「賀川豊彦の『協同・友愛』『まちづくり』ー創立期の水平社と戦後の公営住宅建設」(第2回)(1992年)


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賀川豊彦の「協同・友愛」「まちづくり


     創立期の水平社運動と戦前の公営住宅建設


             第二回



1 「協同・友愛」−−水平社運動の創立期


さて先ずはじめに、賀川の目指した「友愛・協同」を基調とする社会運動、とりわけその消費組合運動と西光万古や阪本清一郎らの「燕会」との関わりについて、その概要を見ておかなければならない。(特にこの項は、先の鈴木氏の詳しい研究への一知半解に過ぎないが、随所に私の勝手な理解も混在しているので、一々その典拠を示さない。ここでは大まかな歴史的関連をつかむことに主眼が置かれる。)


1 西光・阪本らと賀川との出合い


 奈良県柏原北方地域(当時戸数約二〇〇戸、人口一一〇〇入余)に、後に全国水平社創立の母体ともなった「燕会」がつくられたのは一九二〇(大正九)年五月である。最初この会は、一四、五人の団体旅行を行なう程度の自主的団体であった。それが徐々に六〇人程度に増えてきた頃、賀川がそれまで島崎藤村の意向も受けて秘かに筐底に留めていた小説『死線を越えて』の一部が、『ドン底生活』で名声を馳せていた「大阪毎日新聞」の記者で早くからの賀川の理解者であった村島帰之の紹介によって、雑誌『改造』の一九二〇(大正九)年一月号から五月号まで掲載された。この小説が改造社から単行本として刊行され爆発的な読まれ方をするのは同年一〇月以降であるが、「燕会」の同人たちの目に入ったのは雑誌『改造』の小説であったろうと言われる。


 もちろん西光らはすでに、賀川という青年が神戸「葺合新川」で活動を始めていることは、二冊の大著『貧民心理之研究』『精神運動と社会運動』がいずれも警醒社書店から出されて話題をよび、『救済研究』や『労働者新聞』さらには『改造』などでも刺激的な論稿を発表していたから、賀川についての一定の関心はあったであろう。


ともあれ、この雑誌『改造』の『死線を越えて』を読んだ同人たちは「世間には売名的なくわせものが多いから、偽善者かどうか確かめ」その上でいろいろ意見を聞こうということで、西光、阪本、駒井喜作、池田吉作の四名が神戸「葺合新川」の賀川宅を初めて訪れるのである。


そこで彼らは「賀川の眼は、トラホームでただれていて、この人は本物だ」と感じたのだという。そして彼らは賀川の案内で「新川」地域を視察し、賀川から新しく消費組合の活動など彼のめざす志のあれこれを直接聞き及ぶのである。


 そのときすでに賀川らは、一九一九(大正八)年八月には大阪東区で「購買組合共益社」を組織し、翌年一月に認可を受けて消費組合の事業活動を開始していたし、現在の「灘神戸生協」の前身のひとつである「神戸購買組合」の発足を間近にした時でもあったから、賀川の説く「消費組合」にたいする情熱的な主張は、「燕会」の同人たちにとって違和感のあるものではなく、むしろ大いに共感のできる直に響き合うものがあった。


 こうして西光や阪本ら同人たちは、「燕会」の「会則」「会の試み」「低利金融の規約」「決議」などを定め、活発な活動を自分たちの地域で展開していくことになるのである。「燕会」は「相互扶助を以てその存在理由」とし「会長及主事及当番」を置き、「会の試み」として「低利金融」「消費組合」「団体旅行」「夜話及講演」「家の組合」などを上げている。ここには彼らが賀川から学んだいくつかのアイデアの跡が残されているのではないかと指摘されている。そして実際に「燕会」では、九月から資金融資が始められ同人相互で低利の金融を行なうようになる。さらに一〇月からは消費組合部の「共同購入」も開始されるのである。


 賀川らが始めた大阪の共益社や神戸購買組合は決して順調な展開を見せなかったが、「燕会」の場合はその初めから好調な運営が行なわれ、消費組合の事業水準としてはかなり高いもので、そこでは店舗の置き方や帳簿の付け方なども学習され、きわめて先進的なものであったことが知られている。そのことは、木村京太郎氏からわたしも直接うかがったことがある。(注1)


            2 水平社創立への準備


 こうして、一方で賀川の方は、消費組貪づくりのほかに労働運勤や普選運動に乗り出し、先に記したように『死線を越えて』の刊行を契機にまさに「時の人」になっていく。そして翌一九二一(大正一〇)年の夏、あの有名な「川崎・三菱大争議」に参画するなど激動の日々を送ることになるのである。


