書評:杉尾敏明著『部落解放と民主教育ー現代同和教育論』(第2回)(1985年、阪南大学産業経済研究所『研究所報』)


宮崎潤二さんの作品「神戸市北区僧尾:夏終わりぬ」



 杉尾敏明著『部落解放と民主教育−現代同和教育論−』


   (阪南大学叢書18,A5版,274頁,青木書店,1985年3月刊)

            
                (第2回)


              3.内容上の概要


 既述のとおり,本書の扱う範囲は広範多岐にわたり,とうてい全体に立ちいった論評はできない。そこで以下,第1部より順を追って,今日においてもなお重要とおもわれるいくつかの点をとりあげ紹介しつつ,必要に応じて論評を加えておくことにする。


      1.部落解放の現状と展望[第1部]


 「部落解放」を論ずる場合でも,いくつかの視点が考えられる。たとえば,部落解放の現状を日本社会の全体構造のなかで把握することに主眼を置こうとするもの,またその歴史的展開過程に注目して現状をみようとするもの,或いは部落解放の理論的側面に力点をおいてその現状を論究しようとするものなど,今日研究者の専門分野とも関わって多様な接近方法がみられる。


 杉尾氏の場合,第1章「部落差別の現状」においては,今日の部落差別の現象形態に着目して解明する方法をとっている。約言すれば,部落差別は次の三つのあらわれ方があり,それぞれ「区別して把握することが必要である」として,第1節「対人的・直接的差別」,第2節「差別的考え方と偏見」,第3節「生活実態の格差」の順に,最近の各地の実態調査や報告書の諸資料を豊富に用いて解明を試みる。


 「対人的・直接的差別」では,結婚問題,就職問題,交際観を,「差別的考え方と偏見」では,「部落の起源」や「迷信」についての市民の見方をはじめ,「文化人」「運動家」「研究者」らの「おくれた状態」を,さらに「生活実態の格差」では,旧来の差別から結果する同和地区の相対的低位性の形態と「近年の同和対策事業のなかで生み出された同和地区の方がはるかに水準が相対的に高いことからくる格差」との2種類に分けて,その問題性を適確に指摘している。


 そして,以上3つの形態のうち,最後の「格差」の解消の課題こそが,部落問題を解決していく上で「土台的,決定的な意義」をもち,「差別的考え方と偏見」や「対人的・直接的差別」の克服のための取りくみがそれに続く,として「3つの形態」の区別・関係・順序に少し言及する。


 こうした「三つの形態」にあらわれる「現状」理解に即して「部落解放の展望」(第2章)を述べる。まず「格差の解消」の課題については,同和行政の基本方向を提起するかたちで,次の諸点にふれている。


 (1)今日もなお多くの自治体で是正を求められている「属地・属人主義」(同和行政の対象を対象地区内の地区出身者とする見方。この方針は現行「地対法」にも残されている間違った考え方)の「属地主義」への転換の必要性。
 (2)行政の公平性・平等性の原則に反する「窓口1本化」の廃止と行政の主体性確保の責任。
 (3)所得制限の導入等の個人給付的事業の見直しの必要性。
 (4)同和行政の性格が格差是正のための特別措置であることを明確にして,一般行政との区別と関連を正しくつくること。
 (5)部落問題解決のための取りくみとして,部落内外の社会的交流を促進する方向を貫ぬくこと。
 (6)住民の自立・独立を促し援助するためのものであること。
 (7)データを整え諸施策を公開して,国民の納得と支持のもとに同和行政を行なうこと。
 (8)新しい格差を生んで「逆差別」におちいらないようにすること。
 (9)同和行政で確保された高い行政水準が,一般行政水準の引き上げの原動力となるようにすること。
 (10)地方財政の圧迫を取りのぞくためにも,国の責任範囲を明確にすること。
 (11)今日の「特別措置法」を,「障害者問題」「在日朝鮮人問題」「アイヌ問題」「ギリヤク問題」「オロッコ問題」「失業者問題」等の基本的人権保障がされていない分野についても制定する必要があり,「人権保障特別措置法」を制定すべきこと,(この最後の点に関して,その後「地対法」後の法的措置のあり方をめぐって研究者や運動団体等の間でさらに検討がふかめられてきており,杉尾氏の見解は1983年時点における1つの独白な見解として受けとめることができるが,ここでは立ち入らない。)


