「宗教界の部落問題ー「対話」ははじまるか」(第1回)(1997年12月、雑誌『部落』特別号)


穂積肇さんの作品「悪魔払い」



   宗教界の部落問題−「対話」ははじまるか


       1997年12月 雑誌『部落』特別号


             (第1回)



               


 一九九六年度の部落問題」の特集に「宗教と部落問題」の分野が加わることになった。周知のとおり、一九七〇年代のおわりに解放同盟によって引き起こされた宗教界の「部落問題フィーバー」は、一〇年の時限立法であった「特別法」終結のときであった。この集中的な「差別糾弾闘争」により、宗教界はついに一九八一年三月「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」(略称「同宗連」)という新たな組織をつくって「対応」するにいたり、解放同盟との組織的な「連帯」行動が開始されたのである。


 この組織は、自主的な個人加盟制をとらず、教団政治につくトップでつくられたものであった。したがってこれは、教団にとっては「解同対策の連絡機関」であり、解放同盟にとっては「地名総鑑問題」への糾弾闘争を契機につくられた企業の連絡組織「同企連」につぐ有力な「傘下組織」ができたことを意味した。


 以来まる一五年が経過した一九九六年度のはじめの「同宗連」といわれる組織は、日本の宗教教団の大半を占める六八教団と三協賛団体で構成される「総動員体制」が固定化し、くわえて二五の都府県レベルの組織がぞくぞく結成されてきたのである(その後、九六年度中には群馬県に、本年度にはいって和歌山県と栃木県に新しい組織が結成された)。


 本稿では「一九九六年度の部落問題」で「宗教と部落問題」を取り上げるが、またもやこのときは「特別法」終結のときにあたる。しかも二八年間も継続延長されてきた「特別法」のまさに最終年度にあたる年度であった。解放同盟もこのときは、「特別法」の延長のないことを知りつつも、組織の命運をかけて「基本法制定」要求行動をなりふりかまわず繰り返してきた年度であった。その中で「同宗連」も、各教団のトップ並びに担当者たちを動員し「基本法制定行動」や「狭山裁判闘争」に際立ったフィーバーぶりを発揮したのである。


 解放同盟は同時に、特に浄土真宗本願寺派をターゲットにした「点検糾弾闘争」を繰り広げていった。それは、たんに本願寺派教団の本部にたいする「点検糾弾」だけでなく、同教団を構成する全教区への集中的な「糾弾闘争」戦術を実行させていったのである。宗教界、とりわけ日本の伝統教団である仏教界への「糾弾」は、おそらく解放同盟の「差別糾弾闘争」の歴史のなかでは最も「絵になる」ものであり、解放同盟にとって宗教界は「終りのない格好の糾弾対象」であったであろう。


 もちろんこれは、解放同盟側の思惑だけでない。「連帯会議」に加盟する教団側にも、それぞれの当該教団政治の内部事情もからまって、両者のあいだには複雑な「野合」関係が成立し、「持ちつ持たれつ」の関係が継続してきたといえるかも知れない。


 いずれにもあれ、解放同盟の「糾弾闘争」はいうにおよばず、「同宗連」のこのような組織的な「対応」は、部落問題解決という重要な歴史的プロセスにおいて、無残な「虚偽形態のひとつ」として、後世にまで「道を踏み外した過熱ぶり」と記されていくことは確かである。


 そこで本稿では、基本的にはこれらは「非問題」のひとつに過ぎないが、解決すべき問題状況として残されているので、一九九六年度を中心とした「宗教界の部落問題」の「動向」を概略確認しておくことにする。同時にまた、この問題状況を一歩でも克服・打開すべく、新たな「対話」への道を探るいくつかのとりくみにふれて、一九九七年度の「新しい時代の到来」を確かめておきたい。


       1 宗教教団の解放同盟との「連帯」行動


          (I) 「基本法」制定運動


 「特別法」最終年度の一九九六年度は、いくどにもわたって「部落解放基本法」制定要求をかかげた「中央行動」が画策された。そして九六年五月二二日の「一万人集会」の総決起をまえに、「同宗連」は独自の中央集会を四月二五日に開催し、各宗教教団の代表四五〇人が結集した。このときの「同宗連」議長は真宗大谷派がつとめており、大谷派は二月一九日に同派内一八教区の「基本法決議」を政府に提出する行動をおこした上で、この集会にのぞんでいる。


 集会前日(二四日)には、「基本法」制定国民運動中央実行委員会名誉会長につく浄土真宗本願寺派大谷光真門主が「基本法」制定の「お願い」のメッセージを各国会議員にとどけ、二五日当日集会後、与党プロジェクト構成議員や自民党議員への要請行動にもとりくんでいる。


