「賀川豊彦の『協同・友愛』『まちづくり』ー創立期の水平社と戦後の公営住宅の建設」(第3回)(1992年)


「須磨アルプス」(同時進行のブログ http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ )




 賀川豊彦の「協同・友愛」「まちづくり


     創立期の水平社運動と戦前の公営住宅建設


             第三回


           2 「まちづくり」の夢


 このような「協同・友愛」の精神は、賀川の活動の初めに息づいていたものである。そしてそれは、彼にとって第一に彼自身の生き方を裏側から促すものであったし、そこから志向されたものが「協同・友愛」の新しいかたちであったのである。


 したがって賀川にとって「貧民窟」といわれたそこが彼自身の生活の場であり、共に生きる地域社会であったのである。それは決して今日的意昧での「まちづくり」といったものではないが、彼はこの生活の場で力を尽くして、大事な青壮年期を生き、次々と意欲的な試みを開始していくのである。そしてその後の彼の七二歳の生涯は、常にこの「葺合新川」での生活と経験が発条となって、問題解決のためにその情熱を注ぐことになるのである。


        1 賀川の「葺合新川」での試み


 賀川が生活を始めた一九〇九(明治四一)年頃の神戸「葺合新川」はどのような状態であったのかについてはここでは立ち入れないが、すでに布川弘氏の研究で、この地域は一八九二(明治一五)年にはここの俗称「百軒長屋」が「木賃宿営業区域」に、さらに一八九九(明治三二)年には「二百軒長屋」と膨れ上り木賃宿の「集中移転区域」に、それぞれ政策的に指定され、劣悪な「貧民の巣窟」が形成されたことが知られている。(注1)


 こうした場所で生活を始めて最初に試みたことは、「無料宿泊所」「病者保護」「医療施療」「無料葬式執行」「生活費支持」「児童愛護」「家庭感化避暑」「避暑慰安旅行」「職業紹介」「裁縫夜学校」「一膳天国屋」「クリスマス響宴と慰安会」などのいわば慈善救済活動であった。彼にとってこの最初の数年間は、最も重要な、その意味では最も注目すべき隠れた「経験」の期間であったと思われる。


 一九一四(大正二)年からの三年近い米国留学より帰国した後、その活動の形態も発展して「夜学校」「診療活動」「歯ブラシ自治工場」といった自前の自主的なとりくみのほか、地域活動の関連だけ見ても、兵庫県救済協会の嘱託も引き受けて、「新川地域」の水不足を訴えて数か所に洗い場を設置するとか、職業紹介所として「生田川口入所」の開所に努めるなど、新しい協力者を得て幅広いものになっていく。


 もちろん、「新川地域」には賀川らの活動のほかにも、明治の末にはすでに「生田川衛生組合」(明治三四年)、「私立夜学校」(明治三七年)、「私立善隣幼稚㈲」(明治四〇年に当地移転)、「神戸矯修会」(明治四一年)などがそれぞれ独自な活動をすすめていた。そして、一九一七(大正六)年には済生会兵庫県病院臨時診療所が開設され、一九二二(大正一一)年には吾妻尋常小学校が、翌年には神戸市で最初の市立保育所がこの地域に開設されている。


 賀川は『貧民心理之研究』などで明らかなように、具体的な活動をすすめる一方で地域の生活実態を冷静に把握することに努力した。その影響でもあろうか「新川地域」の実態についてはその後も、他地区に比較して多くの調査が実施されて来ている。


 賀川は当初より都市における住宅問題に注目していたが、一九一八(大正七)年五月の『救済研究』で「日本貧民階級の住宅問題」を発表し、これを受けて七月には日本建築学会に招かれて「貧民窟の破壊」と題する講演を試みている。そしてその翌年五月には『救済研究』で「神戸市の住宅問題」を掲載している。


 また、一九二〇(大正九)年一〇月に『死線を越えて』が出版される五か月前、賀川ハルの名著『貧民窟物語』が「社会問題叢書」のひとつとして福永書店から刊行されているが、そのなかで賀川ハルは、次のようなことを記している。


 「貧民窟に対して従来は単に金銭物品の施与を以て貧を救はんと致しました。勿論眼前の貧困はその慈善に待つでありませうが、これが根本の防貧策としては、住宅が改良され、彼等に教育なるものが普及され、飲酒を止めて風儀を改め、趣味の向上を計るなどこれら、貧民窟改良事業を、労働運動に合せて行ふ時に、今日の一大細民部落の神戸から跡を絶つに至ると信じます。私は神戸市民の覚醒により、貧民窟が改良される具体的の改造を、切に願ってやまない次第であります。」


 賀川ハルは賀川の陰に隠れて表面に出ることは少ないのであるが、彼女は賀川と結ばれる以前から彼とともに地域での救済活動にとりくみ、同時に社会運動にも積極的に参加している。一九二一(大正一〇)年三月には「無産婦人の解放」をかかけて長谷川初音らとともに「覚醒婦人協会」を結成して月刊『覚醒婦人』を刊行し、ゴム女工の争議支援や婦人労働組合の組織化にも乗り出したりするのである。


            2 公営住宅の建設


 ところで、こうした歴史を刻みながら、賀川らの念願が国策として議論の場に登場し始めるのは、一九二四(大正一三)年になってからのことである。政府は四月に「帝国経済会議」という諮問機関を設置して、その委員に賀川を委嘱する。そしてその中の社会部会特別委員会の五月二四日の会合で、賀川は「住宅供給策私案」を準備して、次のような「理由」を朗読しているのである。


