「部落問題をめぐる宗教界の現状とこれからの課題」(1993年「部落問題全国夏期講座」)


宮崎潤二さんの作品「ニュージーランドクライストチャーチ空港にて」



部落問題をめぐる宗教界の現状とこれからの課題(上


       部落問題夏期講座 1993年7月
                   

                 序


 今年の夏期講座の統一テーマは「同和対策事業の終結と部落問題解決へのすじみち」であり、昨日は行政、運動、教育、啓発に関連して、総括的な問題提起が行なわれました。そして、本日は、それに関連した分科会が持たれています。私たちの「課題別講座」は、もちろんそれらと無関係ではありません。むしろ、それらを前提にした「課題別講座」であります。つまり、同和対策事業を早期に終結させて、より豊かな一般対策の充実をめざして、法以後のすじみちをたずねる、その方向で、私たちの分科会では、一部の運動団体による不当な「介入」と「差別糾弾」の問題を、学校教育の現場と宗教教団の中に検証して、その現状とこれからの課題を、共に学んでいこうというのが趣旨であろうと思います。


 本日ここにお集まりの方々は、10の分科会があるなかから、わざわざここを選んで参加されてます。今ご説明がありましたようにこの講座は「教育・宗教をめぐる介入と『差別糾弾』」となっています。
 そして、特に本年は、長年にわたって地道に闘い見事に完全勝利を勝ち取られた岡田先生のご報告と、現在ホットな形で継続中の広島の「結婚問題」にかかわる山田先生の報告が行なわれます。お二人の先生の報告に、私自身も大きな関心をもっていますし、おそらくお集まりの皆さんも、そちらに最大の関心がおありと思われます。しかし、なかには私がこれから報告をさせていただく「宗教」問題にも強い関心をもって出席されたかたもあるでしょう。いずれにしましても、私が先生方の報告の前座を受け持たせていただくことに致します。


 そこで、私のテーマは「部落問題をめぐる宗教界の現状とこれからの課題」という大きなものになっています。この課題についての切り込み方は、「宗教と部落問題」という形での関連だけでみましても、色々ありますし、これまで個人的にもいくらか検討を加えて参りました。しかし、この分科会のテーマは「解同の宗教介入と差別糾弾」ですから、できるだけ、その課題に引き寄せて、ご一緒に考えてみたいと思います。


 したがって、お話の半分は、「解同の宗教介入と差別糾弾」のその「現在の状況」を考えて見たいと思います。そして、そこではその問題点をできるかぎり明確にして見たいと思います。そのうえで後半は、では、私たちはこれから、どのような取り組み方をすることができるのかを考えることにいたします。おそらく、後でお話をされるお二人の先生も、それぞれ学校教育や教職員組合運動のなかで、これからどのように取り組んでいくのかが、むしろそれが大事な課題であると思います。


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 ところで、皆さんの多くは「宗教」に対するご関心はそんなに強くはないかもしれません。まして、「宗教と部落問題」それも、「解同の宗教介入」の現状については、あまり広くには知られていないことでしょう。
 しかし、レジメにも触れましたように、「解同の宗教介入」が大きくクローズアップされましたのは、今から10数年前、1979年以降のことで、いわゆる「差別戒名・差別法名」の問題と「曹洞宗」の宗務総長であった「町田発言」問題を契機にした「部落問題フィーバー」の時以来のことだ、ということは殆どの方が知っておられると思います。


 もちろん、「宗教と部落問題」との関係が論じあわれ、問題にされてきた歴史は古いわけですし、特に部落と直接的な関係が深い浄土真宗の場合は、特別の歴史を刻んでいます。そして、多くの宗教教団で、また、自主的な取り組みなど、多くの積極的な積み重ねもあります。この「部落問題フィーバー」の前にも、これが突然起こったわけでなく、問題自体はくすぶり続けていたわけです。


 例えば、私の所属する日本キリスト教団の場合でも、1960年代から、自主的な取り組みが存在してきましたが、フィーバーする以前の1975年の段階で、「解同中央」から「教団本部」への「確認会」が行なわれました。(これは、一面では70年前後の大学や宗教、我々の教団も総会が長期にわたって開催できないような混乱が起こり、その教団政治に関わって、この「確認会」が設定される、という流れがありますけれども)
 教団は、それを受けてはじめて「部落差別問題特別委員会」が設置され、81年1月には「部落解放センター」が大阪四条畷に作られていくのです(これには、解同から上杉・
大西両氏を教団常議員会というところに招くなどして強引に可決に至るわけです)

