「『差別の現実から深く学ぶ」とはどういうことか?」(1976年7月、『部落問題』)


宮崎潤二さんの作品。連載小説の挿絵。



差別の現実から深く学ぶ」とはどういうことか?


         −神戸市同教第六回大会報告書を読んで―


  『部落問題』1976年7月号


                  一


 神戸市同和教育研究協議会(以下「市同教」)の第六回大会は、昨年八月二十二日、県民会館と教育研究所を会場にして開かれました。嵐の中にもかかわらず一三〇〇名の参加者があり、しかも今回から新たに「就学前教育」の分科会も設けられ、年々充実・発展してきております。


 今回の総主題は、「差別の現実から深く学び、生活を高め、未来を保障する教育を確立しょう」ということで、事務局の「基調提案」があり、十分科会(十五会場)で熱心な討議と交流がおこなわれました。ここでは、先にまとめられたこの大会報告書を素材にして、「差別の現実から深く学ぶ」とはどういうことかについて考えてみたいと思います。


 しかし、この大会も、この種の諸集会と同じように、「研究」というよりむしろ「実践」の報告・交流という性格が強く、「観念的、抽象論は、ややもすれば討論を混乱させたり、内容がみのりのないものになる恐れがあります。討論の流れにそって、差別の実態を具体的に出し、そこにある要求をくみとり、その実現をめざしての自分の実践を出しながら、討論を展開していくようにしたい」(「討議について」の②)といわれるように、事柄そのものを理論的に明らかにするという課題は、はじめから「観念論、抽象論」として避けられています。けれども、この小論では、逆にこの「理論的な吟味」に重点をおいて考えてみることにいたします。


    二
 

 まず「基調提案」の中から「差別の現実から深く学ぶ」ということに関連する主な個所を引用します(傍点、引用者)。


 〈「現実から深く学ぶ」ということは、子どもの具体的な事実と対峠し、その背後にある父母のくらしをみていこうということです。(7頁)

 〈破壊された子どもの生活を、まるごと抱えようとすれば、学習内容はいきおい父母の生いたちや労働と接続させればなりません。〉(8頁)

 〈父母の仕事やくらしを真正面にとりあげること(中略)そこをくぐり抜けなければ、子どものうちにある変革のエネルギーに火をつけることはできません。日記や作文、語          
りなど、子どもの生活をまるごとかかえこんだ、ねばり強い取りくみが必要です。〉(同上)

 〈日々の教育実践において、子ども自らが生きていくための課題と真正面から立ち向わせ、親や地域の期待に応えていける学力と認識と行動力を身につけさせ、社会や企業の中にある非人間的なものに対して闘い抜ける自立性を、育てあげていかねがなりません。〉 (10頁)


 これはよく準備され検討された提案であり、一見批判の余地はないかのごとくです。けれども、この提案にはどことなく「過剰な熱意と痙れんした発想」のあることは否めません。


 たとえば、先の傍点部分を再読して頂けばいちいち再掲するまでもなくご了解いただけると思います。同和教育ということが、「差別の現実から深く学ぶ」ことだとして、「親や地域の期待に応えていける(中略)行動力を身につける」(前掲)などと、何の歯止めもなしに強調されますと、そこには単なる神経質な告発や強制的な倫理主義がひとり歩きして、遂には「八鹿事件」のような事態におこちこんでいく傾きから解き放たれることはできないでありましょう。


 今日のような激動期にあってはとくに、このような「良心的、あまりに良心的」ともいえる、教師の単々る善意や誠実さだけでは、けっして責任のある教育は成り立ちえないのだということもまた事実だと思わわます。以下、理論的な歯止めとして重要と思われる二つの点だけを指摘しておこうと思います。


    三


 第一は、「現実とは何か」についての認識の曖昧があるようです。
 先に引用しました「子どもの具体的な事実に対峠する」とか「父母のくらしを真正面にとりあげる」などといわれる場合の「事実」「生活」「くらし」に含まれる二義性がいまだ明らかに見られていないという問題です。


 このことはあまりに当然すぎることなのですが、私たちがここで「現実に含まれる二義性」といいますのは、「現実」には積極的・肯定的な意義をもつものとして成り立ってくるものと、他方、消極的・否定的にしか成り立ちえないものとあることを指しています。


 前者は「真正形態としての現実」、後者は「倒錯形態としての現実」だと言い換えられる場合もあります。ですから、「差別の現実から深く学ぶ」という場合、ことばの厳密な意味から言いますと、先の消極的、否定的な倒錯形態としての現実の意味での「差別の現実」が、積極的・肯定的な真正形態としての現実とかかわるべき「深く学ぶ」という言葉と直結さわているところに、用語上の矛盾と混同があるわけです。「差別」は無限定なかたちでは「学ぶ」対象ではないからです。


 この同じ曖昧は、全同教委員長西口敏夫氏の「激励のあいさつ」でもみられます。
 たとえば、「差別の課題もたくさん」あるので「差別の現実から深く深く学びつつ」「徹底的に子どもや父母や地域の願いをくみ入れなければならない」(3・4頁、傍点引用者)などと言われます。


 もちろん、子どもや父母や地域の正しい願いは、ひきだし・育て・みのらせてゆくことが、教育の本来の目的であり方法でなければなりません。けれども、暴力や利権を伴った端的に虚偽の願いとしてあらわれてくるものは論外だといたしましても、その発想のそもそもの起点が、単なる私的な情念や宙に浮いた考えなどからあらわれる願いに対しては、正しい願いへ転じさせるための教師の適切な批判の労苦がはらわれなければならないわけです。