 「住宅供給ノ方策ニ三ツノ方法ガアル。第一ハ公営主義。第二組合主義。第三会社主義ノ三デアル。其中無産階級ノ住宅供給ノ為メニハ公営主義ガ最モ適当デアル」「無産階級ノ住宅ハ社会政策ノ下二建築セラレナケレバ資本ト利潤ノ関係上経営ハ困難デアリ社会政策ノ下二直二実行ヲ必要トスルモノデアルカラデアル」。


 賀川はまた「公営主義」にすすむための方法や「大都市不良住宅改善」などに言及している。彼はそのとき、椎名龍徳の『生きる悲哀』、村島帰之の『ドン底生活』のほか自分の作品『貧民心理之研究』『精神運動と社会運動』『人間苦と人間建築』『死線を越えて』等を抜粋してパンフレットをつくるなど意欲的な活躍をしている。これは一九二七(昭和二)年一月に社会局社会部から『不良住宅地区居住状況の一斑』として印刷に付されるのである。


 こうして賀川の原案はいくらか修正され、帝国経済会議において「不良住宅地区改良法案」が採択され、ついに同年三月には法律一四号として制定され、七月に施行されていく。神戸市はこれを受けて急濾、その第一の事業として「葺合新川」の改良計画に着手し、法に基づく「地区指定」の申請を翌年一月に内務大臣あて提出する。しかしこれが認められるのが一九三〇年(昭和五)年で、翌年五月ようやく事業認可となり七月から事業着手した。


 この事業に開運する神戸市の行政資料の一部は現在でも残されているが、一九三二(昭和七)年五月一九日付けの『神戸又新日報』には「やがて神戸第一の文化住宅街! 新川スラムの改良事業 希望輝く大工事」とか、完成予想図を入れて「改善事業が完成して面目を一新した暁の新川スラム、賀川豊彦氏によって世間に紹介せられた有名な新川不良住宅地域は、斯くも堂々たるアパート街となるのだ」と大きく報じ、翌年六月、近代的な「アパートメント・ハウス」の一部が完成するのである。その後一九三五(昭和一〇)年までに、鉄筋住宅三二三戸と木造住宅六〇戸の建設がすすむ。しかし、折からの戦時体制の強化によって、残念ながら当初計画の約半分が達成されたに留まらざるを得なかった。


 賀川は一九三二(昭和七)年三月の『雲の柱』において、深い感慨をこめて次のように記している。


 「こんどいよいよ神戸の貧民窟も二百三十万円の資本金で、立派なセメントコンクリートの労働者アパートに建てかはることになった。これは前の若槻内閣の時に通過した六大都市不良住宅改良資金が廻ってきたのである。この議案を議会に通過さすとき『死線を越えて』の一部が参考資料として議会内に配布せられたのであった。それで『死線を越えて』がその貧民窟を改造する糸口になったことを神に感謝しないわけにいかない。『死線を越えて』を発表してから今年で満一三年目である。そしてその「死線を越えて」によって、貧民窟がうちこわされるのを見て私はうれしくてたまらなかった。そのまたセツルメントの主任に私が貧民窟で最初教へた夜学校の学生である武内勝氏が主任として、就任せられるやうになったことは、殆ど奇跡的にも考えられる。」

 こうした活動は「部落改善事業」もしくは「社会改良事業」のひとつとして見られて、戦前の水平運動の固有の課題とはならなかった。戦争をはさんで、戦後はこの共同住宅は劣悪なスラムとなり長期間放置されるのである。そして再びこれが解体撤去されて全面的に環境整備が一応完成するのは、この二〇数年間にわたる「同和対策事業」を通してのことである。こうして現在、一般対策として古い改良住宅の住戸改善がすすみ、さらに「新しいまちづくり」への挑戦が始まっているところである。
 

 以上、賀川の目指した「協同・友愛」「まちづくり」を、創立期の水平社運動と戦前の公営住宅の建設との関連で、その歩みの概略を振り返って見た。水平社運動が「協同・友愛」の精神に裏付けられて「消費組合」の活動も併存できるような形態が追求されていたら、戦前の水平社運動もまた違った歴史を刻んだかもしれない。


 しかし、水平社運動がその後七〇年の歩みを経て、「人権と福祉のまちづくり」の課題が共通のものになりつつある現在、賀川が生涯を通して大切にしてきた「協同・友愛」の社会と「まちづくり」への願いは、静かな激励の声として、われわれに響いて来るように思われる。


 もちろん賀川の活動分野は「社会福祉事業」「労働運動」「教育運動」「宗教活動」「平和運動」「文筆活動」等々多分野に及び、それらの研究もいよいよこれからである。彼の膨大な著作と参考文献を集大成した書誌『賀川豊彦』もようやく最近完成して研究分野の下準備が整いつつある。今の時代がそうさせているところもあるが、「賀川豊彦」は再び新しく学び直してみるべき人物のひとりであるようである。


                  

(1) 布川弘「資本主義確立期の都市下層社会と部落−神戸「新川」を中心に」(『部落問題研究』第九五輯、一九八八年九月)、同「神戸『新川』の生活構造に関するノート」(部落問題研究所編『近代日本の社会史的分析―天皇制下の部落問題』所収、一九八九年、二四八頁以下)など参照。

                        (一九九二年一一月)