書評:杉尾敏明著『部落解放と民主教育ー現代同和教育論』(第1回)(1985年、阪南大学産業経済研究所『研究所報』)


宮崎潤二さんの作品「神戸市北区僧尾の民家・夏つ近づく頃」



 杉尾敏明著『部落解放と民主教育−現代同和教育論−』


阪南大学叢書18,A5版,274頁,青木書店,1985年3月刊)

            
                (第1回)


             1.本書の課題
 

 周知のとおり、この20年ばかりの部落問題をめぐる状況は、じつに疾風怒涛、まさに激動の日々がつづいた。そしていまなお、その問題状況は継続しており、けっして好ましい方向での解決がみられているわけではない。ただその間に,この問題に関わる数多くの積極的な研究・実践活動が重ねられ、問題解決の貴重な指針を見い出してきたことも確かなことである。


 そして,その渦中にあって,とくに教育の分野で目ざましい労作と足跡をのこした研究者のひとりが本書の著者、杉尾敏明教授である。杉尾氏は,すでに『国民の教育権』(1971年,汐文社刊)、『民主教育の視点』(1976年、法律文化社刊、阪南大学叢書5)その他の著作をとおして,教育活動の基本的視点を探求・展開してきた。


 さらに、その基礎視座をふまえて、「同和教育」の分野においても、積極的に新しい視点を提起し、そこでも旧来の見方・考え方に対する、より根本的な吟味を加え、つねに「状況への発言」として健筆をふるってきた。そして、その明解な主張は、いっそう極立って関係者に多大の影響を与えつづけてきたのである。


 本書に収録された諸論稿は、「あとがき」に詳述されているとおり、1973年から1983年までの11年間に、「同和教育運動」「同和行政研究」「部落問題論究」「阪南論集」にそれぞれの状況のなかでものせられた九本の論稿でなったもので,その都度注目を浴び、また一定の論議を生んだものである。興味深いことであるが、今回こうしたかたちで上梓されたものを手にするとき、そこにまた新たな意味が付加されるように思える。つまり本書が,1985年2月の時点での書物として「若干の補筆」をほどこして発表されたことによって、これまで個別論文で受けた印象とはまた違った意味を読者に与える。


 著者は,本書『部落解放と民主教育』の刊行の意図を,「はじめに」において次のように言う。
「本書は、今日の部落解放の課題は何であり,どのようにすれば達成できるのかを論定し、その課題とのかかわりで教育はどのような課題を受けとり、それをどう達成すべきであるかを総合的に論究したものである。」


 すなわち、著者の関心は、主要には当面する「部落解放の課題」とその「達成」に至る方法・道筋の正確な論定におかれ、それとのかかわりで教育の「課題」とその「達成」への道筋が具体的に吟味されてゆくのである。そして、著者は同じ「はしがき」で、大いなる自信と確信をもって,次のように記す。


 「『イソップ物語』ではないが、その歩く速さによって部落解放の達成の日程は決まるが,その解放の道筋ははっきりと正確に論定することができたと考える。『こうすれば、部落差別はなくなる』ということはきわめて明確になってきたと考える。」(傍点・引用者)


             2 構成上の特徴


 早速、本書の構成上の特徴を見ておこう。章立ては次のとおりである。


   第1部 部落解放の現状と展望
    第1章 部落差別の現状
    第2章 部落解放の展望
   第2部 同和教育の課題と方法
    第1章 学校同和教育方針のあり方
    第2章 高校生の部落問題意識と「同和教育
    第3章 社会同和教育研育の課題と視点
   第3部 同和教育行政論
    第1章 同和教育行政の基本問題
    第2章 同和対策の歴史と同和教育行政
    第3章 同和教育行政の諸問題


 杉尾氏は、「教育行政論」の専攻であり、すでに1960年代から部落問題(同和教育)への並々ならぬ関心は示されているが,「部落解放と民主教育」の課題を主題的に追求しはじめられた最初の論稿は,おそらく1973年6月「同和教育運動」創刊号に収められた「新融和主義の同和教育―「解放教育」の実践と理論を批判する」であった。


 当時新しく民主的同和教育を分断する機能を担って登場した「解放教育」を,「権力の同和教育の一変種」もしくは「権力の同和教育に屈伏しながらこれと癒着した」「新融和主義の同和教育」としてとらえ,以来,全面的な批判を展開して,この分野における新進気鋭(?!)の研究者とし登場したのである。