                
 或いはまた、1977年段階で、谷口修太郎氏(この人は一時期部落問題研究所の雑誌『部落』を担当したり、のちに解同の書記局で「解放新聞」を担当、本部中執でもあった人で、関西大、大谷大などで講座を担当しておられます)ら「部落差別と宗教」に関心をもつ研究者や解同関係の人々が、京都で『「部落差別と宗教」研究会』を組織して、毎月の研究会と合宿研究会なども行なわれていました。(後で少し触れてみたいと思いますが、最近、解同書記長の小森龍邦氏が『宿業論と精神主義』という本を出していますが、これは、この研究会をバックにしたもので、谷口氏との共著のような作品です)


 このように、一方で、宗教教団内部の事情が考えられますのと(ほかの教団の状況はどうだったのか教えていただきたいのですが)、「研究会」の積み重ねが重要な要因ですが、最も大きい解放運動の側の、特に解同の意図的な戦術上の理由が上げられます。


 つまり、1979年になって、宗教教団への糾弾活動を解同が強めていった理由は、全解連が「『差別戒名』など宗教界の当面する諸問題についての全解連の態度」(1982年1月)でも指摘されているように、当時「同特法」の期限切れを前にしての戦術的なものがあったでしょう。


 いずれにしましても、こうしたなかで、1981年には、神社本庁全日本仏教会(58の宗派、全都道府県仏教会加盟)・日本キリスト教協議会新日本宗教団体連合会など、68教団が加盟して(日蓮宗など一部の宗教団体を除いて)「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」(同宗連)」という新しい組織がつくられていきました。


 これは、真宗大谷派の住職で日本宗教者平和協議会理事長の鈴木徹衆氏は「1941年の『大日本戦時宗教報告会』以来の『宗教総動員体制』であると指摘しておられます。日本には、宗教法人で単立を含めると5000を越える。いわゆる包括教団は400余り、そのうちの50足らずですが、後で申しますように、関係の深い主要な教団の多くがこれに関係しています。


 そして、それぞれの宗教教団の内部には、行政の中の「同和対策室」や「同和教育室」のようなセクションが設けられて、教団内部の「研修」「学習」が行なわれています。
 例えば、少し資料が古いのですが、1987年6月に、「解同」の機関のひとつである部落解放研究所の宗教部会が、日本の宗教教団に対してアンケート調査を実施していて、その結果を見ますと、同和地区と最も関係の深い教団は、浄土真宗本願寺派西本願寺)で、部落と関係のある寺院は1072寺、10万戸余りが属しています。そこでは、「基幹運動本部」といって、これが教団の基幹に位置付けられて、本部、教区、組、で、1億以上の予算を計上して現在取り組まれています。


 また、真宗大谷派東本願寺)でも「同和推進本部」を設けて、6000万の予算です。
鈴木氏によれば、昨年の予算は7000万円とか。曹洞宗は「人権擁護推進本部」や「同和審議会」を設けて5000万近い予算です。高野山真言宗は「同和局」をつくって2000万です。


 それぞれの教団の組織・制度上の諸問題(「檀家制度」「組」、僧職制度の身分・衣、寺格、過去帳に添え書きー、身元調査、戒名、法名系図作成)や教義(「因果」「因縁」「業」「宿業」の問題、ケガレ、センダラ、貴賎・浄エ、経典の翻訳、)の問題など、宗教教団が歴史的に克服できてこなかった問題が、論議されていきました。


 そして、教団にとっては対外的には「解同」の運動課題である「基本法」制定運動、「狭山」再審運動などを推進する母体の一つになって現在を迎えているわけです。
 例えば、「基本法」制定のための署名は大谷派だけでも73万2千を『真宗門徒の証』として集めたといわれます。また、先の『橋のない川』の鑑賞券が東京では1カ寺5枚割り当てられたとか。「狭山」現地調査なども、多くの教団が組織して実施されています。


 今日では、多くの府県段階での「同宗連」が出来て、解同の翼さん運動のような取り組が続けられてきています。出来た順に、大阪、兵庫、広島、岡山、奈良、福岡、山□、京
都府、佐賀、神奈川、熊本、大分、愛知、その後滋賀県や長崎にも出来ています。


