同和問題と宗教」(第2回)(1990年、『宗教の今と未来』)


上のスケッチは今回も宮崎潤二さんの作品です。




     同和問題と宗教(第2回)


       岩崎・佐木編『宗教の今と未来』
       (世界聖典刊行会、1990年)


          3 宗教のはたす役割と課題


 「同和問題と宗教」を主題にして論じられる場合の多くが、宗教教団(宗教者)のこれまでにはたしてきた否定的・差別的な側面について、反省的に吟味・検討することに主要な関心がはらわれてさた。


 もちろんこうした検討作業は、一層厳密に、歴史的な事実として、また現実の問題として、主体的に深められなければならない。しかし同時に、そうした作業がたしかな実りを結ぶためには、どうしても宗教理解そのものの検討が不可欠であり、宗教批判(理解)の方法論が確かめられなければならない。


 かつて、「宗教の基礎―部落解放論とかかわって」(拙著『部落解放の基調―宗教と部落問題』創言社、一九八五年)のなかで、この課題を論じたのでここではくわしくたちいらないが、わたしたちが宗教の役割と課題をたずねようとする場合、それは、「宗教者」もそうでないひと(もの)も、すべてのひと(もの)にかかわる根源的な基礎の理解に、つまりひと(もの)に関する基本的な認識の仕方に直接かかわっているのである。


 現実の歴史的・制度的な諸宗教はこの根源的な基礎から湧きだしたひとつの表現であって、それが正しくその基礎を照らしだしているか、それとも逆にその基礎を覆い隠すかたちに転落しているかに別れるのである。


 したがって、今日宗教を考える場合、従来の制度的形態としての宗教をのみ念頭においたのでは、現代のすべての人間に直接かかわっている根源的な基礎の事柄にふれることはできない。その意味では、たとえ宗教的な表現形態をとらないでも、この根源的な基礎に直接かかにわることは、わたしたもの生活全般にわたって、いたるところにそれは証示されているのである。


 宗教を批判し、反宗教、あるいは無宗教の立場にたつ場合でも、それがそのひとの根源的な基礎にたいする、ひとつの見方として重要なのである。


 ところで、部落差別の撤廃のために、本格的な運動形態をもってたちあがった西光万古や阪本清一郎などを中心とした、あの全国水平社の運動の基調には、宗教にたいする徹底した批判を含みながら、それだげ宗教色の濃いものになっており、そこにはまだ多くの曖昧さを残しているとはいえ、人間の(世界の)根源的な基礎をふまえた、その意味ではじつに本来的な意味での宗教的なインハクトをもうた連動であったように、わたしたちには考えられるのである。


 つまりそこには、人間(もの)の平等性にたいする根源的な基礎への覚醒・発見がみられる。当時、いまだ厳しい差別的現実のさなかで、彼らは人間の尊厳性と兄弟性をより深いレベルでとらえ直して、人間(もの)は、そのはじめから絶対の尊厳に支えられ、促されている存在として、「吾等の中より人間を尊敬する」新しい運動の呼びかけをおこなうのである。


 このように、人間の恣意や境遇によっては微動だにすることのない固い基盤=絶対の尊厳性に蓬着させられた、その感動と讃美の表現が、そこにはみられるのである。そしてそこから「人の冷たさが、どんなに冷たいか、人間を勤る事が何んであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃するものである」とうたわれ、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という、いわば事実存在の根源的な基礎から湧出する「誓願」となるのである。


 もちろんこの水平運動も、当初から部落排外主義や独善的な暴力主義に落ちていく危険性をはらんでいて、一九二二年三月に発足した全国水平社も同年暮れには、西光や阪本らはつぎのような内部むけの「訴え」をしなければならなかったのである。


 「『人間は尊敬すべきものだ』と言ってゐる吾々は決して自らそれを冒涜してはならない。自ら全 ての人間を尊敬しないで水平運動は無意義である(中略)。諸君は他人を不合理に差別してはならぬ、軽蔑し侮辱してはならぬ。吾等はすべて人間がすべての人間を尊敬する『よき日』を迎へる為にこそ徹底的糾弾をし、血を流し泥にまみれることを辞せぬのである。けれどもこと更に団結の力にたのんで軽挙妄動する野次馬的行為には我等は断じてくみするものではない(以下略)」(鈴木良『近代日本部落問題研究序説』)。


 本来の水平運動の精神のなかには、このような私物化できない万人共通の普遍的価値への基本感覚が認められるのであるが、これは同時にまた、本来の宗教のふまえるものでもあるのである。


