らないアメリカにでこそ、建てられるもので、多雨國の日本などでは、とても望まれないものだ。

 帰りには早川雪洲華やかなりし頃の彼の住宅の前を通って、一先づパタデナの桝中さんの家に落着く。桝中さんはランプのシェードを商ってゐられるのだが、熱心なイエスの友の幹事で本誌「雲の桂」の配布を殆ど一手でやって来られた熱心家だ。

 氏のお宅で御馳走になってから、さらにその案内で、ハリウッドに車を走らせ、そこで一番大きな、そして、一番豪壮な映画館であるグローマンの支那劇場に這入る(羅府には五十の映画館がある)。劇場はすべて支那式の極彩式で、大きな寺院に這入ったやうな感じだ。観客席のチェアーも朱塗りの美しい支那式のそれだった。
 中へ這入るとエアバンクスが立ってゐる。おや、と思って見直すと、それは等身大の似顔人形だった。

 映画を見て、外へ出ると、劇場前の廣場のコンクリートの上に、沢山の足跡が刻まれてゐる。近寄って見ると、八丈位と思はれる可愛い足跡にスワンソンとかゲイナーとかシャラーとかのサインが一緒に刻まれてゐる。いふまでもなく此処ハリウッドの花、映画スター達の足跡とそのサインとである。

 僕の足跡もハリウッドへ残しておいてやらうと、私がスワンソンの足跡の上へ靴をのせて見ると、あはれ、彼女の片跡は私の半分位しかない。

 ハリウッドの夜は美しい。美しく舗装されたブルーバードストリートの両歩道を歩む。ハリウッドガールのスタイルにも、他で見られない華やかさが見られる。
 合同教會へ送り届けられたのは既に十一時過ぎ、階下の高橋さんももうやすんでゐられるらしかつた。

     (つづく)