「遺骨ひとつ」(1996年4月『水の音』)


宮崎潤二さんの作品「ニュージーランドウェリントン国会議事堂(蜂の巣堂とも呼ばれている)」




  水の音


        1996年4月・小さな出合いの家



 


 「水の音」――畏れ多い名を付けてしまった。これは芭蕉仏頂和尚の許に参禅した折、「青苔未だ生ぜざる時の仏法如何」ときかれたことへの禅的応答であったといわれる「古池や蛙飛び込む水の音」の句から。


●昨年の「姫路サミット」で「トリエナシコ」さんは、いくらか長文で写真入りの「阪神大震災被災記」を、避難生活の暮しの場所から用意して参加した。今回もまた新しい短編作品ができ、わたしもこれに釣られて、短いものを書いてみた。●こんなものにも、何か名前をつけてみようということになり、御覧のようなちょっと気恥かしい名前が決められた。あまりに有名なこの俳句は、最近親しい先輩が「現代哲学」の講義などで興味深く講じていて、折々思い巡らしている句であるが、「水の音」とはなかなかいい名前になったと、気に入っている。筆字はどうも艶消しではあるが、これもまたお笑いで。●昨年のサミットは、岩田さんに絵本づくりの約束をいただいた記念すべき時でもあった。『いのちが震え
た』は、わたしたちにとって、震災の中からいっぽ踏み出す、大きな力になった。そして、こんな本づくりの楽しさを経験したのも、はじめてのことであった。●あれからちょうど一年、実はまた、岩田さんの新しい画文集をお願いすべく、その実現を夢見ている。●「小さな出合いの家」という名前も、いまホレこんでいる。



   遺骨ひとつ


 今年(一九九六年)三月、NHK総合テレビで山崎豊子原作の長編「大地の子」が再放映された。家内は既に原作を読み、先のテレビ放映の折にもいたく感動していた。そして今回の再放映も全部見るのだという。そして、わたしにも絶対いっしょに見るよう強要されるハメになった。というのも、わたしの場合、わたしたちの家族もひょっとして、この主人公と同じ運命に巻き込まれていたかもしれないという、似たような過去があったからである。


 父は明治生れの男であるが、ちょうど戦前・戦中期が青壮年期で、敗戦の前に「満州」で病没した。三六才の若さであった。父は、鳥取県の片田舎・静かな山のいで湯で知られる「関金温泉」が近くにある、そのころ南谷村大鳥居というところの農家の長男であった。


 鳥取の「高農」を出て、昭和七年に二三才で結婚した。学生時代から福田蘭堂に師事し、尺八を愛好したようであるが、当初いくらか大規模に羊や鶏を飼い、ウドを育て、コイを飼うなどして生計を立てていた。数年後、同じ東伯郡内であるが、美しい東郷湖や温泉で知られる松崎町の「青年学校」(これは当時の実業青年学校かとおもわれるが)の教師として妻子を連れて赴任した。そしてまた暫くして、生家の近くの「修練農場」(現在の農業大学)の教師となったが、おりしも昭和一一年、広田内閣の時、百万戸・五百万人の「満州移住計画」が国策として立てられ、父はこの国策の誘いに乗ることになるのである。


 三か月余りの期間、満蒙開拓団の農業指導員としての特別の訓練を国内で受け、妻子を連れて釜山経由で「満州」の奥地「密山県城し川」という場所へ赴任した。当時、教師の時の給料が三〇円ほどであったが、開拓団のこの指導員の仕事に対しては三〇〇円という破格の高級が払われたようである。


 母はその後、昭和一二年に次男を、昭和一五年には三男のわたしを生み、その出産の度ごとに子供をつれて帰国するなど、その間幾たびも釜山経由の長旅を経験した。


 父は昭和一四年ごろ、当地で関東軍の現地招集を受け、三か月余りの厳しい入隊訓練を受けた。この軍隊での訓練は、父にはよほどきつかったようで、このときに不治の病として恐れられたいた肺結核に罹ってしまうのである。しかも、生れたばかりのわたしまでも幼児結核になり、余命三年と医者に診断された。そこで、一家四人はやむなく病気療養のため、昭和一六年に帰国せざるをえなくなった。


 わたしはまだ二才にもなっていない頃であるが、両親は、帰国して間もなく、結核という魔病の回復祈願のため、わたしを背負って「小豆島巡礼」にでかけた。小豆島の八十八ケ所の巡礼は、現在でもマルー週間を要する行脚であるが、毎日朝五時ごろには起きて宿坊を出発し、夕方五時頃まで次々と巡拝して歩きつづけるのである。多くの難所も含まれているので、両親はまだ若かったとはいえ、大変な苦行でもあったようである。


 特にその頃すでに父は、病気の方が随分進行しており、たびたび道端で立ち止まり、休息をとりながらの巡礼の旅であった。父はこのあと三度の巡礼を敢行した。そして母は、これを皮切りにナント毎年二〇年間、小豆島の巡礼を欠かすことはなかった。