 宗教者も、もともとこの人間の平等性(これは人間の自由と解放の基礎と通底する)に促されて、それぞれの場にあって積極的な共同と対話の試みをつづけ、歪められた「解放運動」や「宗教」をその根源から正していく努力をなすのである。


 宗教者の目は、つねにこの隠れた根源的な基礎にそそがれ、そこから新しく形成していくところの、いわば「在家の視点」が息づいているものである。そのたしかな息づきこそが、「運動」のなかにあって運動を新しくし、「宗教」のなかにあって宗教を新しくするのである。


 (ここでいう「在家の視点」から、現代の宗教のおり方か新しく問う神学者として、現在米国にあって活躍する延原時行氏があげられる(さしあたり主著『仏教的キリスト教の真理−‐信心決定の新時代に向けて』一九八七年、行路社、参照)。


           4 同和開題と宗教教団


 すでに一項でみたように、現代の同和問題のゆがみに宗教教団(宗教者)が一層拍車をかけていることは否めない。そして、宗教教団自体にとっても創造的で自由な教団形成の営みからほど遠い実情にあることもたしかなことである。


 しかしながら、わたしたちが本書で“宗教の今と未来”を問う場合、現実の宗教教団をぬきにして論ずることはできない。そこで以下、同和問題の解決にはたす宗教教団の課題について言及しておきたい。


 すでに指摘してきた点であるが、まず第一に、宗教教団は教団の独自課題として、前項でふれた宗教の根源的な慕礎をふまえて、そのはたすべき課題と役割について明らかにしなければならない。そこではたんなる過去の過ちについての反省や歴史的検討にとどまらず、より積極的な使命について、上記のような「在家の視点」からとらえなおしていく必要があるのである。


 そして第二に、宗教教団の主体的な課題として、2項でふれた同和問題そのものに関する科学的な理解を深める努力が不可欠である。同和問題に関する歴史研究も、これまで多くの蓄積があり、問題解決にむけたとりくみによって、それぞれの地域の実態や市民(町民)の意識状況も変化してきている。歴史の見方や現状把握の仕方について、また解決への展望とその方法論・戦術論において、それぞれの運動団体や研究者の間で意見の相違や対立がみられる。


 そうしたなかで宗教教団(宗教者)は、それぞれの地域や活動分野で問題の解決をもとめて生きているのであるから、必然的に宗教者のなかでも意見や立場の相違はうまれてくる。しかしこのような、みずからの目で確かめ、主体的に問題そのものを理解する地道な努力や切磋琢磨をぬきに、宗教教団(宗教者)の真の主体性はうまれることはないのである。


 そこで第三に重要なことは、この「在家」レペルでの、現実に密着した具体的・現実的な同和問題の理解と、「在家の視点」からとらえ直した宗教の新しい把握を、互いにオープンに交流し、学びあう“自由な精神”が息づかなげればならないのである。宗教教団は、つねにそうした個々の、あるいは共同の自主的なとりくみを促し、保障し、組織していくことがまず留意されなければならないのである。


 上述のとおり、これまではほとんどの場合不幸なことに、当該教団にかかおる「差別問題」で教団のトップが「確認・糾弾」され、それとの対応で特別の「対策」が講じられ、特定の運動団体の運動理論や実践方法をそのまま無批判に受け入れ「連帯行動」を重ねてきたのである。そして、本来の「在家」レベルの幅広い地道なとりくみではない、あらたな教団内運動団体がつくられ、種々の異常な事態をうんできたのである。


 これらが改まるのは、迂遠のようではあるが、いま指摘したようなやはり本来の基本的な地に着いたとりくみをすすめることから、新しい積極的・創造的なことが始まるのである。


 また、同和問題の研究活動の分野では、すでにこれまでにもいくどかは「同和問題と宗教」に関する分科会が設けられたり、諸宗教間の対話と交流が重ねられているが、今のところ、いまだここで指摘したような意味での、積極的な宗教者の本来の根源的な基礎から促されたとりくみにはなりえていないのが現状である。


 しかしながら、わたしたちのみるところ、この宗教の本来はたすべき役割と課題は、たんにここでとりあげた同和問題など人権と社会正義の分野にかぎらず、わたしたちの生活全般に――個人の生活はもちろん、家族や国家、政治・経済・文化などトータルな分野において――直接かかおる事柄として、すべての人々のさけて通ることのできない共通の喜ばしい聖務(ミニストリー)として隠されており、その新しい芽ぶきを待っていることもいよいよ確かなことであるといわねばならない。