 もちろん、この「願い」の正邪・善悪の判断、「現実の二義性」の判断は、何人もその基準を私物化することはできません。(「デキナイ」と同時に「スべキデナイ」し「スル必要モナイ」のです)。「被差別の側にある」とか「運動をしている」とかでその判断が正しいのでもありません。この「基準・基点」への正しい理解を欠くところに「一目おく」という現象もおこるのです。

 この「基準・基点」から健やかに成立してくるものが先の「真正形態」というものであり、この「基準」を無視し・敵視して、人間の本来の解放を抑圧することを「倒錯形態」(差別)であるということができるわけです。


 すくなくとも、このような「現実」についての理解が視界に入らないままに、「暗い現実を認識することから、明るい展望をきりひらくのだ」(41頁)と言ってみても、それでは「単なる告発の論」を超克する見方を獲得したことにはなりません。まして「教師自身の痛覚を基本にすえて立ち向っていく人間的衝撃がなければならない」(52頁)などと指摘されても、けっしてまだ「新しい一歩」をふみだしたことにはならないように思います。


    四


 第二は、「差別の現実から深く学ぶ」と言われる場合の「方法」に関わる問題で、基本的には人間理解の仕方に関連するものでもあります。


 たとえば、最初に引用しましたように「子どもの生活をまるごとかかえこむ」ということがいくども言われているのですが、この「まるごとかかえこむ」ということは果して正しいのでしょうか。私は、この点についても強い疑問を持っています。


 卒直に言って、教師が生徒(子ども)の「生活をまるごとかかえこむ」などということは、どだい無理なことです(「無理」とは「理が無イ」の意でもあります)。いや、教師はそんなことをすべきではありませんし、またそうする必要もないのです。


 なぜなら、もともと子どもの生活は、私たち大人と同じく(成長段階において相違はありますが)、大きく分けて三つの極面をもっています。


 すなわち、一つは「子どもと子ども(たち)の世界」です。(これは「対人性」の極面といわれます)。もひとつは「子どもと社会の世界」です。(これは「社会性」の極面といわれます)。そしてもうひとつは「子どものひとりの世界」です。(これは「一人性・個人性」といわれます)。


 子どもたちのこの三つの世界を健やかに伸ばしていくのが、また子どもたちの伸びていくのを助けることが、教師の仕事であることはいまさら言うまでもないところです。


 けれどもこの「基調提案」では、すくなくともこれらの基礎的な省察を欠いたまま、いわばその必然的な結果として、「対人性」だけに過度に熱がこもりすぎて強調されているように思われます。


 そして、その「対人性」も単に「教師→子ども」といったモノローグの関係に落ちこまざるをえないものなのです。
 たとえば、その実践報告の中で、「Kの人間らしい熱い血も親とまともに向き会う中でしかよみがえってこなかった。ここからしかKの進路に対しての、腹がためは成り立たない」(124頁)とか、「教師がひとりの子どもに、どこまでかかわり切ることができるかそれが同和教育である」(59頁、いずれも傍点引用者)などはその典型で、これに類似する表現は各所に見られます。ここではこれ以上立ち入って論じることはできませんが。

   
 この三つの極面をその根源的基点から分極する場の構造として精確に把える必要がある、ということだけは記じておこうと思います。ただこの点に限って言いますと、第五分科会の「「確かな・わかる授業」をめざして」で、〈ひとりひとりに定着する(個)主体性〉と〈力強くひびき会う学習(集)協力性〉を区別し、その課題が整理されている部分は、いまも記憶に残っております(52頁〜55頁)。


 それにしましても、「目の前にいる子どもととことんかかわり」(124・139・141頁など) 「いちばん困難な状況に置かれている生徒たちの側に立つことによって、はじめてまっとうな視点を持ちうることを認識し、まず親や生徒たちと真正面から向き会わなければならない。そこから見えてくる問題にとり組まないと“ことは主義”のきれいごとで終ってしまう」(132頁)などと、マジメに言われれば言われるほど、自らすでに脚下の大きな落し穴に足を滑らせている証拠でないかどうか、そしてそこに不毛の独善的実践主義が顔を出していないかどうか、省察を深くする必要があるように思うのです。


    五


 この大会の「総括座談会」で、「六年目にして“本物の同和教育とは、いかにあるべきか”が芽をふきはじめたように思う」(145頁)と言われ、また「あとがき」でも、「それぞれの現場の教育実践が、解放運動に支えられ、全国の仲間から学び励まされ」「ようやくその方向を明らかにし、確かめ合ってきた」(148頁)とも言われています。


 しかしながら、芽がふきはじめ、ようやく明らかになったこての方向というものが、上のごときものだといたしますと、さらに厳密に「市同教」の「基調」そのものを、丁寧にしかも根本的に問い直していく作業がすすめられていかねばならないでしょう。もちろん、「市同教」の内側から自発的に。


 なお、神戸の部落解放運動との関連の問題は、また別の角度から論じられる必要がありますが、「市同教」のこの「基調」は、かつて「解同」の南但馬での暴力的糾弾闘争を支持したあの「市同教事務局見解」をよりスマートに定着させたものだとも言えましょう。


 芽をふきはじめた本芽を、非教育的見地から下手に摘みとることのないように、また芽でもないものを本芽と見あやまって、それを育てることに過熱することなどにもならぬように、着実な歩みをあゆみつづけなければならないと思います。適切なご教示ご批判をいただければ幸いです。