 他方「燕会」の方も、消費組合運動を発展させていくと同時に、社会問題に目を向け「部落問題研究部」をつくるなどして学習を重ね、国内の「社会主義者」たちの刺激や国際的な民族独立運動などにも影響を受けながら、同年七月には雑誌『解放』の佐野学の論文「特殊部落民解放論」に出合うのである。そして一〇月以降急速に全国水平社の創立へと機が熟していく。


 この年の後半期は、各地で小作争議や職人たちの立ち上がりが見られ、賀川は杉山元治郎らとともに日本農民組合の結成準備も徐々にすすんで、一九二二(大正一一)年一月には機関誌『土地と自由』を出し始める。そんな中で、同年一月一三日付けの『大阪朝日新聞』で「一万人の受難者が集まって/京都で「水平社」を組織/総裁は賀川豊彦氏の呼声が高い/先づ社会に向って差別撤廃の宣戦を布告する」という見出しで、次のような記事が報道される。


 「今春一一月中旬京都市で開催される全国部落民大会は夕刊記載の通りであるが、楽只青年団を始め、田中、崇仁其他京都府下各団体を始め、和歌山、滋賀、奈良県下から約一万人の少壮者が会合する筈で、当日結党される「水平社」の総裁には賀川豊彦氏推薦説が最も優勢である。そして社会に向って差別撤廃の宣戦布告をすると云えば不穏のやうだが、内容は頗る穏健なもので、正義人道に訴へて舌戦を闘はすと云ふのであるが、是等の目覚めた人達が来るだけ腹の底からの叫びが出て熱が高く、既に奈良、和歌山方面から六百、滋賀県から一千名は確実に出席の報告が達した。京都府下からは全部参会する意気込みで、奈良から河内方面へは目下自動車で宣伝されてゐる由。京都の宣伝文、大会趣意書は一旦印刷されたが、当局の注意があったのでやり直した。」


 よく知られるように賀川は、水平社運動を開始しようと活動を始めた西光らと幾たびか語りあったようで、後に小説のなかで次のようなことを書き残している。


 「この四人(西光、阪本、駒井、池田)が、大和の水平運動を絶叫して立ち、新見(賀川のこと)の考えているような協同組合精神はまどろっこしいとして、圧迫者に対する憎悪の福音を説き始めた。……新見はこの人たちに真の解放は、愛と奉仕の外にないといふことを繰り返して説いたけれども聞き入れてくれなかった。」(『賀川豊彦全集』第一九巻所収『石の枕を立てて』、三三五頁)


 賀川の場合、水千社連動に限らず労働運動も農民運動も、常に非暴力を貫いて要求を実現しようとする立場をくずそうとしなかったことから、やむなく戦闘化していく過激な潮流と戦術的にも対立していくことがしばしばであった。「協同・友愛」をこそ社会運動の基底に息づかせることを求める賀川には、初発の「水平社運動」の熱気は余りに過熱に過ぎたのであろう。しかし、まだ賀川と西光らとの関係は切れてしまったわけではない。


 そしていよいよ同年二月二一日には、大阪中之島公会堂での大日本平等会による同胞差別撤廃大会が開かれ、西光らはこの大会を逆手に取って水平社創立を知らせる宣伝の場にし、呼び掛けのビラを撒き、演壇に立って熱弁をふるい、大成功をおさめて三月三日の京都岡崎公会堂での創立大会へとすすむのである。


           3 水平社創立の後


 「燕会」同人らの呼び掛けで創立された全国水平社の運動は、それこそ各地に燎原の大のごとく波及して行ったのであるが、彼らがこれまで大事にとりくんできた地域における「燕会」の活動、なかでもそれまで順調な運営が行なわれてきた「消費組合」は、事実上継続が困難になり、水平社が創立されて半年後の一九二二(大正一O)年九月まで続けたものの、遂に途絶えるに至るのである。


 あらためて言うまでもなく、全国水平社の基本的な精神は、その「宣言」や「よき日の為めに」などで知られるように、自ら「人間を尊敬し」ともに人間性を発揮しようとする志に裏打ちされていた。


 したがってそれは、賀川がめざした「協同組合」的な社会、つまり「全く営利の支配せざる相互扶助の社会」(共益社の創立宣言)を自ら作り出す運動とは本来矛盾するものではなかった。賀川にして見れば、協同組合的な運動を基本にして新しい社会を自らつくりだして行くことこそが問題解決への近道だと考えていた。しかし、実際の水平社運動の流れは、賀川の危惧したような見境のない「徹底的糾弾」の運動か展開されて行ったのである。