 次に,「差別別的考え方と偏見の克服」のために,6つの「総合的な視点」を提言する。
 (1)差別的な考え方や偏見は,1部の支配勢力が今日の社会構造を維持するために作り出されたもので,差別的考え方や偏見をもたされている人間も被害者である。
 (2)意識の伝達手段を一部の社会勢力が独占的に所有し,情報を選択しながら規制している。こうしたなかで差別的考え方や偏見を克服するためには,
 (3)文化運動にむけるタブーをなくして,小説・映画などで部落問題が正しく形象化され,新しい文化的創造活動が強化されること。
 (4)同和地区には体育館などすぐれた施設・設備が少なくないが,これらを積極的にスポーツ等の交流に役立てること。
 (5)すべての国民が被差別的状況におかれており,部落差別なども受容される社会的根拠がある。そうした状況をはねかえす力をたくわえた「民主主義の確立」を求めていくこと。
 (6)すべての教育過程を,平和的で民主的な国家社会の形成者一主権者国民を形成する目的に合わせて整えていくこと,つまり今日の教育全体の方向の民主的転換を強く求めていくこと。


 そして,最後の「対人的・直接的差別の撤廃」に関して,2つの側面から検討が加えられる。1つは「差別することをどうやめさせるかという問題」であり,2つ目は「差別された人間の法的救済・人権保障をどうするかという問題である。この部分は,いくらか異和感を覚えるところであるが,杉尾氏によれば,前者の「差別することをどうやめさせるか」の第1の方向は「企業,自治体,政府などが差別する場合には,法的制裁を加える具体的な細かい規定をつくるぺき」で,「企業の場合には,その活動を制限するとか,その企業に対する労働者のあっせん業務などを停止するとか罰金等」を科し,「自治体や政府機関の場合には,国会や議会がそれらの差別がなぜ起こされたのか十分調査・審議し,それぞれに相応した適切な処置がすみやかにとられる体制がつくられる必要がある」とする。


 そして第2には,「個人が持定の個人に対して差別を行なった場合には,その個人に対して糾弾ではなく,一定の抗議と説得をもってあたるべき」であり,「個人が行なった対人的差別は,謝罪と自己批判を求めて,説得すればすむことだと考える」とされる。


 上記のように,差別事象を企業,自治体,政府等において行なわれた場合と市民レベルにおける場合と区別して対処する方法については,部落解放運動の先進的部分においてすでに1960年代には自覚され,実践されてきたものであるが,いまだにこの区別を無視した「差別糾弾闘争」が横行する現状のなかで,あらためて確認しておくべき方法的視点である。


 しかし,これは部落解放運動における糾弾闘争に関わる方法として自覚されてきたものであって,これが直ちに,杉尾氏の言われるように「法的制裁を加える具体的な細かい規定をつくるべきだ」ということには,いくらか疑問をのこすところである。


 なお,この問題との関連では,先に幅広く論議をよんだ大阪府の,いわゆる「興信所条例」問題や,「地対法」後の法的在り方の論議で,部落解放同盟を中心として主張される「部落解放基本法」(案)に含まれる「差別規制法」問題などで,法的規制の是非をめぐる検討がすすめられており,こうした動向のもとでのいっそう厳密な新しい提言を期待したいとおもう。


 また,後者の「差別された人間の法的救済・人権保障をどうするか」についても,著者は「人権擁護機関を拡充し,不利益を除去し,人権を救済する体制を敏速につくりあげることが大切」であり,「部落差別だけでなくて,憲法基本的人権の全てについて,その権利侵害に対して,すみやかに対処できる特別の法律をつくる必要がある」ことを強調する。この「特別の法律」については先にも少しふれたが,この部分も,今後の新しい展開が必要ではなかろうか。


 そして最後に,杉尾氏は,社会的「糾弾」について言及し,これは何も「解同」のみに許されるものではなく,あらゆる民主団体あるいは個人がその権利をもち,「解同」であろうと人権侵害をすれば,当然「糾弾」されるべきである,と杉尾氏らしい逆説的表現もみられる。


        2.同和教育の課題と方法〔第2部〕


 第2部は,「学校同和教育方針のあり方」「高校生の部落問題意識と「同和教育」」「社会同和教育研究の課題と視点」の3章で構成されている。ここでは,「学校同和教育」と[社会同和教育]の2つに分けて,著者の主張をみておきたい。


