「滝沢克己と笠原初二ー笠原遺稿『なぜ親鸞なのか』を読む」(第1回)(1993年)


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  滝沢克己と笠原初二


   笠原遺稿集『なぜ親鸞なのか』を読む


              第1回


            1 本稿の意図


 滝沢克己は七四年の生涯のなかで、身近な友人や同僚、またカール・バルト西田幾多郎など師に先立たれた折々に、それぞれ思いを込めて追悼の言葉を書き残している。そのどれにも印象深いものがあるが、なかでも私にとって特別こころに刻まれているものがある。


 それは、滝沢のもとで学び、深く愛した笠原初二を悼む短い一文である。笠原は一九八〇年九月七日、京都市内の病院で惜しくも三四歳の若さでその生涯を閉じた。残念なことに、わたしは一度も会って話をすることができなかった。ちょうど彼が亡くなるころ、仕事の関係で偶然に彼の意欲作「親鸞における『業』の思想試論」「『歎異抄』における『業』及び『宿業』」のふたつの論文を読み、一度機会をつくって出合うべく彼の仕事場に電話をしたときは、すでに時は遅かったのである。


 そしてまもなく、わたし自身が思いがけない病で入院加療が必要になり、その病床で滝沢から受け取ったのが、両親のために書いたとされる「笠原初二君を悼む」と題された原稿のコピーであった。またその時、笠原の最後の作品となった「部落問題とともに」が載っている親鸞塾編『親鸞は生きている』(現代評論社、一九八〇年四月)も別便で送られてきた。それは、一九八〇年一二月四日のことである。


 笠原については、はじめて滝沢夫妻と大阪国際空港で、延原時行とともに面談できたとき(一九七六年四月一二日)以来、滝沢の口からたびたび話題にのせられ、その後「彼のことをよろしく」と幾度も手紙にも書いてこられた。


 笠原の場合、わたし同様に縁あって部落問題に関わっていたこともあり、わたし自身も彼の歩みには少なからぬ関心を持ち続けていた。わたしは勇気を出して一九七六年以来、拙い論文を折々滝沢に送りはじめていたが、笠原はそのころ福岡での長い学生生活にピリオドを打ち、新しく京都で学びを始めていたときで、滝沢はわたしの拙い論考を彼に見せたいとももらしておられた。


 彼の目に届いたかどうかわからないが、笠原からはただ一度だけ拙編著『私たちの結婚−部落差別を乗り越えて』(兵庫部落問題研究所刊、一九七六年)を送って欲しいという依頼うけたきりで、その感想も聞けないまま、結局直接彼を知る機会は持てなかったのである。


 ところで、『野の花空の鳥−滝沢克己先生の思い出』(創言社刊、一九八六年)など読めば、どのひとも異口同音に、親身になって相手になっていただいた滝沢を記憶に留めている。なかでも若くして逝った笠原初二に対する滝沢の気遣いはどこか特別なものが感じられなくもない。


 とりわけ、大切な晩年の仕事のなかで最後の仕事のひとつともなったこの笠原の遺稿集『なぜ親鸞なのか』の作品はそれをよく物語っている(本書は、すべての編集作業を終え、没後〔一九八四年一一月〕京都・法蔵館から刊行されたので、編者である滝沢は本書を目にしていない)。


 もちろん、滝沢にとって自分の作品以上に思いを込めて仕上げられたものは、いうまでもなく娘・比佐子の作品集であった。これは、たんに身内の作品というのでなく、彼女の生きた軌跡のなかに大事な何かが刻まれていることに対する、滝沢の積極的な刊行の意図が込められた作品である。


 周知のとおり、これは実質三部作となり、三一書房より刊行された。最初二冊『比佐子―その生と死』(上)(下)は一九八〇年に、最後の一冊『比佐子―生きること考えること』は「一九八四年復活祭」と記された滝沢の「はしがき」が添えられ、とし子夫人の「あとがき」が収められて同年一〇月、笠原の遺稿集と同じく滝沢の没後に刊行されたものである。くしくも、滝沢比佐子も笠原初二も、ともに享年三四歳の若さであった。


 滝沢は、なぜ笠原の作品をこのとき、彼の没後四年も経てから編集刊行を意図したのであろうか。いまその詳しい経緯は分からない。『比佐子』の場合は、内容的に積極的なものがあって、結果的にも膨大なかたちになったのであるが、笠原の場合、いくらかその趣が違っていたように思われる。それは滝沢が本書の「あとがき」に記すつぎの言葉のなかに、十分言い尽くしていると見るべきであろうか。


 「これらはまた、本当に人を生かすものが何であり、どこにどのように在るかを、直接かつ明確に示すこともないかもしれない。しかし、道なき世に、真実の、本来自然の道を尋ねて必死に生きた彼の足跡は、よしいかに貧しくとも、世間ではいまもなおほとんど無視されている一つの大事を、私たちすべて各自に、痛切に示唆してやまないであろう。もしも誰かがこの貴重な示唆を受け、深く蔽われたその一つの道を己が脚下に見いだすまで、彼の屍を超えて進むなら、その喜びはひとり笠原初二とその遺族のみのものにはとどまらぬであろう。彼の死後四年を経た今、敢えて本書を世に送る所以である。」(二一八〜二一九頁)。


 滝沢の関心は専らこの「一つの大事」「一つの道」を見出すことに注がれた。そこが見出せたら、笠原の歩む世界もまた違ったものになるはずだ、という思いがあったのであろう。わたしの場合、そうした滝沢の基本的な視点とともに、他方に、彼自身が関わり始めた部落問題そのものに対する関わり方が、どのような深まりと前進を示していくのかが、独自にたどられるべき関心事であった。


 彼は大学生活のただなかで部落問題と出合い、三四歳の短い生涯の最後までその関わりはつづいたのであるが、彼のこの歩みのなかで、滝沢がいう「一つの道」の発見と、この問題に関わるその関わり方とは、その基点を介して相互に影響しており、その両面を彼の「青春の軌跡」をたどりながらたどって見たいというのが、本稿の意図である。


 ただ、笠原の残したものは、いまのところ滝沢が編んだ上記の作品のほかに見当たらない。いくらか関係のところに問い合わせてみたが、ふたりの間に交わされた「手紙」なども含めて新しいものは人手できなかった。したがって、この遺稿集のみが手掛かりである。その点、煩雑を避けるために引用箇所などいちいち上げない場合があるが、断りのないかぎり引用部分も頁を付す場合も、この遺稿集からのものである。


   (次回に続く)