新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第3回)



     爽やかな風


   −宗教・人権・部落問題ー


              第3回


  第一章 対話の時代のはじまりー宗教・人権・部落問題


   第1節 宗教は面白い


     1 「どこかに美しい島はないか」


       (一) 「うた」との出合い


 「流星雨」 まだ三年あまりしかなりませんが「フィールドーフォーク」の世界を楽しんでいます。昔、わたしたちも若かった頃、高石ともやさんや岡林信康さん、そしてわたしは特にお気に入りだった高田渡さんたちのフォークソングを楽しんできましたが、いまとても心を寄せているのは「笠木透と雑花塾」とその仲問たちです。


 笠木透さんは、知るひとぞ知る日本のフォーク界の大御所です。わたしたちが特に身近に出合い、この愉快な仲間たちに触れることのできたのは、兵庫県姫路市在住の版画家岩田健三郎・美樹さん御夫妻をとおしてでした。岩田さんはもう二〇年以上も前から、わたしたちの仕事場(「兵庫部落問題研究所は当時まだ「神戸部落問題研究所と呼んでいました」の雑誌『月刊部落問題』で毎月一頁の作品を欠かさずいただく深い関係がありましたが、その岩田さんが「うた」の新作発表をされるというので、姫路の山奥にある素敵な山荘「かつらぎ自然学校」まででかけだのがヤミツキのはじまりでした。


 以前から岩田さんは、自作のうたをつくり「星まつりコンサート」も開いたりして、全国各地に仲間たちが生れていました。みんなで食事をつくり、イロリを囲んで美酒を楽しみ、岩田さんたちのトレトレの歌を聴いて、それをダシにあれこれと語り合う、とてもとても幸せな場所がそこにありました。わたしたちには、歌が作れるのでも、歌がうたえるのでも、ギターができるのでもないのですが、黙ってそこにいて落ち着ける、そんな場所でした。それから、少しずつ、笠木さんはじめ雑花塾の個性あふれるメンバーの方たちとも「友だち」になっていきました。


 この仲問たちは、「フィールド・フォークーカルチャー・ユニオン」をつくり、自作のうたをいくつものCDに仕上げたり、『光の海』という一〇数メートルにも伸びる美しい絵本を作製したり、全国に出向いて手づくりコンサートを開いたりしています。


 最近できたCDでは「どこかに美しい島はないか」というタイトルの、これはまた素敵な作品が生れました。沖縄の小さな無人島「こんがりここなつ島」まででかけての経験を歌い込んだ「うた」たちです。


 先日の夏期講座では、このなかの作品のひとつでも一緒に聴けたらとおもい、わざわざ携帯用のCDディスクとスピーカーを買いもとめて用意しましたが、時問の不足でうまくいきませんでした。そのとき特に聴きたかったのは、笠木さんの作詞に安川誠さんが曲をつけた「流星雨」といううたです。


 数年前、長野県にある福地温泉で一夜の宿をとったとき、丁度その夜は降るように流れ星が見える夜で、露天風呂につかりながら、満天の星に見とれたことがあります。笠木さんたちは、この遠い沖縄の小島に出向いて「美しい島」にめでたく出合い、白い砂の上に寝転んで、天頂の白い天の川と、こぼれ落ちるような「流星雨」に心を開き、「無限の空問」に感勤しながら、次のように歌っています。


   人間はどこから来たのだろう
   人問はどこへ行くのだろう


 この箇所は、美しいメロディーにのせたリフレインになっています。



     (二) 誰もが問いつづけ、誰にもかけられている「ひとつの問い」


 笠木さんは、CDジャケットのなかの文章で、こんなことばを記しています。


 「いつのころからか、あこがれはいつも、水平線の、そのむこうにあった。そこには、誰も知らない、誰もいない、小さな島があるはずだった。すき透った海と、白い砂と、緑したたる森と、光あふれる空の、美しい島が横たわっていて、そこに、気のおけない友人たちがいる。(略)みんな木陰に集まってきて、いつもの話。傷ついた青春の日々。失敗して、そのブザマさを笑われたこと、ヤスで突いて逃がした魚の大きかったこと。などなど、いくら語っても、語りつくすことのない、同じ話に、笑いこける友人たち。(略)そんな島は、どこにあるのだろう。あるはずもない。でも、あったのです。(後略)」


 「どこかに美しい島はないか」 こうした探究心は、幼少年の頃からのものだけではなく老年期になってからも、いつも新鮮な問いであり、一度見付けた「美しい島」に出合っても、またもっと「美しい島」はないかと、いくつになっても探し求めます。それも、人間の面白さかもしれません。