   (A)学校同和教育

 この部分は,各学校にみられる「同和教育方針」を俎上に載せて,これまで多くの人々が疑問をさしはさもうとしなかった「通説的見方」(「俗説」?!)に吟味検討を加えている。そして,それは同時に,同和教育研究の分野におけるいわば同労の研究者――たとえば、東上高志,西滋勝,斉藤浩志,小林栄三,小川太郎などの諸氏――との学問的対決折衝を試みており,大いに内部論争的色彩の濃いものである。いま,その興味ある争点に立ち入ることはできないが,杉尾氏の基本的立場は,『r同和教育』という概念自体の必要を認めない」見地から,すでに国際的国内的に明確な概念として存在する「人権教育」という概念こそふさわしいことを主張する。この立場から,これからの学校同和教育について,次のような積極的な提言を行なっている。


 ①学校の全体的な教育方針を民主的に定立すること。すべての生徒に,学力と丈夫な身体,豊かな情操を形成することは,公教育の基本課題である。
 ②人権教育方針を上の学校教育方針のなかに位置づけ,憲法に規定する基本的人権に関する科学的認識を育てる方針を策定する。この際大切なのは,(イ)「あらゆる差別」に反対するということではなく,憲法に規定する基本的人権に限定する。(ロ)同和地区の生徒の人権のみを優先するような部落排外主義的人権把握におちいらないこと,である。
 ③右の人権教育の一部に,部落問題に関する科学的認識をすぺての子どものものにすることを正しく位置づける。
 ④学力保障に関する学校の取りくみは,すぺての子どもの学力問題を解決する一環として果すぺきで,居住地によって教育上の取りくみの違いをつくることは正しくない。
 ⑤同和地区の子どもの低学力や非行などがたとえ一般地区より多かったとしても,それを直ちに「部落問題が提起する課題」などと把握してはならない。その要因を多面的・客観的・科学的に分析して,総合的に対応していくことが肝要である。


   (B)社会同和教育


 杉尾氏は,「社会同和教育」の分野においても並々ならぬ関心を示している。それは,著者の認識のなかに,「国民の考え方こそが部落問題解決の最終的鍵をにぎって」おり、すべての国民が部落問題と人権に関する科学的認識をもつとき,部落部題は完全に解決したといいうる」との考えと同時に,「主権者である国民が自らの権利に目ざめ,成長していき,民主的社会が創造されることこそ,部落問題が根本的に解決する保証」なのだという見方があるからであろう。


 先に第1部で杉尾氏は,同和地区の経済的・文化的低位性をなくすための「格差の解消」の課題が基底的土台とみていたことにふれたが,ここでは「部落問題と人権に関する科学的認識こそ基底的・根本的に重要」であることが指摘される。 (これは一見矛盾する表現であるが,この両側面を等根源的相補性として新しく把え直すことができれば,けっして矛盾するものでないばかりが,重要な把握として注目してよい点であると言わねばならない。)そして,こうした目的にこたえるための「社会同和教育研究の課題と視点」を,以下の10項目にわたって展開する。


 ① 部落問題に関する市民の意識状況の実態を,(イ)「逆差別」「糾弾」といった新しい差別主義的意識,(ロ)論理的レベルにとどまらず感情のレベルでの意識,㈱部落問題だけでなく総合的な人権意識,などにわたって調査ゾy析する。
 ②未開拓の分野である差別意論客発展させる。それには,(イ)社会的な差別構造の変革の視点から差別意識の克服の視点を解明する,剛被支配階級が,支配階級がつくった差別観念をどうして受容するのかを明らかにする,因逆にまた,被支配階級が,差別意識を脱却して科学的な民主的意識を獲得していく必然性と条件・手だては何かを解明する、(ニ)さまざまな差別意識への重層構造を分析する,などの視点が必要である。
 ③ 公教育としての社会教育の役割と限界を見極め,社会教育の内容の研究を組織的にすすめる。
 ④ 社会同和教育の方法に関して,(イ)市民の実生活とむすぶ教育活動,(口)地区内外の社会的交流の組織化,(ハ)ひろい人権認識を発展させる取りくみ,などの研究をふかめる。
 ⑤ 社会同和教育の制度・機構・組織のあり方の研究。
 ⑥ 文学、演劇,詩,絵画,写真など,差別(人権)問題の形象化にともなう問題の研究。
 ⑦ いわゆる「差別語」「差別用語」問題に関する研究。
 ⑧ 地区内外の文化・スポーツを育てる環境づくり(新しい町づくり)に関する研究。
 ⑨ 人権と差別問題に関する国際的総合的研究をすすめるため,学際的な協力・共同の研究体制をつくる。
 ⑩ 公的社会同和教育の枠を越えて,地域住民の自主的・民主的な文化・教育運動をどう組織しもりあげていくのかの研究。


