「滝沢克己と笠原初二ー笠原遺稿『なぜ親鸞なのか』を読む」(第2回)(1993年)


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 滝沢克己と笠原初二


  笠原遺稿集『なぜ親鸞なのか』を読む


              第2回


         2 「部落問題」との不幸な出合い


 滝沢の記すところによれば、彼は佐賀の大和町の高校から一九六四年四月に九州大学教養部に入学した。講義は面白くなく、受験勉強から解放されると同時に襲って来た空虚の思いを消すためにサッカー部にはいり、法学部刑法科に進学してからも熱心につづけた。講義の方も彼の聴いたかぎり、教養部のそれにもまして詰まらなかった。一九六八年三月に卒業したが、笠原自身述懐するとおり(大学四年間で何も得なかった寒々とした自分(一〇六頁)があった。それで、その空虚の念いを含めて根底的に人生を知るため、ほんとうに生きるために、文学部哲学科にその年一〇月再入学、滝沢の属する倫理学を専攻する。


 一九六八年という年は、すでに当時、全国の大学内外で新しい時代を切り拓こうとする潮流が、あちこちで湧き出ていた時である。例えば、『滝沢克己著作年譜』(坂口博編、創言社刊、一九八九年)を見ても、滝沢自ら、一九六八年一月には「大学の自治を危うくするものは何か」(掲載誌不明)を、また五月と六月にわけて「二〇世紀後半における革命と大学」と題するまとまった論文を「九州大学新聞」に掲載して「大学革命」への発言を開始した時でもある。


 また、笠原が哲学科へ再入学する前の六月二日には、よりにもよってベトナム帰りのジェット戦闘機が建設中の九州大学電算機センターに墜落するという事件によって、いよいよ身近に「大学闘争」が活発化する時である。(筆者にとっても、この年は「牧師であること」「人間であること」を学ほうと、妻子とともに神戸の都市部落に生活の場を移して、ゴムエ場の雑役に就いた時である。)


 笠原は、こうしたなかで文学部自治会のメンバーとして運動に参加しながら、常に「落ちついてよく考え、正しくものを見きわめる努力を怠らなかった」(二頁)。そして滝沢の関わった大学内外での「自主講座」にも彼はほとんどいつも出席した(三頁)。滝沢の最初の「大学闘争」の記録でもある『大学革命の原点を求めて』が新教出版社から刊行されたのは一九六九年の八月であるが、そのすぐあと一〇月一四日には九州大学へ機動隊が導入されるという事態をむかえる。


 その後の笠原について、滝沢はつぎのように言う。


 「笠原君のばあい、組織はもとより運動にさえ先立ってかれを衝き動かす奥深い何かがあった。それが何であるか、それをそれとしてはっきりとはつかめぬながら、かれは自己内外の現実の歪みを、ありとある形におけるその現われを、鋭い痛苦をもって感じとった。
 その歪みを正すべく、かれはわれ知らず起ち上った。一九七〇年六月、同じ志向とその振舞いゆえに伝習館高校を逐われた柳川三教師の闘いが一つの幾縁となって、笠原君の囲りに、新しく『教育共闘』が結成された。その闘いが次第に鋭く深くなり、その拡がりを増すにつれて、かれはまた避けがたく、日本のすべての歪みの極限をなす部落問題に、全身全霊を挙げて関わることとなった。活動は眼ざましかった。」(三頁)


 一九六九年八月から始められた「大学変革研究者会議」が『RADIX』を創刊するのは一九七〇年二月であるが、右に言われている笠原らの「教育共闘会議」の結成はおそらく同年六月ごろ以降のことである。


 ところで、滝沢は、右の記述を見るかぎり、笠原が部落問題と出合い、全身全霊を挙げて関わっていく過程を、彼にとって避け難い必然性として、しかも積極的必然性として受け止めているごとくである。


 しかし、以下すぐに言及するように、わたしの見るところでは、彼の最初の部落問題との出合いの仕方そのものに、ひとつの不幸が含まれていて、その不幸が後にまで大きなシコリとなって存在しつづけたことを、思わざるを得ないのである。「日本のすべての歪みの極限をなす部落問題」とはいくらかオーバーな認識ではあるが、笠原が抱え込んだ「不幸」「シコリ」とはいったいどういうことなのであろうか。


