賀川豊彦の畏友・村島帰之(141)−村島「アメリカ巡礼}(2)

  「雲の柱」昭和7年9月号(第11巻第9号)への寄稿文です。

         アメリカ巡礼(2)
         羅府・ハリウッド
                        村島帰之

   (前承)
   十月五日
 朝食を高橋さん處で頂いてから日本の話などをしてゐるうちに正午になった。
約束によって都ホテルに平田博士を訪問、予ねて博士から一度レントゲンを撮ってやらうと言はれてゐたのである。X光線によって立体寫真をとって貰ふ。私の胸部は打診によって想像するよりは悪くはないといふ診断であった。博士はロスアンゼルスの空気が乾燥してゐて呼吸器病患者にいゝ事、胸療法が大変成績のいゝ事などを話される。

 「僕ももう少し修業したら日本へ帰って賀川先生の幕下としてちっと働きますよ」と言はれる。博士は郷里岐阜県関町の教化の為に少なからぬ金を賀川先生に托せられた事は前にも書いた。

 「賀川先生の身体に對してあんな働きは全く奇蹟です。医學では説明がつきません。腎臓などは特にひどいのです。私は先生にこの調子をあなたが続けて行くなら、あなたの生命は四年しか持ちません、と言ったのですよ。決してホラではないんです」と言って心配される。

 私は日本へ帰って後も、先生が神の國運動のために今後も同じやうな調子の活動の続けられる事を知ってゐるので、今の博士の言葉を文書にして貰って、日本の神の國運動本部へ送って貰ふやうに頼んだ。

 三時、同じ都ホテルの一室にある大阪毎日特派員の工藤兄を訪問、夜は工藤氏に案内されてパラマウント劇場ヘトーキーを見に行く。紐育のロキシーにもまけない立派な小屋だ。

 日本の劇場とは違って、床がビロードで張ってあるから靴の音もしない。ドアも閉切られてゐるから、トーキーは百%俳優の声を生かしてゐる。新聞の廣告に「クール」とかいてあった丈けに、場内の冷却装置が完全してゐて、少しも暑さを感じない。

 十時、外へ出て食事を摂って、ブラリブラリとメイン街を帰って来た。
すると一流の映画館は既に果てゝゐるのに、まだ映寫の最中らしくどしどし客を呼込んでゐる所がある。見ると、それは徹夜営業の映画館で、さらに驚いた事にはアドミッションオンリイ拾銭と書いてある。

 徹夜で、そしてたった拾銭! 世にこれほど安いショーがあらうか。見れば労働者らしい人がもう十一時すぎだといふのに、ドンドン入場して行く。彼等は映画を見るといふよりは、其處へ寝に行くのだ。泊るに家のない彼等は、此處に来て映画を見ながら、そして妙なるトーキーの音楽をききながら、ウトウトと眠らうといふのだ。メロディーをききながら見る夢は、天國の夢かもしれない。然し、夜明近くなって騒々しい音楽に彼の天國の夢が破れた時、表には叉今日一日の労苦が彼を待ってゐるのであらう。

 失業者が沢山に出てゐる今日では、この拾銭ショウがこの界隈だけでも二、三箇所もあって客をよんでゐる。

 第一番街の日本人街近く来ると、ジプシーの女の人相見の店などあって、その前を色の小黒いメキシカンなどが彳んでゐる。何かしらギャングの物の本を見るやうな気味悪さを感じさせられながら、其處を通り抜けて合同教会に辿りつき、始めてホッとした。

   十月六日
 数日前から福音新報の久保田兄が交渉しておいてくれられたので、ハミルトンライブラリーの入場券が手に這入った。其處で高橋さんのドライブで徳夫人等と同道してハミルトンライブラリーヘ出かける。ロスアンゼルスを離れる事数哩のサンマリーの小高い丘の上だ。此のあたり一帯、数干町歩はハミルトンー家の所有である。ハミルトン氏が鉄道と石油とで儲けて、数千萬の富を有したのだ。

 然し彼は後年その私有地は賣りに出したが、自分が富に任せて集めた数萬巻の書籍と、價幾らとも分からない美術品とは、その豪壮な建物ぐるみロスアンゼルス市に寄附して、今は市の公共物となってゐるのだ。建物は二棟になってゐて、一棟は美術館、一棟は古い文献類が並べられてある。

 先づ文献の方から這入って見ると、世界で最初に印刷された聖書とか、リンコルンやスティブンソンの手紙等が頗る興を引いた。叉美術館ではトーマス・ゲーンスボロの書いた「緑衣の子供」といふのが評判だと聞かされた。何でも時價百萬弗の名画だといふ。