 上記のそれぞれの課題に即して,具体的な新しい提言が行なわれていて興味ぶかいが,すべて割愛せざるを得ない。この分野は,今後注目される重要な分野であるにもかかわらず,研究者の層はけっして十分とは言えず未開拓であって,いっそうの研究成果が待たれるところである。


         3.同和教育行政論〔第三部〕


 先にも言及したが,「同和教育行政論」は杉尾氏の専門分野であり,本書の骨格をなす部分を構成している。ことに1960年代後半からの各地の同和行政の混乱していく過程を追いながら,具体的な諸事件(事例)を素材にして,同和教育行政の基本原則を,本来的な教育行政の任務との関連で正しく位置づけ直す作業が試みられている。この作業は同時に,今日の教育の課題と教育行政の課題を混乱して怪しまない状況に対して,科学的に厳密に概念規定して整理し,憲法教育基本法に整合した論理を構築することに大きく貢献していることも,注目する必要がある。


 まず「教育の中立性」の問題では,「法律に定める学校は公の性質をもつもの」であり,「特定の政党を支持し,又はこれに反対するための政治教育そ発佃政治的活動をしてはならないJそのためには,「不当な支配に服することなく」教育が行なわれることが肝要であり,教育行政は,そのような「自覚のもとに,教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわなければならない」。行政は,同和教育行政の方針を作成し実施する任務をもち,同和教育方針は,専門家である教育労働者集団が作成にあたるべきである。こうした視点から,「狭山事件」をテコとした教育介入の問題や「矢田問題」の教材化などの検討が展開されている。


 次の「教育を受ける権利」の問題では,(イ)地区住民の子弟であることを理由・口実に教育機会の平等が破壊されている事例,(ロ)学力・進学率などで低位な状態におかれていることに対する教育行政上の取りくみ方,(ハ)いわゆる「窓口1本化」の違法性,(ニ)同和地区以外の行政水準に比し極度に高い行政水準で施策することによって生じる「逆差別」現象,などを具体的に吟味・考察し,是正の方向を示す。


 さらに「教育の自由・自治」の問題では,これまで行政が特定の教員の思想点検を行なったり,研修を強制したりしてきた事例などをとりあげ,教育労働者の研修の自由,教育内容の編成権,学校における暴力問題などについて言及する。また「教育の労働権・労働基本権」や「市民的権利」との関連で「解放教育」や「解同」による上記の諸権利の侵害状況の分析と権利獲得の取りくみの基本方向が提示される。


 これに続いて,「同和対策の歴史」として,権力の戦前・戦後を通じて展開してきた融和政策の歴史的考察が,多くの紙幅を用いてたどられている,そして,今日の新しい融和主義の特徴と形態の解明,ならびにその批判の基準になる民主的・革新的同和教育行政のあり方についてなど,重要な指摘が述べられているが,これ以上は立ち入れない。最終章の,大東市深野小学校問題,兵庫県八鹿高校事件,裏口=優先入学問題などをめぐる,同和行政上の諸問題を扱った部分も同様である。


 杉尾氏は,前にも記したとおり,本書の刊行後,国際的な人権問題の研漕の目的もかねて1年間国外ですごし,本年春帰国の予定である。「部落解放と民主教育」に関わる研究の総括的作業としては,このたびの労作で一応の区切りとなるものであるが,これからさらに継続して,国際的な人権教育のグローバルな視点に立って,いまの日本の低滞気味の研究状況に,また新しい問題提起を展開されることを,強く期待するものである。


 本書にみられる,杉尾氏の大胆卒直で明快な提言は,読む者に多大な勇気と確信を与えてきたことは度々言及した。しかしひとこと感想をつけ加えるとすれば,いくらかその論述のすすめ方に概括的にとどまるところが見受けられる。そこがまた,「杉尾節」とも言われる魅力あるところであり,本書の面白さでもあるが,他方ではやはり,よりいっそう厳密な論理的思惟の深化が加わるとき,また新たな魅力と説得力が生まれるにちがいない。


 最後に,「あとがき」に記された杉尾氏のことばを紹介し,本書の一読をお奨めして,粗雑な「書評」をひとまず終わることにする。


 「さまざまに形をかえで,問題が起こっているが,底を流れる考え方のレベルでの総括がなされないなら,本質的な解決への前進はありえないJ


      (本文中,引用頁や注記は,紙幅の関係ですべて割愛した。)

                    (兵庫部落問題研究所事務局長)