 大学闘争のはじめには、彼は「自分というのは正義の味方」で「大学はおかしい」「国家権力はおかしい」「こういう社会関係は変えていかなきゃいかんと盛んに怒っている」。それが次第に「じゃあ自分自身はどうなんだ」「中卒、高卒という人との関係でみると、自分も支配者の側になっていくんじゃないか」。こうして「自己否定がだんだん自己抹殺になっていくようになる」。そういう過程を経て、精神的に自分自身が問われていったというのである(一八〜一九頁)。


 滝沢も指摘するように「知らず識らずのうちにかれは、『大学生』である己れ自身を、度を超えて恥じ」るという「ただ単に虚しきものがかれを捕えた」。思いもかけぬ陥穿に気付くことなく、過度に自分を痛めつけたのである(四頁)。しかも、この「陥穿」(落とし穴)に輪をかけるかたちで出合うことになったのが「部落問題」であったのだ。


 しかも、ここで彼が出合った「部落問題」とは、どういうものであったのか。
笠原も述べるように「狭山事件に関して、部落の青年が浦和地裁を占拠した事件があり、そういう解放運動の動きが表に出てき」て、「大学のなかでも部落問題がクローズ・アップされ、大学と部落が対峙させられるようになってくる」。そして遂に笠原は直接「部落問題をやっている学生」から、「おまえらは学生運動をやっているというけれど、部落から見たら大学当局と同じだ。大学をどうのと言うけれど、おまえらみんな部落を踏みつけているじゃないか」と批判されるのだ(一九頁)。


 こうした批判に対して「良心的な学生」の多くは、ただ返す言葉もなくそれを無批判に受け容れてしまう。笠原もあまりに「良心的な学生」のひとりであった。当時の部落解放運動には、大学であれ地域であれ、右に見たようなもっともらしい異常さが、わがもの顔でひとり歩きする傾向が強く、それに抗して、その危うさに気付き批判的に関わることは、難しい状況であった。


 わたしたちの関西地方でも、それは全く同様であった。というより、そうした流れを生み出してしまったのは、関西の、しかもわたしたち兵庫の一部の「運動」がその源にもなっていたのである。


 部落問題との出合い方は各人各様さまざまである。自ら「差別」をして個人もしくは運動団体などから指摘・追及されて関わり始める場合もあれば、何かの縁で自ら積極的に関わりはじめる場合もある。


 彼の場合、自ら「差別」を起こしたわけではないが事実上他者から批判されての出合いであるので、前者に属する。こうした場合は、「良心的」であればあるほど、彼のような「不幸」を強いられることが少なくないのである。


 彼は言う。「この批判はその時期にかなりきつかっかわけです。自分の立場が問われてきて、大学どころか自分自身もにせものだ、部落問題を学ばぬ限りは自分たちもだめだと思」う様になっていく(一九頁)。それで彼は「近くの部落の青年といっしょになって青年部を作る運動、学習会、子供会などの運動に参加して」いくのである(同)。そして、「青年といっしょに大学のなかに部落解放講座を作る闘いをやっていく」(同)。


 (こうして作られていった「部落解放講座」とはどのような内容のものであったのか。残された資料がないのでわからないが、それは今日の大学で開設されているような「同和教育論」「部落問題論」といった講座ではなく、当時の「自主講座」の単発的なものではなかったかと思われる。その点、はたして滝沢が記すように「運動は次第に勢いを加え、それ以前から教養部で同じ闘いを積みあげてきた友人たちの助けをも得、ついには教育学部に公認の部落問題講座を創設して、その運営を任せられるまでに成長した」(四頁)とする評価が可能かどうか、事実問題として疑わしい。)


 しかし、部落で寝泊りもするような親密な関係が深まるなかで、逆に青年だちと彼との溝が深まっていく。「部落からみれば、学生運動も含めて大学全体が敵対的存在である」などの指摘を受けて、自らの「差別的体質を考えさせられていった」(二〇頁)。そして「だんだんものが言えなくなっていき、自分の立っている場がくずれていくように自信を喪失して」いくのである。


 さらにもうひとつ、彼の自信を喪失させる「事件」が起こる。それは東京での伝習館集会(一九七一年頃か)での出来事である。笠原はこの集会の分科会で副議長をしていて、つぎのような発言をした。「福岡の伝習館の闘いというものを、教育の最も低いところから闘うんだと集会で決めたけれども、こういう感じでやっていくと、また解放同盟から糾弾されますよ」と「いいつもりで言った」言葉が、その場にいた部落問題に関わる人たちから「いまの言い方のなかに差別がある」と批判を受けて「緊張した状態になって、黙ってしまった」と言うのである。