 笠木さんたちが見付けたという「こんがりここなつ島」は、確かにこのCDに歌い込まれたうたを聴き、楽しそうに語られるお話に耳を傾け、岩田さんが描いたCDジャケットやその原画などを拝見していますと、想像して見るだけでも、その美しさを一緒に経験しているような気にさせられます。そして、この歌に聞き入っているわたしたちは、なにか、わたしたちが生活している「いま・ここ」が、まったくこれまでとは違った場所として、受け取り直されてくるのも不思議なことです。


  「人間はどこから来て、どこへ行くのか」
  「人は何のために、何を目的に、どんな目標に向かって生きるのか」
  「生きる確かな足場、揺るがない土台は、あるのだろうか」
  「あるとすれば、それはどのように?」


 このような問いを全く出さないで一生を終えることのできる人は、人であるかぎりどこにもいません。もちろん、こうした問いを、自分のこととして問うことを途中で止めようとしたり、このような問いを無意味なこととして、問いそのものを否定する場合もあります。生きる目的も目標もあるものか、という人もあるでしょう。そうした、一応の答えを出しながら、みな毎日の生活をつづけています。


 ただ、わたしたちがどのような答えを見出して、どのような生き方をしていても、いつも消えることのない問いかけは、人間には等しくかけられていて、いまのわたしがそのつどその答えになっているとはいえないでしょうか。


     (三) 「宗教」は特別のことではない
 

 ところで、近年あのオウム真理教の問題などもあって、人々の「宗教への関心」も強くなっていることが指摘されています。特に若い人々の関心事ともなって、店頭にも宗教関連の書物があふれるようになっています。もちろん「宗教への関心」といいましても、肯定的な関心もあれば、逆に否定的な関心もあります。高齢社会のなかで、人間の尊厳死ターミナルケアなど「いのち」「死」への関心なども広がって、そうした関連からの宗教的関心も深まっています。


 かつて「宗教」といえば、何か「特別のこと」として考えてしまいがちでした。わたしたちにとって「宗教」は、個人のことというより、むしろ日本の場合「家の宗教」として考えられてきましたから、たまたま生れ育った「家の宗教」が浄土真宗であれば浄土真宗に、禅宗であれば禅宗になり、それが「わたしの宗教」でもあるとして危ぶまないところがあって、「宗教」のことを話題にする時は、どこか「宗教家」とか「信仰者」とかの特別の人、もしくは特別のこととして受け止めることがありました。


 そしてまた、多くの日本人の場合、子どもが生れたらお宮参りをし、新しい家庭をはじめるときはキリスト教式の結婚式を挙げ、人生の終りでは仏式で葬儀をするという、きわめて優柔不断な「なんでもあり」の生活態度も、一般的な特徴としてあげられたりしてきました。


 そうした傾向は現在でもつづいていることですが、しかし、もともと宗教は、さきに歌われたような「人間はどこから来て、どこに行くのか」という問いや、「人間の本当の支え・土台はあるのか、ないのか、あるとすればどこにあるのか」という問いとかかわっているのだといたしますと、宗教の問題はもともとごく普通のわたし自身のことであり、またこの世界・歴史の始めと終り(目標)、またその土台に直接かかかるものだ、といわねばなりません。


 その意味では、一般に「宗教は私的なこと」であるといって、それ以上自分のこととして立ち入ろうとしないのも、ひとつの立場とはいえ、問題を解いたことにはならないようにおもわれます。



    2 宗教の基礎


      (一) 個人的な経験


 さきに、宗教がごく普通の、このわたしに直接することであると申しました。ここでは、少し個人的な経験を、ひとつの「打ち明け話」として記しておきたいとおもいます。


 わたしにもみなさんと同じ様に「青春時代」がありました。いま五〇代の半ば過ぎですが、まだ高校生のころに、田舎育ちのわたくしが、ひょんなことからキリスト教会に行くようになりました。幼いときに父は病没しましたので、父の思い出はほとんどなく、仏壇の上に飾られた三〇代の遺影など見て、勝手に想像するだけでしたが、教会に通いはじめて最初「父なる神さま」と祈るのが、どこか肉親の父とも重なって、不思議な親しみを覚えたことがありました。そして、そこの牧師夫妻の清楚な生活ぶりに感動したこともあって、自分には何の取り柄もないけれど、農村の小さな教会の「田舎牧師」になれたら嬉しいと、母子家庭の貧しさもうちわすれて京都へ行き、同志社大学神学部にすすみました。