 そのとき作成された「要請文」にはつぎのような文面がある。「同宗連」結成後一五年間の「フィーバー」ぶりが、ここに簡潔に記されているので参考までにかかげておく。


 「わたしたち宗教者・宗教教団は、深き反省の上に立ち、教えの根源にかちかえり、部落差別問題解決への取り組みなくしては、もはや宗教者・宗教教団だりえないとの決意で、一九八一年六月に『同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議』(略称「同宗連」)を結成し、部落差別をはじめとする一切の差別の解消のための取り組みを進めてまいりました。
 『同宗連』は、その発足当初から部落差別問題の根本的、総合的解決のために、『部落解放基本法』制定要求国民運動に参画し、主要な構成団体のひとつとして取り組みを続けております。これまで『基本法』早期制定に向け、『特別措置法』強化改正の請願・署名運動、『基本法』制定を求める決議の採択、『基本法』制定要求全国行動への参画、『基本法』制定を求める宗教者総決起集会の開催、『基本法』制定要求署名運動などを展開し、一九九四年一二月には『基本法』制定に向けて、『「同宗連」言言』を発布し、『同宗連』内外の各方面に働きかけをしてきたところです。……」


 「同宗連」傘下の各県「同宗連」も独自に「基本法」要求をかかげて総務庁へ要請行動をおこなったり、各県の「基本法」制定実行委員会に宗教教団が参画して中央行動にとりくんだりもしている。もちろん「基本法」制定要求国民運動実行委員会の会長も宗教教団が担ってきたのであって、九六年度は曹洞宗管長・宮崎突保師がついていた。そして年度末の九七年三月にはつぎのような会長挨拶(決意)を表明している。


 「……私たちが『条例・宣言』制定運動や国会議員賛同署名獲得運動など、永年にわたり『基本法』制定運動を展開するなかで、昨年暮れの臨時国会で人権擁護施策推進法が制定されました。……この『推進法』によって設置される人権擁護推進蜜議会は、憲法の精神をふまえ、衆参両院の付帯決議を十分に尊重するなかで被差別者の視点に立って改めて基本的人権を見つめ直し、真に二一世紀を『人権の世紀』とするための答申をだすべきです。
 『基本法』実現に向け、法的措置をぜひとも具体化させましょう。……『推進法』に大きな期待を寄せつつも、今後の展開を注意深く見守り、全国各地、各界の人びととの強い連帯の絆を大切にし、『基本法』制定運動のとりくみを、力強く、そして油断なく継続していくことを、お互いに確認しあいたいと思います。」


 こうした「挨拶」が、「宗教者」の僧衣の姿で、そのトップの位置から語られているのである。もちろん「同宗連」結成の経緯を知るものは、この組織はつねに解放同盟との「連帯関係」を基礎に、当面する運動課題に迎合・加担してきたのであって、上記のごとく「基本法」制定の各種行動の先頭に立つことは、なにも不自然なことではない。


          (2) 「狭山差別裁判闘争」


 「狭山事件」は一九六三年におきた事件であるが、当初「冤罪事件」として幅広くとりくまれてきた。しかし、一九七〇年あたりから解放同盟はこれを「差別裁判」と断定し、以来長期にわたって「狭山差別裁判闘争」として展開されてきた。当然のことながら一九八二年につくられた「同宗連」と傘下諸教団は、この「闘争」にも積極的に加わることになる。一九九七年六月の「狭山再審」の決起集会でも「同宗連」事務局長は、つぎのような「挨拶」をしている。


 「……同宗連加盟教団はこれまでの狭山裁判の不当性を確信するものであり、また無実を立証する新証拠にもとづく再審が一目も早く開始されることを願っている。狭山再審開始ト完全無罪判決をかちとるまで、みなさんとともに力強く歩んでいく。」


 一九九六年度も各教団の「闘争」参加は積極的であるが、たとえば「同宗連」の協賛団体のひとつ日本キリスト教協議会は、米国キリスト教協議会の人種正義活動委員会との共同行動として「狭山再審要請行動」を六月一七日にとりくんでいる。


 日本キリスト教団兵庫教区内では一九七四年段階から「狭山」との関係がみられ、一九九六年度の教区総会では「狭山再審・全証拠開示請求」の決議をおこない「狭山現地研修会」も九六年度で六年目を数える熱の入れ方である。


 日本キリスト教団として「狭山現地調査」にとりくんだのは一九七八年であるが、同教団は一九八一年に「部落解放センター」を設立し、一九八八年には教団総会で「教団三役、総幹事狭山再審要請行動」を可決して、一九九〇年からは「狭山中央集会」への組織的参加を開始している。したがって、一九九六年五月二三日の中央総決起集会には教団総幹事をはじめ関係者が他の諸教団とともに結集し行動をともにしている。一九九六年度の同教団関東教区の総会(五月一五日)には、仮釈放中の石川被告を迎えたりしていることにも関係の親密さが表われている。


   (次回に続く)