 そしてさらに「部落の問題」という言い方も「部落の側に問題があるかのような言い方」で差別がある、それは「部落問題」というべきだなどと注意され「反省」するという出来事があった(二一頁)。(「部落の問題」という表現については、滝沢がこの言葉を用いた折に、笠原はその時の経験をそのまま滝沢に向かって「無責任な傍観者性」の表われとして激しく指摘したという(四頁))。


 彼にとってこの出来事のダメージはきつく、集会のあと「二年ぐらい精神的に自信をなく」し「もう言葉は吐けない感じの不安」に襲われるのである(二一〜二二頁)。


 こうして彼は、さらに泥沼へと踏み込んでいく。「ますます、俺は部落問題をやらんとだめになると思って、妙に部落の側に立つようになっていった」。「部落の青年に代わって非部落の人へ『おまえの喋り方がおかしい』、『大学教授そのものがおかしい』といって、大学内での諸党派に対してもわれわれが“こわい”存在になっていく(二二頁)。殆どの人は真底納得もしていないのであるが、どこか彼に一目置いて対されるような、不思議な現象が起こりはじめる。本人たちは何か「正義の御旗を我がうちにもった」かのような錯覚を抱いて、人を威圧するようになるのである。


 その頃は、ある意味ではそうした「運動」の高揚期であった。しかし、すでに指摘したように、この「運動」はその出発点から見分けにくい危うさを含んでいたのである。滝沢はこの時の彼の姿を、つぎのように言う。


 「この頂点に、まったく思いもかけぬ陥穿が潜んでいた。現実に存在する差別に憤激し、その差別を撤廃せずんばやまないという、それ自身としては非の打ちどころのない激情を機会として、ただ単に虚しきものがかれを捕えた。知らず識らずのうちにかれは、差別する側の一身分、『大学生』である己れ自身を、度を超えて恥じた。逆にいうと、差別されている人々を、事実存在する人間としての度を超えて尊んだ。あるべからざる差別を撤廃するための必死の努力が、ふつうに差別者が差別するのとは逆方向の、もっと見わけにくく恐るべき差別をもって、被差別部落の人々に立ち向かう結果となった。そればかりか、他方、二重三重のこの倒錯に乗った幻想の高みから吹きおろすまるで暴魔風のような、すさまじい差別が始まった。」(四頁)。もちろんこのような独善的に高揚した「運動」は長くつづくはずもなかった。


 この頃すでに全国各地で部落解放運動も分裂抗争が激化しており、彼の関わっていた地域でも部落のなかで青年同士が分裂して、対立しあうようになる。青年の分裂と同時に学生の仲間内の分裂がおこり、精神的にも肉体的にも厳しく問いつめられていく。そのときの状態について笠原は言う。


 「私たちは『おまえは部落のしんどさがわかってるのか、どこまで命賭けてるんや』という言い方で相手を問いつめて、ときにはなぐりあいになったりする。各人の事情を無視し、その結果、物理的にも力の弱いものを排除し差別していく、仲間に対してもちゃんと運動をやってないというところで軽蔑していくようになっていった。(中略)あいつは裏切るかもしれない、権力にやられたらみんなポシャる、こんな奴らはみんな殺さなきゃいかん、ということになりかねないような精神的興奮状態だったと思います。」(二二〜二三頁)


 その場合も、彼は一方で部落の「青年とは馴れ合い」ただ「やる気」ということだけで人間を計り、仲間の不信感と憎悪感を増幅させてしまう。こうして遂に、運動は分裂し崩壊するのである。滝沢の言うとおり「『教育共闘』は瞬時にして壊滅した」のである(四頁)。


 「運動の崩壊」の後、指導的立場にあった彼の立場は逆転し、これまで排斥されてきた者から「おまえ、何が間違いか自己批判しろ」と迫られる(二三頁)。「何度も何度も、総括集会をやるたびに出」て「告発を受けて、ようやく自分が何をやったか少しずつわかってきた」(二四頁)。当時のことを彼は「肋骨が見えるぐらいやせ、歩いていても膝の関節がガクガクしていました」とも述べている(同)。そして彼は滝沢に、性も根も尽き果ててこう言った。「自分自身がこんなに分からなくなってしまったことはない」(四頁)。それは、一九七三年四月頃のことでなかったかと思われる。


   (次回に続く)