 あの六〇年アンポ時代がわたしの学生時代です。自由な空気を満喫し、はじめて読書の面白さを知り、教会の方々や兄たちから学資の支援をうけながら、実に愉快な日々を過ごしました。しかし、わたしにとってひとつ重大な難問にぶち当たってしまいました。それは、教会に通いだしてすぐに気付いていた問いでもありましたが、牧師になるために本格的に学びはじめて、いっそうその難問は大きくなってきました。


 この難問とは、たいへん見極めにくいものですが、わたしの信仰のなかに含まれている、どこか独善的なもの、独り善がりのイヤらしさが解けないでいる、それがどこから来るものなのか、それをどう解けばいいのか分からない、ここを解くことができなければ、わたしはひとりの牧師として、ひとりの人間として、よろこんで生きることもできないような、そういう根本問題につき当たりました。しかし、いわば執行猶予の六年間でもあった学生時代というのは、この問いがあったがために、困難であっても愉快な、二度と来ない充実した日々を過ごすことができたようにおもいます。


 一冊の本との出合い では、この難問は解けたのでしょうか。くわしいことはここでは紙幅の関係でお話できませんが、わたしの場合、この学生時代に一冊の古本との出合いが、その窮境を救ってくれました。


 それは、京都大学のある百万遍あたりにあった古本屋で見付けた五〇〇頁近い『カール・バルト研究』という著書でした。「カール・バルト」という名前は、二〇世紀の最大の神学者のひとりとして広く知られ、当時まだドイツでご健在でした。 日本でも彼の主著である『教会教義学』の「和解論」の翻訳が数年前からはじめられていましたが、『カール・バルト研究』の著者である滝沢克己先生については、うかつなことに名前さえも知りませんでした。これの初版は一九四一年で刀江書院から出版されていました(現在では法蔵館刊行の『滝沢克己著作集』全一〇巻の第二巻に収められています)。


 先生は一九三四年フンボルト協会給費生としてドイツに留学され、西田幾多郎の薦めもあってバルトのもとで学ばれていました。そこで初めてキリスト教と出合われたようですが、わたしの抱いていた切実な疑問をはるかに超えて、先生は問題の核心をこのときすでにハッキリと射当てて、学問的にこの問題を、ドイツ語の論文として発表しておられたのです。これが日本語として「イエス・キリストのペルソナの問題」という副題がつけられて戦前に日本で刊行されていたのです。「イエスがキリストであるとはどういうことか」という、核心の問題をごまかさないで探究した画期的な仕事が、そこで遂行されていたのでした。


 この著作との出合い以来、当時先生の発表された諸著作(西田哲学、夏目漱石デカルト、仏教とキリスト教などの著書)を次々ともとめては読むなどして、とにもかくにもわたしにとってのキリスト教の独善的なイヤらしさから、はじめていくらか自由になることができたようにおもいます。こうしてメデタク卒業し(結婚もして)、念願の「田舎牧師」の歩みをはじめました。


      (二) 宗教は本来、人間を自由にする


 ところで、もう少しここで、「宗教」が独り善がりの人間をつくったり、「信仰」することが何か特別な資格でも得たかのような「いいき」にならせたりして、しばしば人間をその宗教教団に囲い込もうとする、こうした傾きからすっかりわたしたちを解き放ち、自由にする「大きないのち」、つまり「宗教の基礎」について触れておきたいとおもいます。


 わたしがここで「宗教の基礎」とよぶものは、これまで触れてきました「人間の土台」「支え」と別のことではありません。それは、すべての人(もの)のもとにはじめから等しく据えられている「確かな基礎」でもあります。これは、さらに正確には「基礎なき基礎」というべきでしょうが、ここではこれ以上立ち入ることはできません。宗教者とは、こちらに何の取りえもまったくないにもかかわらず、何の幸いか、この「基礎」に目覚めさせられたに過ぎない、ただの人のことをいうのでしょう。


 もちろん、「目覚める」といいましても、これは何かを所有するように「わたくし」するわけにはいきませんし、してはなりませんし、する必要もまったくないものです。ただ、幸いにも目覚めさせられた限りにおいて、この「基礎のダイナミズム」――ここには「いのち・光・力」といった創造的な働きの源がある!――に促されて、よろこんで生きるところに、人としての、また宗教者としての日ごとのつとめがあるのだとおもいます。