 これまでは、全国の基本法実行委員会の会長に、浄土真宗本願寺派大谷光真門主が就き、現在は曹洞宗の丹羽廉芳貫主がなっていることは御存じのとおりです。これは、あたかも「部落解放同盟宗教教団支部」でもあるかのようです。


 しかし、これが、どれほど内実を伴ったものかは、怪しいものがあります。レジメにも紹介しておきましたが、かつての「フィーバー」ぶりからさめてきて、「解同」の責任者
の声として次のようなボヤキの言葉が飛び出して来るようになっています。


 「宗教界は運動団体に対する対応だけはうまくなったが、表面的なジェスチャーばかり。最近の同宗連の総会には出席者がただの30人ほど。委任状でやっと成立した」
 このボヤキは「解同」の宗教問題の担当者でもある大西副委員長のことばです。


 「同宗連」はもともと、「解同」によって糾弾された宗教教団が「解同」に「連帯して」取り組む団体として結成されたもので、最初から「解同」との「連帯」関係が前提にあります。つまり、解同の「糾弾」に応えて誕生した組織です。


 ですから、宗教教団の取り組みの内容は、「解同」の方へ「報告」され、「解同」の運動課題がストレートに宗教教団に持ち込まれることになるのです。(これは、例えば「部落地名総監」を購入した企業などが、企業内研修などを報告するようなものと同じです)


 そしてまた重要な点は、解同の組織内研究機関である大阪の「部落解放研究所」の「宗教部会」が、あの「町田発言」問題で第一回の糾弾会のあとすぐに、1981年2月に発足して、以来幾度も宗教教団へのアンケートを試みて、その結果を公表してきたことも、見逃せません。


 ですから、宗教教団も「同宗連」も、結局「運動団体への対応」組織としての機能を担わされてしまいますから、常に教団内部のいちいちが、運動団体につつぬけになってしまいます。すると、宗教教団のトップは運動団体に媚びをふるようなかたちになり、そのパイブ役が教団内部にあって、そうした人々が変更した「運動」を教団に持ち込むことになり、教団全体にシラケとタブーが増幅されていくことは、いわば当り前の現象になっていきます。したがって、教団の主催する「学習」や「セミナー」なども、なかなか本当の力
にはなりません。


 かつて私たちの教団では「解同」からの指摘もあって、1984年11月の教団総会以降「賀川問題」が教団上げて問題にされ、「討議資料」までつくって、各教区・各個教会に論議が求められました。私は、それが余りに乱暴な内容でしたので、黙っておれなくなり、教団議長への「質問・意見書」を提出したり、『賀川豊彦と現代』と言う本を作って「対話」を求めたりもいたしました。これには、残念なことに、議長をはじめ公的にはどなたからも、何の応答も反論もありませんでした。ただ、実に多くの人々から、支持と共感の手紙や電話が寄せられ驚きました。その後、特に兵庫では殆ど話題にも上らなくなっています。
 結局、教団の上からの間違った取り組みは、新しい積極的なものを生むのではなく、逆に一層タブーを増幅させてきているように思います。


 これからの私たちの課題については、後で触れますが、ここでは「差別糾弾」に関連して申し上げておきたいことがあります。それは、運動団体が、宗教教団の差別を問題にする方法についての問題です。


 キリスト教団の場合は、「解同」は直接的には、最初一度「確認会」が行なわれた後は、教団内部のこととして、自主的な取り組みに任せる形を取って、継続した「糾弾会」は組織されませんでした。むしろ、教団内部の「解同支部」の皆さん(?)が、実質的な代行をしてきたわけですけれども。


 一方、「解同」は浄土真宗大谷派曹洞宗などには、組織的な糾弾会が行なわれています。「町田」問題は余りに有名ですが、教団として「解同」とやり取りを進めているきわめつけは、何といっても広島の「備後・安芸教区過去帳差別記載糾弾学習会」と言われるものです。


 これは1983年から延々と継続されたもので、昨年7月『業を担って』としてまとめられ、教団内部の学習テキストとして用いられています。(これは、83年に住職が過去帳に差別記載があることを「解同広島県連に提起し、85年から「解同」による「糾弾学習会」が88年まで7回。以後「同朋三者懇話会一備後・安芸・解同」が12回。91年から本山との「対応」現在に至っています)


