「同和問題と宗教」(第1回)(1990年、『宗教の今と未来』)


今回も宮崎潤二さんの作品です。



     同和問題と宗教(第1回


        岩崎・佐木編『宗教の今と未来』
        (世界聖典刊行会、1990年)


            I 宗教界の現状


 周知のごとく、現代目本のほとんどの宗教教団が、「同和問題に取りくむ宗教教団連帯会議」(以下 「同宗連」と略す)に組織されている。そして、主として関西を中心に府県レベルの組織化もすすみ、各宗教教団の教団政治にかかわる人々の「同和研修」や特定の運動団体(とくにこの場合、「部落解放同盟」、以下「解同」と略す)の運動課題に直接呼応した「連帯」活動かおこなわれてきている。


 この組織の成立過程のくわしい経過はここではふれる余白はないが、そもそもこの「同宗連」は、「解同」による宗教界にたいするたび重なる「差別糾弾闘争」によって、一九八一年三月に各宗教教団が教団レベルで組織的に加盟してつくりあげられたもので、げっして宗教者個人の自主的・自発的な参加を基礎にした組織として結成されたものではない。


 それだげに、当初から多くの問題と限界をふくむ組織であったが、これまでにこのような形の個別宗教教団の枠を越えた組織化がなかったことや、それぞれの宗教教団内のとりくみの浅さも手伝って、諸宗教間の共同のとりくみをおこなうなかでのこの「連帯」の働きは、それ自体を全面的に否定できない要因を含みもつかたちで今日に至っている。


 そして、「狭山事件」の現地調査や「差別墓石」の視察などが、「同宗連」として「自主的」にとりくまれている。また、それぞれの教団のなかには、同和問題をあつかう窓口が設けられ「推進本部」とか「委員会」なども設置され、教団内の「同和研修」や「差別事件」の対応などがおこなわれているのである。


 もちろん問題は、そこでの「研修」の中身がどうであり、どのような活動が実際にすすめられているかである。結成当初は、教団内部の差別事象などもからんで、「教団の自治」など考えるゆとりのないまま、もっばら運動(「解同」)対応型のとりくみがすすめられ、それに終始するものであったが、今日ではその基本は少しも変わらぬまま、さらに一歩踏み込んで宗教教団が上から一方的に、教団内の各個寺院(教会)の自治や自由を不当に侵害する傾向もみられ、事態はそれほど改善されたとも思われない状態がつづいている。


 しかも、教団が「主体的」にとりくむという場合でも、各宗教教団が固有に抱えている教団政治上の問題―−派閥的な問題も含めて――を打開するためのひとつの手段に、この問題を踏み絵的役割として利用しているだけともとれることも、けっして稀ではないのである。


 そして、これは一様ではないかもしれないが、各宗教教団におけるこの問題のとりあげ方は、一面では自称「教団改革」をめざす人々が中心的になり、「保守的」な人々の口封じに同和問題をとりあげる場合も少なくない。そして、おりおりに「解同」関係者を招いて「研修」を重ねるわけである。


 ある宗教教団の責任ある位置の方が、[われわれの教団は、『解同』○○支部だ」と自嘲気味に語っていたのを聞いたことがあるが、現在とりくまれている宗教教団の同和問題の中身は、今日では一部を除いて受け入れられることの少ない「解同」の独断的な「部落排外主義」、「分離主義」を前提にした「研修」や「実践」がつづけられているのである。


 当時、曹洞宗宗務総長であった町田宗夫氏の第三回世界宗教者平和会議(一九七九年八月)における発言をめぐる「解同」による「糾弾」を契機に過熱してきた今日の宗教界のこの現況は、同和問題の正しい解決とは真反対の方向にのめりこみ、たんなる教団内の「ミニ『解同』」の旗手の役割をになってしまったのである。宗教教団(宗教者)の幅広い地道なとりくみをこつこつとすすめるかわりに、既存の「運動」のゆがみをそのまま宗教教団にもちこみ、宗教教団(宗教者)としての何らの新しい独自の貢献もしないで、ただ「部落解放」のスローガソだけ掲げて「運動」に同伴してきたのである。


 その結果、宗教教団内の多くの人々は、これまで以上にこの問題にたいして口をつぐみ、一部の人々の一方的なかけ声だけが、徐々にトーンダウンしながらいまもくり返されてきているのである。


 これはなぜかといえば、教団政治にかかわっている人々は、あくまで当該教団の教団政治がまず大事であって、実際これまで本当のところは同和問題など視野になかったような人々が、ある時突然「確認・糾弾」を受けて豹変していった場合が多いということにもよるのであろう。


 そして、それまで地道にこの問題に黙々ととりくんできた人々の声に接して、はじめてことの「大事さ」を知らされた人々が多く、どうしてもそのような人々は、観念的な「反省」や「懺悔」を強調することが、いねばその出発点となり基調となってしまうのである。


 しかし、今日の宗教教団(宗教者)のこうした現状を、その根本から正していくことはそれほど容易なことではないように思われる。なぜならば、宗教教団(宗教者)が、こうした社会問題にとりくもうとする場合、問題そのものにたいする科学的な認識を丹念に深めていくことがおろそかにされ、たんなる宗教者の「反省」や「熱心さ」だげで社会問題にかかわりはじめることがほとんどであって、必然的に現状のようなあやまちに落ちこまざるをえなくなるのである。そして多くの場合、問題解決とは逆方向の反動的な役割をみずからになうことになるのである。