 それぞれの宗教の師祖といわれる人は、まさにこの「基礎」を「基礎」としてしっかりと踏まえ、「そこ」から「そこ」にむかって生きていかれた方々だといえるでしょう。つねに単なる自分を先立てることをせず、生きている「今・ここ」を逃げないで、その人の固有の生涯を生き、時代を生き新しい歴史をともにつくり出す働きをしてきた先達ではないかとおもわれます。


 「オウム真理教 ただしかし、せっかくの宗教がその「基礎」を見失い、立つべき「基礎」のあることさえ見失ってしまった、実に恐るべき宗教の事実も、これまで歴史に無数に繰り返されています。それはなにも最近の「オウム真理教」を取り出すまでもありません。人間は、個人のレベルにおいても集団的なレベルにおいても、この「確かな基礎」を見失い、或いは勝手に私物化してそれにしがみ付こうといたします。そうした落とし穴に落ち込んだときには、個人であれ集団であれ、また民族や国家であっても、都合の悪い者(たち)を見境なくポアしてはばからないわけです。このことを白日のもとにわたしたちの前にさらけ出しだのが「オウム事件」でした。


 「オウム事件」は、宗教に対する恐怖を人々に植え付けました。実際に宗教は、あそこまで落ちるわけですから、恐ろしいものです。「基礎」への基本感覚がいきづいていれば、こうした「宗教」に落ちることをまぬがれることができるのでしょうが、あげ底されて一人よがりになった「宗教」はたいへん危険です。「宗教の基礎」は勝手に独占できるものではなく、しっかりと「そこ」を踏まえて生きることのできる大事なバネですからね。


 宗教の面白さ はじめにあげました笠木透さんたちの最新のCDフックスで「君よ五月の風になれ」という作品があります。これは、日本国憲法の制定五〇年を記念して完成されたもので、前作「昨日生れたブタの子が」(戦争中の子どものうた)の姉妹編です。この作品には、沖縄の米兵が引き起こした事件をうたった「少女」や、「核兵器がなくて滅びていくとしたら滅びていこうではないか」とうたわれる「軟弱もの」などの新作が収められています。こうした非暴力や戦争放棄の決意と実行は、決して「軟弱もの」ではできません。眉間にしわを寄せたような悲痛な決意からではなく、単なるわたしのではない、万人を包む大きないのちに目覚めさせられた深いよろこびに、心底促されて、はじめてできるものではないかとおもわれます。


 わたしたちは、二〇世紀のドン詰まりに生きています。官僚や政治家、自治体や身近なところで汚職や腐敗がはびこり、人々の大切な信頼を失っています。こどもたちも、何を頼りに生きていけばいいのかわからない「不信の時代」を生きています。


 昨年亡くなった司馬遼太郎さんと井上ひさしさんの対談『国家、宗教、日本人』(講談社刊)で、司馬さんは次のような発言をしていますね。


 「仏教とかカトリックといった人類の基本思想も、中学や高校のときの授業で教えるべきでしょうね。日本における基本思想、それが明治以降に入って基本思想とはどういうものなのかを知らなければいけない。宗教という名前になっているから公立高校では教えないというのでは具合が悪いでしょう。世界市民になって大きな顔をしている日本人としては、たとえばイスラム教とはどんな宗教かという基本的なことぐらいは、高等学校の二年生のときに習ったということでなければならないでしょうな。」(60頁)


 こういう司馬さんの発言に、井上さんも「同感」していました。おしつけの「畏敬の念」を学ぶという、とってつけたような「道徳教育」ではなく、また単なる受験教育的なマルペケ式のそれでもない、人類の遺産である「哲学・宗教」にかかかる基本的なことは、少なくとも青年期において、問うべき問いを出し、深い疑問を教師ともどもたずねもとめ、その問いのなかから「発見」するよろこびを経験することがなければ、今日の官僚たちの犯罪さえも、ほんとうには食い止めることはできないのではないでしょうか。


 学校教育のなかでどのように学ぶべきか、これは議論を生むところですが、大人も子どもも、こうした基本的な学びを通して心を耕し、わたしたちの生れ育った自前の文化・芸術・思想・宗教の面白さを学び(もちろん批判的にも)、異なった世界(文化・芸術・思想・宗教)との出合いと対話を促していかなければ、新しい「地球時代」は聞かれていかないことは確実です。


