『「対話の時代」のはじまり―宗教・人権・部落問題』紹介批評(1)中村悦也『アレテイア』1997年
『「対話の時代」のはじまり一宗教・人権・部落問題』批評(1)
『アレテイア』1997年No.18 「私の選んだ1冊」
日本基督教団洛東教会牧師 中村悦也
鳥飼氏にはこれまでに、『部落解放の基調―宗教と部落問題』(創言社)、『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所)他、多数、論文がある。
今回は、これらの専門の知識の内容に基づき、自らの57年の個人史とのかかわりのなかで、どれ一つとってもとても大きな問題をもっている、”宗教”“人権”“部落問題”というものを論じている。
言うまでもなく、宗教は宗教学・宗教哲学、人権は法学・法哲学、部落問題は、歴史学・社会学に基づいて論じる必要があろう。論者はそのことを、それぞれの専門の学者以上に、よく自覚なさっている。
もう三十年以上も昔の荒れ狂った大学闘争の頃、“専門馬鹿”ということが叫ばれた。それぞれの学問の専門家が必ずしも自らの学問の核心を広い他の学問の分野とのかかわりののなかで、深く理解しているとはいえない。
事、宗教や人間の核心の問題になると、仏教・イスラム教・キリスト教等の宗教家や宗教学者達よりも、ただの一生活者の方が、どんな深く、信仰や人間のことを理解しているかということは、鈴木大拙や森有正がそれぞれの著書のなかで論じておられる。
たとえば、詩の本でいえば、茨木のり子著『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書、すでに42刷発行)のなかには、どんなに深く福音が語られているか驚くほどである。私はこのことについて『生命の詩は何処に』(近代文芸社)で論じた。
鳥飼氏は、宗教・人権・部落問題を、それぞれバラバラの別問題としてではなく、それぞれの根源を凝視して、しかも万人の事として、私共に語りかけてくれる。
彼の本の、「二・2、宗教の基礎一、個人的な経験」のところに、こんな一文がある。
彼は、ひょんなことから通い始めた教会の牧師夫妻の清楚な生活ぶりに感動して、母子家庭の貧しさのなかから、同志社大学神学部にすすんだ。
そこで、ひとつの“重大な難問”にぶち当たってしまったという。
「この難問とは、たいへん見極めにくいものですが、わたしの信仰のなかに含まれている、どこか独善的なもの、独り善がりのイヤらしさが解けないでいる、それがどこから来るものなのか、それをどう解けばいいのか分からない。ここを解くことができなければ、わたしはひとりの牧師として、ひとりの人間として、よろこんで生きることもできないような、そういう根本問題につき当たりました」という(ゴチ著者)。彼が、ひとりのキリスト者と書いてないことに注目して頂きたい。
その後、彼は、ある神学書によって、その難問を解決したという。
その本よりも、それ以前に、「宗教は本来、人間を自由にする」という感性が、彼にはあったろう。その感性が、本と著者に出会わせた。
このことを、一層はっきりさせたのが、奥さん共々神戸のゴムエ場で長年働いたことにあると思う。
奥さんは、厳しいゴム労働者体験を経験化して「貼工讃歌」というユーモア溢れる文章を、かつて『いぶき』という個人誌に連載なさった。彼女は、関西学院大学神学部出身の牧師。今も、ホームーヘルパーとして働いている。
彼ら夫妻は、宗教を信仰している、していないに関係なく“人生を信頼して生きている”人達に多く出会っている。
彼ら夫妻の書き物の特徴は、聖書が一行も登場しないのに、福音が鮮烈に語られていることだ。晩年のバルトの如く。
(A5・64頁・583円〈本体〉・兵庫部落問題研究所・1997年)