「部落問題をめぐる宗教界の現状とこれからの課題」(1993年「部落問題全国夏期講座」)


宮崎潤二さんの作品「ぺトロパプロフスク要塞」




部落問題をめぐる宗教界の現状とこれからの課題 (下


   部落問題全国夏期講座 1993年7月


  2  これからの課題一一自主的・主体的な取り組みのために


 以下、後半の「これからの課題」に移ります。私の率直な思いを申しますと、今日の宗教教団には、残念ながら部落差別問題に対する認識と実践において、積極的な新しさは見られないように考えます。宗教教団はただただ反省ばかりして、「介入」を甘んじて受け、それに「連帯」することで、何かをしているような錯覚を生んでいるようです。


 しかし本来、宗教は、人間(もの・自然)の隠れた基礎を見極め、そこから促されてよろこんで生きるところに、存在価値があります。現代の部落解放論の「国民融合論」の基礎と、宗教の基礎とは、決して無関係ではありません。むしろ、本来の宗教者と本来の部落解放運動を担う人々とは、矛盾があるはずはありません。(逆に言えば、エセ宗教者とエセ運動家とは常に「野合する」、馴合うということがおこるのです。)


 しかし、残念ながら、こうした現状のなかにありながら、これの克服のために全力を上げている、という状況にはなっていません。組織的な面でも、十分に取り組みが出来ていません。これまでに、こうした問題で懇談も幾度かなされましたし、この講座でも以前に独立した分科会があったかと思います。大体、私のようなものが、この場で話さなければならないのがおかしいのです。


 しかし、無いものねだりをしていてもいけません。私自身も数年前に『宗教の今と未来』という書物で「同和問題と宗教」という項を書いておきましたし、これまでつたない本(『部落解放の基調』『賀川豊彦と現代』)でも、基本的な問題は論じてきました。本日は、宗教教団もしくは宗教者としての課題について、残る時間で2点ばかり考えて見たいと思いま
す。


        部落問題の正しい理解、特に現状認識


 教団政治を担う人々は、たしかに「対応」は上手ですが、部落問題に関する基礎的な理解が欠けている場合が殆どです。逆に、宗教教団は、間違った部落問題認識をもったまま過熱するという、二重の過ちを犯すことが多いのです。


 私は最近、もう10数年前、大谷派の同和推進本部の嘱託をしていた方の『なぜ親らんなのか』という法蔵館から出版されたものを取り上げて吟味をしてみました。その方は学生時代から部落問題との不幸な出会いがあって、そこから抜け出せなかったのです。


 宗教理解の正確さももちろん大事ですが、部落差別問題と関わるのであれば、それと同じ様に「部落問題」そのものについての理解が深まらなければなりません。


 これは大谷派の方の場合だけでなく、もっと驚かされたのは、私たちのキリスト新聞社の場合です。30年以上も部落問題と関わって問題提起を受けてきたところであるのに、全く基礎的な情報が入っていないわけです。ただただ、問題を提起する人たちの要求に答えて、それに「対応する」だけで30年過ぎてしまった、といってもいいくらいの、無残な事態があります。


 まじめに、誠実に「対応」して「反省」する、それが部落問題に関わっていることだと思い込んでおられるわけです。これは、「賀川問題」に関連して、新聞社の方の関わり方を見ていて分かったことです。


 これは、学校現場などでも言えるかもしれません。特に、「介入」「糾弾」が盛んな所ほど、間違った認識が定着して、問題解決への展望を見失っていることが多いのです。


 ですから、宗教教団に関わる人々は、この問題で反省したり過熱する前に、部落問題についての、初歩的な、常識的な理解を深めることが必要ではないかと思います。自主的な学習、主体的な検討が自由にすすめられるような努力が必要です。

                    
 現在では、教団内部で進められているものは、上からの偏った学習で、この「夏期講座」のような場所で学ぶような機会はつくられていません。部落問題を知る機会が余りに偏っています。


 その意味でも、それぞれの地域で自主的に開かれる地域の研究集会や、こういう講座に出席できるような、地道な働きかけが大事ではないかと思います。それらが殆ど出来ていないのが実情ではないでしょうか。逆に、「解同」などの方の働きかけが強まっているように思います。


          正しい対話運動、懇談会


 しかし、実際にこうしたことは、何か身近に問題が起こったときでなければ、できないのも事実です。例えば、兵庫県竜野市の「光善寺問題」は御存じの方もあると思います。本願寺派の寺で、「解同」の支部長をしていた檀家の一人が病気の時に、住職さんが「腐った果物(供え物のさがり)を見舞いにもっていった」として、それが差別だとされ、「組」や「教区」が「対応委員会」をつくり、その住職を「差別者」に仕立てていった事件です。


 これは、すぐに「守る会」がその寺の門徒の皆さんで作られ、「解同」や教団からの不当な「介入」を排除させた闘いになって、度々懇談会や学習会をして、それをはね除けていったわけです。


 これまではどうしても受け身的で、問題が生じて、それに抗議するような取り組み方でした。例えば、「仏教徒平和会議」とか「宗教者の平和運動」「反核集会」などで、この問題を、お互いに交流する機会はありました。また部落問題の研究集会やこうした場所で取り上げられてきました。しかし、この分野は、まだまだこれからです。国民融合全国会議とか全解連なども、さらに積極的に働きかけて、懇談や学習を行なう必要があると思います。


              結  び


 もちろん「宗教教団」の現在の問題状況は、今日の部落問題の状況を反映したものです。この問題だけがポツンと存在している訳ではありません。基本的には、部落問題の解決に責任を担う「運動、行政、教育」が全体的に新しくならなければ、どうにもなりません。


 「糾弾」が当り前のように見られたり、「表現の自由」が侵されてタブーの空気が広がる状況を、ひとつひとつ乗り越えていかなければ、どうにもならない問題です。


 問題が「差別糾弾」の形で展開されたり、そうしたことが頻発するのは、やはり正しい解放運動が、大きく前進できてこなかった地域に集中しているようにも思います。また、不当な「介入」や「糾弾」を許している分野は、やはりそれを許してしまう弱点を持っています。


 やはり、これを乗り越え、正していくためには、個人的な取り組みはもちろん、組織的なネットワークと交流・学習の機会が必要です。こうした問題も、間違った取り組みにたいしては、より正しい取り組みをもって、乗り越えることが大事だと思います。「解同」とか「研究所」の取り組みを越える、私たちの日頃の地道な取り組みが、ますます期待されているのではないでしょうか。

 時間が参りました。何かのご参考になりましたかどうか。どうぞ、皆さんの自由なご意見を聞かせてください。ありがとうございました。