「滝沢克己と笠原初二ー笠原遺稿『なぜ親鸞なのか』(第3回)(1993年)


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  滝沢克己と笠原初二


     笠原遺稿集『なぜ親鸞なのか』を読む


               第3回


           3 「真宗大谷派専修学院」へ


 幾度「総括集会」を繰り返しても、そこからは何も新しいものはつかめない。結局、自分を取り戻すためには本を読むしかなく『歎異抄』『死に至る病』『ロマ書』などを読み始める。彼の家はもともと臨済宗南禅寺派で、父は般若心経もできる環境の中で育っているので、一定の宗教的センスは心得ていた。


 しかし、ここでも突破口が見出せない。むしろ、はじめから引きずっていた「部落問題」をめぐって堂々巡りを繰り返すのである。本当は、一方で部落問題そのものに関する根本的なとらえ直しが必要であったにもかかわらず、いっそうひきつった部落問題理解に引き込まれていく。


 「部落出身でない者であるかぎり、差別者の立場しかない。確かに自分は差別者でしかない、そのことだけを言えば、“現実”には部落と非部落とは、断絶しかない。(中略)“現実”はそれだけでしかない』という見方をすると、人間関係は崩壊するしかない。(中略)『部落』、『非部落』というような“現実”をとことん問いつめていくと、どこでお互いが“平等”といえるのかが、全くわからなくなってしまう。」(二九頁)


 カール・バルトの『ロマ書』やキェルケゴールの『死に至る病』、また親鸞に学びながらも、どうしても自らの「総括」、つまりこれまでの自分のありようを「解釈」するに留まらざるをえない。


 「運動のなかで社会矛盾を打破しようとしていた“自己”のその心情の底にある“むなしさ”“絶望”があり、その“絶望”のゆえに社会矛盾に対する激しい闘いの衝動となったのではなかろうか。その“むなしさ”“絶望”は一面社会的矛盾に根ざすと同時に、決してそのような社会的解決ということでは満たされぬ“何か”が心の底にあるのではないだろうか。その“むなしさ”を何とか埋めようとする衝動が、“運動”や“闘争”となったのではないのか。」(二九頁)


 確かに、この見方は一面では当たっている。しかし、このように見るだけでは、これまでの「運動」や「闘争」そのものについてのトータルな吟味は出てこない。彼に必要なことは「自己」なり「現実」なりの新しい把握と同時に「部落問題」そのものの新しい把握でなければならない。しかし、後者の吟味はストップしたまま、その関心事は「宗教の領域」へと大きく傾いていくことになる。


 そして笠原は、「社会的矛盾の打破」と「宗教の領域」をわけて、「宗教の領域」からすれば「社会的矛盾の打破」は相対的なもので、そこに比重をおきすぎればそれは「現実絶対化」で「偶像崇拝」になる、というような見解を述べるに至るのである(三〇頁)。


 この間、彼はバルトの『教会教義学』(「イスカリオテのユダ」)などにも没頭するが、窓は開かれず積極的なものにぶち当たらない。そんななか、一九七四年七月から一年間ドイツ・ハイデルペルグ大学に滞在していた滝沢のところへ、その時点での「総括」を書き記した長い手紙を三通送り届けている。


 それは「われわれの現実」をどう捕らえるべきかについてのものだった。滝沢はすぐ「“現実”はそれだけであって、しかもけっしてそれだけでない」という意味の返事を送り、そこで彼は、はじめて「アッと思った」という(三〇頁)。


 笠原が滝沢に送った三通の手紙の一部が本書に紹介されているが、ここにも、当時どうしても「部落問題」の暗渠から抜け出せない苦しさが切々と訴えられている。「先生が言う所の“現実”はそれだけであって、而も決してそれだけではない」という一点こそ、本気で、唯一考究せねばと思っています」と記しながら、つぎのように書き記すのである。


 「現実を信ずれば信ずる程、差別の現実を知れば知る程、胸がはりさけそうな苦悩にみまわれて来、絶望的に顔がひきつってくるに決まっているからです。部落民が、差別者を糾弾すればする程、糾弾する本人が、その最後には気絶してしまうという事が事実あっているとおりです。この自分の考え方は間違っているでしょうか。この現実はたしかにそうだが、しかし決してそれだけではない、という事は信じられない事です。(中略)それ程に、困難な問題ではありますが、しかし、自分に於て、ひどい事が起った、起ってしまった、という事、糾弾する方が苦しくなってたおれてしまう事があるという事実は、逆に何か“決してそれだけではない”という事を暗示しているのかも知れないと思っています。」(六〜七頁)


 彼は一九七三年春以来、長く苦しい「総括」の作業を根気よく継続した。また彼にとって、一九七〇年以来およそ五年間、ほとんど毎月公判への出廷を強いられている。それはまるで「真綿で首をしめつけるような弾圧」(九五頁)のなかでの「総括」の作業であった。それは「自己の思想的総括」というきわどいものであったが、彼の「総括文」は三回にわたって「九州大学新聞」に掲載されていくのである。