 コレクションの内容は兎も角として、そうした美術品を私有せずして思ひ切って公共に委ねるアメリカのミリオナーの太腹の處が嬉しかった。

 ライブラリーの裏手は一帯の廣い庭になってゐて、その中には日本式の庭園もあった。釣鐘堂や鳥居や、茶室やがなつかしく目に映った。
 私達は眺めのいい丘の上からロスアンゼルスを見下して、暫くを過してから叉元来た道を帰って行った。

 夜六時からは都ホテルで羅府イエスの友會幹部の送別会、平田博士、徳牧師、桝中、大坪氏等が出席、イエスの友の将来に就て語り合った。

    トーキー撮影場見學
   十月七日
 約束によって毎日新聞の工藤兄と折から来合してゐたミナ・トーキーの皆川さんと一緒にパラマウントスタディオ見物に出かける。工藤兄が車を持たないので、教會の高橋さんを煩わす。

 ハリウッドの大通りを少し這入った所に、兵営を思はせるやうないかめしい門と低い塀が巡らされた一劃、それが映画フアンの涙をそそらしめるフィルムの作られる所とは。

 正門の側に切符賣場のやうな小さな窓の開いた處かある。其處はエキストラの受付所ださうだ。
 「エキストらは登録されてゐるのですが、その数は何千といふ多数に上ってゐます。けれど本当に使はれるのは、その中の何百人に一人といふ少数で、大部分は一年に二度位しか庸つて貰へないといふ事です」と工藤兄が説明する。

 私達はエキストラではないから、正門から這入らずに、少し離れた営業部の入口から這入る。工藤兄が外國係の人に名刺を出す。待ってゐる間も、女優らしいのや監督らしいのが出這入りする。やがて私達は外國係の人に案内されて構内に這入った。兵営のやうに廣々としたグラウンドがあって、それを取巻いて各種各様の建物が建ってゐる。或物はホテルの入口のやうな恰好であり、或物はオフィスのやうであり、或物はアパートのやうであり、叉或物は貧しい普通の家のやうだ。これはその時々の筋書によって適宜セットとして使はれる處のものである。そして、表側がセット用として使はれると共に、内部の部屋は普通のアパートのやうになってゐて、俳優達の化粧部屋などに使はれるのださうだ。
            
 「その辺の窓からガルポでも首を出しさうな気がしますね」といふと、
 「いや、あいつはとても難物ですよ、何でも會社との間に取交した契約書の一項目として、本人の意志に反し、会社の宣伝の目的のため、濫りに他人に面會せしめざる事。特に新聞記者に然り、ッてな事を定めてゐるとかで、僕等もまだ彼女だけには拝顔の栄を得ずにおるんです」
と、工藤兄が笑ふ。すさまじい各映画会社の宣伝戦と、のぼせ上ったスターの我儘振りが窺はれる。

 「今日は生憎大部分仕事を休んでゐるのでお気の毒です。サイレント時代と違って、トーキーは雑音を嫌ふので構内で屋外撮影をする時など構内のありとあらゆる音を止めるので靴音さへ遠慮しなければならないのです」
 と案内役が話す。

 段々中へ行くと、とても大仕掛なセッㇳがまるで紙芝居の画割りやうに、色々なポーズを見せて建ってゐる「パリの屋根の下」の貧民窟に似た長屋式のアパートが、今にも倒れかゝり相に建ってゐる。私達は、そのアパートの前に立ちながら、何か一役やってゐるやうな気持ちがした。

 長屋と直ぐ脊中合せに豪壮なホテルの入口がつくられてゐる。貧と富とが脊中合せだ。正に社會の縮圖を見る思ひがする。
 セッㇳの外へ出ると宙釣りの飛行機を高いはしごに乗ったカメラマンが撮影してゐる。これで空中大活劇でも作られるのだらう。更に行くと五十坪ほどの池が掘られてゐる。
 「これが大西洋になったり太平洋になったりするんです。五十坪の大洋で大海戦も行はれるし、巨船の大衝突も撮されるのです。」

 正に幻滅である。さう言へば、池の傍におもちやのやうなトリックの鉄橋がめちゃめちゃに壊されて捨てられてある。恐らくは汽車の大衝突か、鉄橋破壊の場面が撮られたに違ひない。
 私達はトーキーを撮ってゐる場面が見度かった

(あと多分一頁分はあると思われるが、手元の号はそれが欠けている)

 ついで巻末の広告の賀川の絵画をスキャンして置く。