 蛇足になりますが、二〇〇万部を越えたという永六輔さんの『大往生』の後にでた『二度目の大往生』(岩波新書)にも、こんなことが書かれていました。


 「僕は学校教育のなかに、宗教教育がもっと考えられていいはずだと思います。
 『さあ、みんな、先生はこういう宗教に入っているから、おまえたちも入れ』なんてことをいっているんじゃないですよ。それじゃ、憲法違反です。
 そうじゃなくて、世界中にどんな宗教があって、どんな哲学があったのか、その根本のところは何なのかをきちんと教えるべきだということなんです。それがいまいちばん問われていることでしょう。そういう宗教教育をしなければいけないんじゃないか、という提案が学校側や先生側からされなければいけないんです。憲法違反にならない宗教教育というものをぜひ、学校教育の現場で考えて教えてほしい、そう思っています。」(132〜133頁)


 こうした発言を、みなさんはどう受け止められるでしようか。


     (三) 宗教の基礎――大地震のなかでの経験から


 これまで宗教、特にその「基礎」について少し触れました。ここでちょっと、思いも掛けなかったあの「阪神淡路大震災」に出合った経験を記させていただきます。


 あの一月一七日早朝はまだ暗闇で、夢のなかでした。一四階建ての高層住宅の一一階、ベッドごと大きく飛び上がり、大音響とともにビルが振り回され、幾度も幾度ももう「ダメカ」とおもったあの感じは、まる二年も過ぎたいまでも消えません。多くの家々は一瞬のうちに倒壊して無数のいのちを奪いましたが、なぜかわたしたちのビルは全壊になったとはいえ倒壊せず、家内ともども愛描ピコも、共に生き延びることになりました。あの恐ろしさは恐ろしさのまま、とにかく「からだひとつ生きている」不思議を味わいました。


 「大地は、まだ揺れている」 過日発売されたCD『大地は、まだ揺れている。』という作品があります。神戸市東灘区で被災した岡本光彰さんが震災のあと作られて、仮設住宅や復興のための集いに出向いて歌いつづけている作品です。


 ウディ・ガスリーアメリカ民謡などのわたしたちにも親しみのあるメロディーに新しい詩をつけて歌われていたり、沖縄の女子小学生から贈られた励ましの折り鶴とともに届けられた短い手紙―−「つるをつなぐたんびに/家がなおってくれたら/どんなにいいだろう/つるをつなぐたんびに/人が生きかえったら/どんなにいいだろう/つるをつなぐと/ねがいがかなう/そんなつるがいたら/どんなにいいだろう」――に、見事なやさしい曲をつけて歌われる「つる」という作品など、被災地の神戸から生れたオリジナルなフォークソングです。歌詞など自由に紹介・引用してもよいと書かれていますので、岡本さんの好意に甘えて「大地は、まだ揺れている」から、その一部を紹介させていただきます。


   仲間同士争うのはやめよう。話し合おう、違いをわかり合おう。
   仲間同士争うのはやめよう。違いを認め合い、ともに生きていこう。
   自分を超え、家族を超え、町を超え、国を超える、そんな愛もあるはず。
   自分を超え、家族を超え、町を超え、国を超える、そんな愛もあるはず。
       こころを澄ませば、大地はまだ揺れている。
       今と昔と明日を、つなぐ愛を待っている。


 こうして「大地は、まだ揺れている」なかで、わたしたちの生きる力と勇気の土台となり、お互いをつないでいるものは、これまで「宗教の基礎」とよんできたものと別のものではありません。それは、原爆や水爆をもってしても決して崩れることのないものであり、すべてのものを支えて生かしつづける希望の土台です。これがあるからこそ、だれでもそこからそこへむかって生きることができ、死ぬことができるのだと、あらためて経験させられました。


 親しい先輩からは、こんな「うた」もいただきました。


   「地は震へ 都崩るれど 基あり」


 震災でわたしたちは一様に、ひとの(ものの)「いのち」「生と死」の経験を強いられました。まさにそれは「生き地獄」でもありました。ひと知れぬようにひそとタオルを取り出し、涙を拭う姿をのぞき見ました。「悲しいときは、存分に悲しむが良い」というコトバが、わたしたちを暖かく包んだりもいたしました。そして、厳しく不自由な場所にあって、これに耐え、共に乗り越えていくことのできるバネに出合いました。ここから家庭もまちも仕事も、すべて静かに新しく動き始めるのでした。


 わたしたちにとっていちばん大切なことは、けっして「宗教」ではありません。ここで申しあげてきました「基礎」にあって生きる、それぞれの日々の経験こそがいちばん大事なことで、「宗教」はそのことを指し示すものに過ぎないのです。