 結局しかし、父の病気は回復の見通しはなく、昭和一八年の或る日、身柄ひとつで、しかも妻子には何も告げずに「家出」し、再び「満州」へ旅立ってしまった。母の言うには、父はステテコのままこっそりと出ていってしまった。父はその後一年近くも行方がわからず、連絡も取れなかった。この父の行方不明の間に、父の実母が亡くなり、母がその葬儀の一切を取り仕切った。


 こうして、父からの連絡を待つ母のもとに、父は河南省の「開封」という場所で「合作社・顧問付」という役職を得て仕事をしていることの連絡が届いた。しかし、それも束の間、結核の悪化で、奉天にあった「鉄路病院」に入院した。


 昭和二〇年三月二三日、父はこの病院で死亡したが、その一〇日前、母は病院で父と再会し、その最期を看取ることができた。母は当地で「合作社」による葬儀も済ませ、父の遺骨ひとつを抱えて、戦火をくぐり抜け、奇跡的に帰国することができた。(葬儀の写真は今も母が大事に持っている。会葬者名簿には合作社の日本人と中国人の名前が連なり、弔辞には関東軍の代表まである。)


 わたしは末っ子で、幼なかったこともあって、父の記憶は何もない。仏壇の上に飾られた父の遺影でその面影を知るだけである。


 しかしただひとつ、いまも鮮やかに記憶に焼き付いていることがある。それは、母が仏壇の前に三人の子供たちを集め、父の遺骨を開いた時のあの様子である。暗い夜、ローソクの明りで、みなが涙を一杯にして泣いていた。そして、わたしも同じ様に泣いたという場面が、はっきりと脳裏に刻まれている。


 今年三月の父の命日に、今すでに年老いた母と三人の兄弟が、初めて揃って小豆島への旅をした。上記の多くは、その旅のなかで、母や兄たちから確かめることのできたことの一部の忘備録的なメモである。


 わたしにとっては、余命三年といわれたいのちが、幸いなことに、いまだに生き延びさせてもらっている。父は三六才で亡くなったが、それもはるかに越えてしまった。はじめから「余録」のような人生とはいえ、今回の 「小豆島の旅」は、父のことをあれこれおもいめぐらす旅であった。


 父が夢見た「満蒙開拓団」とは何だったのか、あの「合作社」で、父はどんな仕事・働きをしてきたのか、父の一生は短かったが、何を支えに、何を目標にして生きていたのだろうか、わたしの名前は当地で父が尊敬していた「慶王」という方にあやかって「慶陽」と名付けてくれたようであるが、あの場所で当地の人々とどんな関係を結んでいたのだろうか、などなどのことは、わたしは物心ついたころからの問いでありつづけている。


 このたびは、父母がいつも遍路の起点として定宿としてきた土庄の「二十四の瞳」の銅像のすぐ近くの「長栄堂」の前を通り、難所のひとつとされる「恵門の滝」という札所まで行き、絶壁の中腹に建てられた御堂まで上ったりもした。そこではとくに、父がかつて巡拝したおり使った「鳥飼 元」という名前人の金剛杖を、母が自分の杖と一緒に納めたいというので、長い間わが家に置かれたままになっていた「同行二人」「南無大師遍照金剛」と記されたこれらの杖をここで納めた。そのほか「笠が滝」とか「清滝山」などを巡ってきた。


 そして今、小説『大地の子』の文庫本4冊を読みすすんでいるところである。



           *          *


 (実は、はじめ「憲法」についてメモるつもりであった。「日本国憲法」が戦前のわたしたちの罪責の上に立って新しく制定されたものであることを記すその枕に、父のことを少し取り上げてみるハズであった。


 考えてみると、わたしたちの小学校教育は、幸いにも戦後教育のはじめであったが、この「新しい憲法」はみるみるうちに骨抜きになっていく歴史でもあった。


 「戦争放棄」は言うに及ばず、「民主主義」「基本的人権」「自由」「平等」といったすべてが、いかにも空々しいものに感じられた。


 「法」が真に「法」として、ひとや自然のいのちを保ち生かしつづけるものであるためには、根本的で確かな何かが、わたしたちの足下で新しく再発見されるのでなければ、小さな新しい何かも、本当のところ始まらないのではないか。


 この「フィールドフォーク・カルチャーユニオン」には、大事な大事な何かを、手探りで探し求める新鮮な息吹が息づいているようで、面白い。


 このまえはヒドイ肩凝りで、「いぶきもぐさ」という今様の御灸(ヤイトとも言う)を家内にしてもらって、やっと立ち直ったところだが、笠木さんたちの「うた」と「かたり」の利き目は、どうにも不思議なことに「いぶきもぐさ」どころのものではない。なぜだろうか。)