 最初は一九七五年二月に「文学部裁判被告側最終陳述」として、同四月に「『美は乱調にあり』や?」として、そして福岡を去らんとする翌年二月と三月に分割して「なぜ親鸞なのか」として公表された。


 彼はすでに、先の滝沢への手紙のなかで「修行のつもりで京都に行こうと考えている」ことを打ち明けている。そして「なぜ親鸞なのか」を書き上げ、一九七六年春に京都へ旅立つ前には、親鸞の学びはよほど深いところまですすんでいたように思われる。


 それは「なぜ親鸞なのか」のはじめに(今後親鸞一点にしぼって総括をやってゆきたい(七四頁)という決意を述べているところからも知ることができる。たとえば、この時点で記されたつぎのことばには、これまでにない新しい響きが感じられる。


 「『我々の現実』こそが穢土そのものであり、『そらごとたわごと』『世間虚仮』である。では、『我々の現実』以外には何もないのではないか、という我々の疑問に対し、いわば『如来の現実』とでもいうべきものがあり、これこそが真実である、と親鸞はいっていると思われる。そしてこの後者が恐らく『浄土』というのではなかろうか。この『我々の現実』と『如来の現実』とが、キルケゴールのいう『時と永遠との絶対的断絶』ということであり、その『絶対的断絶』にもかかわらず、ただ一つ唯一の接点、これこそが『南無阿弥陀仏』の『念仏』だというのではないのか。この一点を通してのみ『よしあし』の判断も含めて、人間生活の真実が生まれうるというのであろう。」(八四頁)


 ここに「思われる」とか「なかろうか」とか、「ではないのか」とか「のであろう」という断固たる表現とはほど遠い言い回しが気になるが、つづいて彼は「運動の総括」として五点にわたって「歎異抄」の思想を取り出している。そのなかの彼自身の言葉とみられる積極的なものを拾えば、つぎのようになる(八五〜九二頁)。


 一 部落差別を解放し、部落−非部落の連帯を形成していく思想がある。
 二 部落であろうとなかろうと、人間であるかぎり「いかんことはいかん」のだ。
 三 「今ここで」根源的に「如来の現実」が現在する。
 四 「如来の現実」に出遇った時に、決定的に「自由」になる。
 五 自己の能力や持ち物で誇るものは、それを自分以上に持っている者には卑屈になり、自分以下の者を軽視する。


 そしてこの「総括」の最後には、自分自身の未解決の課題として「憎悪が憎悪を呼」び、「やられた者がやった者をやり返し、そのことを互いに繰り返す」ことはどうしておこるのかを上げて、「自分は『神』や『如来』は全く知らない。しかし、カール・バルトが『イエス・キリスト』の一点といい、親鸞が『たゞ念仏のみぞまことにておはします』ということは、問うていかざるを得ない。なぜなら、『我々の現実』は『絶望』であるからだ。『我々の社会』にも『我々の未来』にも、どこにも生きる希望はない。」という言葉で結んでいる(九五頁)。


 こうして彼は、ひとり京都に旅立つのである。彼が親鸞一点にしぼって学はうとした場所はかつて(一九七一年一一月)滝沢が学院祭の記念講演に招かれたこともある「真宗大谷派専修学院」であった。(『滝沢克己著作年譜』によれば、一九七四年九月に難波別院の『現代と親鸞−その歩みと信仰』に「実存の人としての自立」を寄稿し、あの「「歎異抄」と現代』三一書房、一九七四年)はその年の三月には刊行されていることなどから推察しても、すでにこの頃には滝沢は「真宗大谷派専修学院」とは一定の関わりがあった所でもあった)。


 そして、聞くところによれば、笠原は京都へひとり旅立つおりに、大切な持ち物をダンボールにまとめて滝沢に預けたという。こうして彼は京都での勉学に没頭するのである。


 京都に移ってからも彼は滝沢に度々手紙を書いた。そして、最も大事な一点がつかめず「自分はこのことの前で立ち往生しています」「積極的にはどうも自分には理解できていません」と言いつつ真実を求めつづけた。


 一九七六年六月、彼の「得度の日」にはきれいに頭をまるめ、白い僧衣をまとって写した記念写真(本書の巻頭にこの写真が収められている)とともに、「ここがはっきりつかめたら、自分は無住の寺にでもどこにでも出て、ゼロから新しく活動を始めるのだという意味の便り」が届けられたりしたのである(八頁)。


 滝沢の言葉によれば、彼は「何よりも正直」で「解らぬことを解ったつもりになったり、解っているふうをしたりする、世の学者たちの意識的・無意識的な偽善ほど」彼から遠いものはなかったという(八頁)。そして滝沢は、彼が「その最後のもやもやを突破して、大きく羽ばたく日の一刻も早く訪れることを神かけてかれのために祈った」のである(同)。(「神かけて」は滝沢がその切実な思いを込めてときおり用いる。例えば『わが思索と闘争』(三一書房、一九七五年)に収められたあの感動的な「或る特別弁護人陳述」の最後の言葉を参照!(三〇一頁))。


   (次回に続く)