「宗教界の部落問題ー「対話」ははじまるか」(第2回)(1997年12月、雑誌『部落』特別号)


穂積肇さんの作品「イチャパラ(祖霊をまつる)」




  宗教界の部落問題−「対話」ははじまるか


       1997年12月 雑誌『部落』特別号


            (第2回)




       2 解放同盟の宗教教団への「差別糾弾闘争」


 一九九六年度の宗教界は、恒例のこととはいえ上記のように「基本法」制定行動や「狭山再審」闘争という解放同盟の運動課題に「連帯」する行動を積みかさねてきた。こうした組織的な行動は、「同宗連」結成以後とくに、それぞれの宗教教団と解放同盟との関係を密接なものにしてきた。


 教団内部に起こった「差別事象」は、「落書き」一つでもすぐに解放同盟に通じるルートもできあがり、公式的にも「差別事象の解放同盟への報告」は事実上慣例化しているごとくである。たとえば、以下短く「西本願寺宗会議員除名問題」にふれるが、この問題なども非公式ルートで解放同盟に情報が流れたあと、正式に経過報告に出向いている。解放同盟からは「もっと早い段階で説明があってしかるべき」などと不満が告げられた上に、「宗会議員を除名」した「宗議会と総局の責任」を逆に問いただされ、加えてさらに、「除名」された当事者が問題の発言をしたことを認めていないなら「解放同盟として独自に確認会を持つ必要がある」などと言われている。


 なお、今年(一九九七年)七月、同教団に所属するある住職が公開の講演会でこの問題にふれている。そこで彼は、同教団は「宗会議員による差別発言事件を『宗会議員差別発言事件』でなく『関係学園理事長差別発言問題』とすり替えている」として、宗議会の責任を曖昧にする同教団の姿勢を厳しく批判する発言をしたなどということが、一般の新聞で報道されたりしている。


 しかし、この「除名問題」に関しては、雑誌『部落』一九九六年一一月号の特集「宗教と人権問題」で、山村修氏が「西本願寺宗会議員除名事件とは」と題する論稿でくわしく述べているとおり、そもそも「差別発言」があったかどうかが問われている事件であって、「思いがけぬヌレぎぬ」事件である可能性が強いのである。わたしも一九九六年七月に「ヌレぎぬ」を着せられたご本人から、直接その真相をお聴きする機会があった。


        (1)「西本願寺宗会議員除名問題」


 この「問題」は、すでに雑誌『部落』一九九五年九月号で、真宗大谷派住職で日本宗教者平和協議会理事長・鈴木徹衆師が「西本願寺宗会議員除名問題」と題した論稿を発表し、「事実経過」もそこにくわしく述べられているし、前掲の山村論稿でも生々しく記述されているので本稿では一切省略し、ここでは先ず鈴水師の論稿の書き出しの箇所を短く引用させていただく。


 「西本願寺で『部落差別発言』を理由に宗会議員が除名されるという事件が起こったのは、昨年(一九九四年)の二月一〇日のことである。除名処分をうけた議員は、これを不当なものとして地位保全の仮処分を京都地方裁判所に訴えた。その結果、本年(一九九五年)五月二四日、京都地裁は、『部落差別の発言はなかった。だから宗会議員の除名は理由がない。』と原告の訴えを全面的に認める仮処分決定を言い渡した。……」


 そして鈴木師は、「これは、『差別発言』を握造し、政敵を駆逐しようとする陰謀であることは、ことの経過を見れば明らかである。」と断じている。この京都地裁の「決定」のあと「本訴」に持ち込まれ、同地裁では双方に「和解」が奨められ、九五年一〇月二日に「和解」が成立している。前掲の山村氏の論稿にはその「和解条項」を要約してつぎのように紹介されている。


 「当事者双方の宗教的権威、社会的地位、名誉、信用等に鑑み宗政の混乱を回避するため、本件紛争が終結したことを確認し、以下のとおり合意する。一 本願寺保全の異議申し立てを取り下げ、○○は地位確認等請求の訴えを取り下げる。二 省略。三 〇〇は、宗会の混乱を回避するため、本日、自ら宗会議員を辞任する。四 本願寺は○○に対して本件紛争を理由で不利益を科さない。」


 ところが、この「和解」直後、本願寺派教団は「和解したということは、差別発言の非を認め、宗会の除名処分が正当であったと自ら認めたことを意味する」という「判断」を「宗派談話」で発表し、かてて加えて「本願寺に不利な証言をした」とされたもうひとりの宗会議員が「懲罰委員会」にかけられ、一九九六年四月二二日付で、本願寺監正局(宗門の司法機関)からその議員は「求審」(告訴)されたというのである。(その後のくわしい経緯は是非本誌でも取り上げ、教団内部でも公然とこれを「私的裁判(リンチ)」だと称されるこの問題を糾明し、当事者の人権と名誉が早急に回復されることを期待したい。)


 ところが、この「私的裁判事件」を含めた四つの「事件」――ここでは紙数の関係で取り上げることができないが、他の三つは「東海教区住職差別発言事件(九三年)、(札幌別院連続差別落書事件(九四年・九五年)、「本願寺宗務総合庁舎内差別落書事件(九五年)である。札幌・京都の「落書事件」は同教団関係者の同一の落書きとして内部では確認されているとか。−−が「浄土真宗本願寺派連続差別事件」と命名され、解放同盟のまさに「連続」の「確認・糾弾」が継続されたのである。