 その点、本書第3部は,著者が1973年から1977年の間に執筆の、いわば第1期にあたるものであって、その学問的貢献は大きいものがある。それは「同和教育行政を論じる著作が少ない今日の状況のなかでは、本書の1つの特色といえる」だけでなく,こうしたかたちの理念上の「基本原則」と歴史的な教育行政の研究をふまえた具体的な問題への適切なきりこみは、物事を冷静に吟味検討するゆとりのない過熱した状況の中での労作であっただけに、研究者としての良心と勇気がほとばしる格別の魅力を与えるものである。


 次に杉尾氏の著述で画期をなしたのは、1977年夏刊行された「新しい同和教育―課題・内容・方法」(兵庫部落問題研究所刊)である。 1974年11月に起きた兵庫県・八鹿高校事件には特別の論究を行なっているが(本書251頁以下)、事件後すぐ編集作業をはじめた『資料・八鹿高校の同和教育』(同上刊)の刊行を経て、杉尾氏の関心は、「同和教育の基礎理論」の検討へとすすんでいく。


 とりわけ「公教育」における同和教育のあり方を探求し、その成果が前記『新しい同和教育』となったのである。そこでは、「同和教育行政」論の吟味を背景として、「公教育と部落解放運動」との、また「同和教育同和教育行政・同和教育運動」の間の区別と関係を明晰判明にすること、従来の「通説」を批判的に検討しながら基礎論的提起が行なわれた。


 当時各地に横行していた潮流には、部落解放運動(この場合、主として「部落解放同盟」)と一体化し「連帯」することで,解放運動も同和教育も同和行政も三者混然一体となることに何の疑問も覚えず,むしろそれをよしとする傾向が支配的となっており、そうした教育のいとなみが「解放教育」と称されていた時期である。(もちろんこの傾向性は、今日といえども地域によってはほとんど改められずに、混乱と混迷を深めている状態が残されているところも少なくない。)


 本書第2部の各章で展開されているとおり、運動・教育・行政、とりわけ運動と教育との区別と関係の問題を解く方法的視点は、民主的同和教育をすすめる立場にある研究者のなかにあっても十分な吟味がなされていなかったために、いわば内部論争的要素のつよい作業ともなっている。


 筆者としても、当初からこうした方法的視点に関わる課題に特別の関心を寄せてきたが、もともと学問的使命のひとつは,事柄そのものに含まれている動態,つまりその区別と関係・順序を、より明確にしてゆくことにあることは、あらためて指摘するまでもない。


 その点、この分野で最も大胆に学問的使命を発揮されたのは、杉尾氏の最大の貢献であったと考える。この学問的勇気によって、どれほど多くの人々が確信をもち、それぞれの持ち場を確立するに役立ったかはかり知れないであろう。教育の主体性と自治の確立のために、また自主的教育運動の前進のために、これらの理論上の検討作業は、今後もいっそう厳密に検討される必要があることは言うまでもない。


 以上、本書の第3部並びに第2部の著者の研究課題の移行過程にともなう力点の特徴をみてきたが、本書巻頭に収められた第1部「部落解放の現状と展望」は、杉尾氏の最新の論稿である。「現代同和教育論」という副題をもつ本書が、その書名に『部落解放と民主教育』を選んだ意図について、次のように述べている。これは,本書の独自な新しい視点の指摘として重要である。


 「『部落解放の課題とかかわって民主教育はどのような課題を受けとるのか』という形で問題設定したほうが国民的論議を発展させるうえで有意義であり」「従来『同和教育』などの呼称で積みあげられてきた実践を日本の教育の民主化の課題の一部に位置づけることが今日強く求められている。」


 こうした方法的視点から、「部落差別の現状」をどのようにとらえ、「部落解放の展望」をたしかなものにする「総合施策の基本視点」を確立する必要性を強調して、その具体的な展開を試みるのである。この部分は,教育分野のみならず、ひろく部落解放に関わる共通認識とすべき内容のひとつの提起であって、近年、杉尾氏が各地に招かれておこなう講演で訴えつづけてきたものである。独特のユーモアと明解・率直な説得的話術の才にも恵まれて、運動・教育・行政など幅広い分野で活躍する人々の注目を集めたものでもある。


 そしてまた、杉尾氏は本書刊行後1年間、米国カリフォルニア大学などで講じているが,日本における部落問題を英語圏に正しく伝えるために、英書の刊行準備をすすめていると聞く。おそらく、その草稿の最も重要な内容は、この部分になるものとおもわれる。


  (次回につづく)