 もちろん西光や阪本たちは、差別に対する単なる怒りを爆発するだけの運動に陥ることの危うさについては、その出発のときから気付いていたはずである。賀川も彼ら水平社連動の担い手たちを「同志」として尊敬し、その危うさを乗り越えるための支援を惜しまなかった。


 それは、一九二〇(大正九)年から賀川と直接的な交流を持ちともに農民運動にとりくんで一九二二(大正一二)年四月九日に神戸で創立された日本農民組合の初代組合長に推された杉山元治郎のつぎのような証言(鈴木氏の指摘によれば、この証言は杉山の記憶違いであって、おそらくこれは一九二二(大正一一)年末で、奈良県水平社が農民組合と提携しようとして賀川を神戸に訪ねた時のことではないかと言われる。)や賀川自身の証言(注2)で知ることができる。


 「日本農民組合創立の打ち合わせを神戸新川の賀川宅でしていたころ、全国水平社創立の相談を同じく賀川宅でしていた。その人々は奈良県からきた西光万古、阪本清一郎、米田富の諸氏であった。このようなわけで二つの準備会のものが一、二回賀川宅で顔をあわせたことがある。」(注3)


 杉山はまた、部落は「社会的に非常な圧迫をうけているとともに、経済的には、とくに農村では最も貧乏な小作人であったから、身分解放のための水平運動を起こすと同時に、経済運動としての農民運動にも利害相通ずるので、これら水平運動の先覚者は直ちに農民運動にも加担してくれる」ことになり、「奈良県で農民組合運動の最初の火蓋を切ってくれたのは西光万古」であり、その演説会を西光寺で開催した、と述べている。(注4)


 確かに一九二二(大正一一)年一二月一九日に奈良県水平社主催による講演会が西光寺で開かれ、杉山のほか行政長蔵、仁科雄一、安藤国松ら農民組合本部員が、満員の盛況の中で講演を行なっている。そして翌日、柏原の小作人二〇〇余人で日農支部を結成したという。さらにその次の日(二一日)には、賀川は佐野学らとともに招かれて、御所町寿座で水平社主催の講演会が聞かれている。(注5)


 鈴木氏によれば、水平社と農民組合のこうした連携の動きは、単なる徹底的糾弾闘争から運動を超克させようとする西光らの着眼であって、このことをよく表現しているのが、西光、阪本、駒井の三人がこのとき印刷・配布した、次のような注目すべきビラであるという。(注6)


 「『人間は尊敬すべきものだ』と云ってゐる吾々は決して自らそれを冒涜してはならない。自ら全ての人間を尊敬しないで水平運動は無意義である(中略)。諸君は他人を不合理に差別してはならぬ。軽蔑し侮辱してはならぬ。我等はすべて人間がすべての人間を尊敬する『よき日』を迎へる為めにこそ徹底的糾弾をし、血を流し泥にまみれることを辞せぬのである。けれどもこと更に団結の力をたのんで軽挙妄動する弥次馬的行為には我等は断じてくみするものではない。」


 西光は特に賀川に傾倒した時があったようで、共益社から発売された「賀川服」を着て賀川の身振りを真似て演説をしていたとも伝えられている。


                 


(1) 拙著『賀川ら彦と現代に刊行の後、木村京太郎氏のお申し出で氏の賀川への熟い思いを聴く機会を得た。それは急逝の。’一週間前であったが、その貴重な証言の一部は兵庫部落問題研究所『月刊部落問題』 一丸八八年九月号に「賀川豊彦のことなどI木村京太郎さんに聴く」として収めさせていただいた。


(2) 『雲の柱』人正二。年三月号で賀川は次のように述べている。「私は一月は水平社の特殊部落解放講演会や小作人の農民組合の運動の為めに大和の田舎や播州の山舎に出かけました。雪の中を貧しい部落に出入すると、私は何となしに悲しくなりました。あまりに虐げられてゐる部落の人々の為めに、私は涙が自ら出てそれ等の方々が、過激になるのはあまりに当然過ぎる程当然だと思ひました。(中略)水平社の中には清原さん、駒井さんや、阪本さんなど古くから私の知っている方があります。」


(3)(4) 杉山元治郎伝刊行会刊『土地と自由のためにI杉山元治郎伝』二九六五年、二〇五−ニーO自ハ)参照。


(5) 前掲注(8)での本村氏の証言の中でも生き生きと語られていた。


(6) 鈴木良「賀川豊彦と水平運動−鳥飼慶陽『賀川豊彦と現代』によせて」(『月刊部落問題』 一九八八年九月号、二九頁)。