 また、大谷派の最近の問題は、元宗務総長の訓覇信雄氏が「真宗同朋の会全国推進員連絡協議会」(全推協)の全国集会(1987年)での講演が「同朋社会の顕現をめざして一私からはじまる同朋会運動」と題して行なわれ、これが講演記録『同朋社会の顕現』として出版されました。これを内部的に指摘があって回収され、翌年2月になって、宗務職員望月広三氏が、先の「部落差別と宗教」研究会でこの問題を「報告」。そして4月に「解同」中央本部にこれを教団側が「報告」。5月に研究所宗教部会で取りあげ、6月には「解放新聞」で発表され、7月から中央本部による「差別講演事件確認会」(大西・小森・山中ら7人と教団から宗務総長・参務・同和推進本部長ら7人)が、さらに2回の「糾弾会」がおこなわれます。そこで何と「自己批判」を3回! −−(この教団での「同和研修」は、「解同」の糾弾テーブ「おめえら、それでも坊主か! 衣を脱げ!」などの罵詈雑言を聞かせて行なわれるとか)


 教団の外から宗教教団の抱えている問題について「批判」を行なうことはもちろん自由です。また、教団内部で、部落差別問題で論じあわれることは必要であり大事なことです。そして、それらができるだけオープンに論じあわれることは必要です。また、学問的に、「宗教と部落問題」に関して研究することは大切です。そして、大いに論争を深め、「対話」を重ねることは生産的なことです。


 しかし、基本的な事柄としてしっかりと知っておかねばならないことは、運動団体と宗教団体の区別・関係の認識です。これは、運動と教育、運動と行政、の関連と区別の問題と同じです。その認識が曖昧で混同されるときに、不当な介入を許すことになるのです。
 これは、これまで「行政」の「窓ロー本化」問題や、学校教育での「解放教育」の介入問題で、実験済の問題です。

                    
 その意味で、これまでの経緯がどうであれ、宗教教団や「同宗連」の「主体性」が現在もつよく問われていることは言うまでもありません。つまり、特に「区別」「間(ま)」の自覚が無ければなりません。(全解連は82年の「態度」では、「特定団体の圧力を甘受するのでなはく、宗教者の主体性で解決すべきであり、外部からの暴力的な糾弾攻撃には反対しなければならない」とされていますが、当然の指摘であると思います)。


 それと、特に申し上げたい点は、初めに触れました小森氏の著作についてです。これは、今年5月に刊行されたばかりのものですが、この『宿業論と精神主義』を読んで考えさせられた点です。


 彼の独自な「宗教論」についてはここでは取り上げませんが、問題は、この著作は個人のレベルの、研究的・学問的な表現活動とは異なった主張になっている点です。もしも、普通の個人論文であれば、大いに研究的に「対話」が進展いたします。しかし彼の場合、必ずそこに「解同の書記長」の顔が見え隠れして、いつしか「組織人としての発言」に置き換わるのです。


 大体、学問の世界であれば、学問的に1対1で、必要なら論争をすべきです。学問研究は、集団的糾弾は全く馴染みません。彼の独自な「宿業」論は、学問的な検討対象になるかどうか分かりませんが、いくらか彼の考え方に独創的なものがあれば、そのように発言していけばいいことです。


 しかし、この本で、宗教における「精神主義」を問題にして、清沢満之、曉烏敏、訓覇信雄らの「思想」を取り上げて「批判」するのですが、果たしてそうした批判は、現在の仏教の学問の世界でどれほどの新しさがあるのかどうか。今日の研究者の目から見れば、既に乗り越えられているものかもしれないのです。この書物の中からさえ、それは感じられます。その点、関係者の方のご意見をお聞かせいただきたいと思います。


 実際、「糾弾」の場でなされるやり取りは、全く学問的なものではありません。運動家と教団政治家の間の、生産的でない場が少なくありません。例えば、この本で取り上げられているものでも、道元の業論を問題にして、出席していたある「財政部長」に問い詰めて「部落差別は過去世の悪業によるものであると言わざるをえない」と言ったとして問題にする。これでは、余りに低劣すぎる議論に落ち込んでしまいます。

  (以下、次回に続く)