       (2)「浄土真宗本願寺派連続差別事件」


 解同中央本部はこれらの「連続差別事件」にたいし九四年から九五年にかけて四回の「糾弾会」を積みかさねた。その第四回「糾弾会」で、同教団の全教区で解放同盟による「点検糾弾会」の開催が約せられたために、九五年暮れの東京教区を皮切りに九六年春の長野教区まで、全国三二教区で実に延四三回にわたって、解同の都府県連による「点検糾弾会」が行なわれた。これには教団側の出席者だけでも約二八〇〇人が数えられるといわれる。


 また、上記の第四回「糾弾会」では、この「点検糾弾会」のほかふたつの点、つまり「差別の実態を学ぶための現地学習会の実施」並びにそれらをふまえての第五回「糾弾会」では「本願寺役員全員を対象に行なう」ことが約束させられていた。


 したがって、この約束を履行するために九五年一一月には、大谷光真門主を筆頭に総局員はじめ管理職六〇数名が大阪西成地区への「現地学習会」を実施している。「本山を丸一日総出で空けるのは、教団の歴史始まって以来のこと」であったという。


 そして、九二年からはじめられている「基幹運動推進僧侶研修会」も九六年からは第二期に入り、今後五ヶ年にわたって各組・ブロックで継続的にすすめられ、そのための特別のテキスト『御同朋のねがい』も九六年七月に編纂・発行された。(因に、これには「糾弾権は裁判判例においても認められ、社会的権利として確立している」などと記されている。兵庫教区が作成した最新テキスト『同朋講座Q&A』は門外不出のようで入手できていないが、同種のものかどうか。)


 また、一斉の「点検糾弾」が全教区で積みかさねられた後も、解放同盟による「点検学習」と名前を変更して事実上の「糾弾会」が継続されている。そこでは、「法名過去帳再調査」の実施をはじめ、伝統教団の抱え込んでいる組織上の問題や教義内容にまで立ち入った「点検学習」が連続し、これに「対応」する「研修」に追われているごとくである。同教団の兵庫教区の関係者の話でも、たとえば前記の「除名問題」について言えば、「差別発言」があったとして告発した教団総務がこの教区出身であるとかで、難しい内情をかかえているようである。


 ところで、一九九六年八月に「本願寺派連続差別事件第五回糾弾会」が、「約束」どおり「本願寺役員全員」勢揃いしておこなわれた。報道されている写真でみるだけでも、それはすごい人数である。教団側はさらに、これをうけて一九九七年一月には「連続差別事件」の「総括書」をまとめ、大谷門主、松村宗務総長ほかが直接に解同中央本部の上田委員長へ提出した。そしてそのおりに教団側は、「総括書」の実現の第一歩として「御同朋の社会をめざす法要」を行なうことを表明した。ここでまとめられた「総括書」では「差別に学ぶ視点を常に確認しながら〜云々と決意表明がなされている。


 九七年三月二〇日、同教団の本山・本願寺御影堂で営まれた「基幹運動推進・御同朋の社会をめざす法要」には、全国から教団関係者と解放同盟都府県連代表ら二五〇〇人が集まった。そしてこの「法要」は、異例の「消息」まで「発布」する念の入れ方であったという。これは、宗教教団と解放同盟が繰り広げた「部落問題フィーバー」の一九九六年度のまさにハイライトで「総括的出来事」であったといえよう。


 (当初、本願寺派教団のなかでも突出した「確認糾弾」の歴史をきざむ広島県安芸・備後両教区について、特に元解同書記長の小森龍邦氏を中心とした「反差別の教学」をめざす「点検学習」の問題性に言及する予定でいたが省略する。ここではただ一点、「宗教の教義・教学に関する批判的検討の場は『点検学習』の場で継続すべきものではなく、学問・研究の場で厳密に究明すべきものだ」という「常識」が早急に回復される必要がある、ということだけを指摘するにとどめる。)


 以上、「同宗連」に所属する教団のうち本願寺派教団を中心に取り上げてきた。九六年度はここがターゲットになったために、この教団が際立って目立つことになったが、伝統的な仏教教団、とりわけ真宗大谷派教団や「同宗連」結成の契機となった曹洞宗など宗教界の現状は、相も変わらず本願寺派教団と同種の問題をかかえて「マジメなフィーバー」がつづいている。本願寺派の「法要」は特別としても、「差別戒名」が問題となった曹洞宗や浄土宗など各教団では、九六年度でも解放同盟の関係者ともども各地で「法要」が執り行なわれた。


 また「差別の現実から学ぶ」のだとして、一九九六年度は「震災と被差別部落」の「研修」が行われ、「同宗連」傘下の全日本仏教会真宗大谷派臨済宗妙心寺派日本キリスト教団兵庫教区などで、神戸市長田区の番町地域への「研修視察」が相次いだりもした。当然これも「解同ルートの研修」に限られたために、地域のトータルな現状と変化、とりわけ震災後の「新しいまちづくりの息吹き」が、どれだけ正確に学ぶことができたかどうか、これも大きな疑問である。



    (次回に続く)