 そこで以下簡潔に、同和問題の現状とこれからの方向について言及し、宗教のはたすべき積極的役割と課題をふまえて、現代の宗教教団の課題を明らかにしておきたいと思う。


           2 同和問題の現状


 上記のような今日の宗教教団の現状は、たんに宗教教団だけにみられる現象ではなく、今日の部落問題のひとつの反映である。というのは、運動団体の一部である「解同」のなかに、今なお「差別糾弾闘争」を中心課題にして運動を展開する流れがあって、各地で教育関係者や行政関係者をはじめ、企業や一般市民にたいして旧態依然とした「確認・糾弾」行為がおこなわれてきており、それが宗教教団(宗教者)の間では、残念ながらそれに無批判に同調することで、この事態をのりきり、延命をはかりたいとする安易な対応がっづけられてきているのである。


 しかし、同和問題をめぐる現状は、けっして一部の運動団体(「解同」)が強調するような、これまでのままで推移しているのではなく、多くの人々の問題解決のための努力もさることながら、国や自治体をはじめ、教育・運動その他の、この二〇年ほどの間の集中的なとりくみによって、同和地区の実態も、また市民の間の意識においても、かつてみられたような差別的なものは、大きく改善されてきているといわなげればならない。


 もともと部落問題というものは、封建的身分制社会のもとで成立したものであって、その残滓が今日もなお残されているという問題であることはあらためていうまでもない。すでによく知られているように、戦後の変革によってそれまで部落差別を残し支えてきた物質的基礎(たとえば、絶対主義的天皇制、地主制、家父長制的宗族制度など)が基本的にとり除かれて、現在においては、同和問題の解決の状態をしめす具体的な指標を明らかにしながら、それこそ問題解決への「総仕上げ」の段階にたち至っているといってもさしつかえない現状にあるのである。


 したがって今日では、現実の変化とともに、かつてのような「差別糾弾闘争」なども意味を失ってきており、そうした旧態依然たるとりくみをすすめればすすめるほど、結果的にはあらたな差別意識を植えつけていくという逆効果のみをうんでしまう事態を招いているのである。


 その点、このたび(一九八八年一二月)の全国部落解放運動連合会(以下「全解連」と略す)が提起した差別にたいする新しい見解は、正確な現状把握と展望にたった内容のものであり、関係者の強い支持と共感をうんでいるのである。


 それによれば、差別事象へのとりくみの原則と対応のあり方を具体的に示しながら、今後は「全解連」としては、いわゆる「確認・糾弾」の方法はとらないことを、内外に明らかにしたのである(全解連ブ″ク三号『差別事象にたいする全解連の方針』参照)。


 実際今日では、同和問題そのものが、かつてのような突出した問題ではなくなってきているのである。これは、いうまでもなく、とくに最近の二〇年間にわたる同和問題の解決のための特別対策の結果であるが、あと三年ほどでこの特別対策は「終結」する段階にまでたち至っている。


 「解同」のように現在の特別措置法のあと「部落解放基本法」を要求する流れもあり、宗教界もそれに無批判に同調して署名巡動などに加担しつづけてきている。しかし前にもふれたように、現在の同和問題解決の到達段階は、それを支持するような実態にはないのである。むしろ現在のわたしたちのもっぱらの課題は、これまでに計画された諸課題を現行の法期限内に慕本的に完了・終結させ、特別対策としての同和対策を一般対策へ移行し、自立と連帯の大道を実現させていくことにかかっているのである。


 宗教教団(宗教者)は、こうした今日の同和問題についての科学的な現状認識を明確にして、これまでの問題解決の歴史的経過と展望を正確につかむことが大切である。同和問題の解決に、不本意にも宗教教団(宗教者)が壁になったり、反動的な役割をになったりするような現状を、このまま継続させてはならないのである。もしこれ以上継続させれば、現代日本の宗教教団(宗教者)が今後ますます良識ある多くの市民からかけ離れ、浮き上がったあり方に廿んじて、非主体的な「運動対応」にのみ多くの無駄な時問と労力を費やすことにならざるをえないであろう。


 宗教教団(宗教者)が同和問題にかかわるうえでとくに注意すべきことは、この問題そのものについての科学的な認識をみすがらの主体的な町力で学び、確かめることである。これまで多くの混乱をうんでいるのは、宗教教団(宗教者)は中途半端な観念的な「反省」のうえに、安易にもできあいの「理論」や「実践」にのっかって、「良心的、余りに良心的」な熱心さで目標のハッキリしないとりくみに過熟し、表面をつくろわざるをえなかったからである。


 こうした現状をその根底から超克・脱却するためには、ここで指摘した同和問題そのものに関する科学的な理解を新しくすることが、とくに大切なことであるが、同時に宗教教団(宗教者)固有の課題としては、宗教そのものにたいする新しい把握、が求められていることはいうまでもない。


 ただ「反省」、「懺悔」ばかりして的のはずれた「実践」を積み重ねるのでなく、もっと積極的・創造的に、同和問題の解決にむけた宗教教団(宗教者)のはたす独自な役割を大胆に担っていくことが、強く期待されているのではないかと考えるのである。


  (次回に続く)