「「全同教の『実践中心主義』について」(1977年2月、『部落問題』)


宮崎潤二さんの作品「北京故宮



  全同教(全国同和教育研究協議会)の
  「実践中心主義」について


         『部落問題』1977年2月


 先に、「「差別の現実から深く学ぶ」とはどういうことか」(本誌9号所収)、「全同教の「運動とは切れぬ」という「原則」について」(同10号所収)、それぞれ今日の同和教育をめぐる検討課題につき、いくらか理論的な吟味を加えた。つづいてこの小論では、いわゆる「実践中心主義」についての批判的検討をおこなっておきたいとおもう。


 ここで検討の素材となるのは、昨年末(1976年)、神戸で開催された「第28回全同教大会」で定着したといわれる「実践中心主義」なる「理論」である。まず、その紹介的記事の関連個所の引用から始めよう。


 《「実大会は。こ践(Tヨ)は力であり、事実こそが説得力を持つ」(中略)の基本方針を確認、「実践中心主義」を定着させた。》
 《分科会の討議はすべて「実践中心」で自分の具体的実践例を持たないと発言しにくい、という息づまるほど充実したものであった。》
 《知識だけで論議しようとする「言葉主義」「抽象的論議」は、ほとんどの分科会から一応消えた。≫
 ≪「実践中心」主義が同和教育運動の主流にすえられ、実践の輪が広がることは同和教育運動の質を、さらに高めることになるであろう。≫
       (以上、「朝日新聞」12月9日朝刊、田村正男著名人」
 《大会の特色は、抽象的、建前的な”言葉主義”でなく”実践主義”への取り組みを定着させ、(中略)全同教の歴史に新たなワンステップを踏み出した。》(「神戸新聞」12月11日朝刊)


 全同教の最も重要な「基調」のひとつであるこの「実践中心主義」の検討素材に、紹介記事などで間に合わすとは何事か、これでは「基調」を大きくゆがめることになるのではないか、とお叱りを受けるかも知れない。


 しかし、残念ながら両者のあいだにそれほど大きな違いを認めることができないばかりか、逆にむしろこれらの記事は、全同教大会の主催者の意向を、あたかもそのスポークスマンであるかのごとく、忠実にしかも要約的に紹介している点で、この上なく貴重な素材とおもえるのである。


 また、このような記事の問題性を闡明にすることによって、両者を同時にただすことができるのではなかろうか。尚、全同教で定着されたというもうひとつの点、つまり「運動との結合」を固定化させ、全同教の分裂を一層促進させる方向が打ちだされた点については、前号で触れたのでここでは割愛せざるを得ない。


 ところで、近年ものごとを理論的に見きわめるということが、とみに停滞しているといわれる。「研究」と名のつく集会でさえ、理論的な議論は不人気である。そして、少しむづかしい議論ともなれば、「観念論」であるとか「抽象論」であるとか、一見もっともらしい批判によって、理論的探求が途中で回避されることが少なくない。


 けれども、私たちが理論的探求をおこなう場合、抽象的論理をおそれては、とうてい厳密を期す成果は得られようはないのである。問題はただ、抽象的であることが悪いのではなく、内容のない空理空論が駄目なのである。


 全同教の批判する「言葉主義」とは、一面ではこの空理空論を指しているごとくであるけれども、他面では積極的な理論的探求の課題をも「言葉主義」のレッテルで十把一からげに排するという誤りが犯されているところに問題があるのである。


 何が「言葉主義」で、何かそうでないかは、あくまで理論的探求の課題として独自に見ざわめなければならない。このことが正しく了解されているとき、必らず本格的な生産的論争も可能となるのであり、相互批判も深められていくのである。


 この点、全同教の「言葉主義」批判は、正しい意味での理論的探求という大切な宝物までドブに投げ捨てるという、とんでもない聞違いを犯しているのである。それは、単なる論争回避にすぎないのであって、姑息な政治主義的党派的レベルの事を、一歩も超えることがでさないのである。


 その結果、全同教の理論的な空洞は、あの既存の「解放理論」―「解同」のいわゆる「三つの命題」―で穴埋めされ、その「理論」への批判的吟味は、はじめから自己規制されることになるわけである。そして、「運動との結合」という全同教の「原則」も、理論的探求を回避させ停滞させることに、一層拍車をかけているのも事実であろう。


 しかしそれにしても、「言葉主義」から「実践中心主義」へという、一見正論そうに思える擬似理論が、全同教の「理論」として、何の疑問も付されずに流通してしまうところに、今日の理論状況の問題性があるのである。


 理論的探求を回避したその分だけ、実践(主義)に過熱することは、ある意味では必然的であると言うべさであろう。もちろん、実践の大切さを強調することが悪いのではない。「実践中心主義」が駄目なのである。


 全同教の「実践中心主義」という考え方は、理論的探求の虚偽形態である「言葉主義」に対応する概念であって、実践の単なる虚偽形態にすぎないことは、これ以上の説明を要しないであろう。


 私たちは「実践中心主義」という用語を使用する場合、批判的・否定的な意味で使用すべさであって、全同教で用いられるよに、あたかもこれが積極的・肯定的な意味があるかのように使用されてはならないのである。


 もともと、「言葉主義」でいくべきか、それとも「実践中心主義」でいくべきか、などという見当違いな問題の立て方自体を、根本的にあらためることこそ重要である、というべさであろう。


 私たちは、今日の全同教でなされているような、理論と実践の「虚偽形態」のレベルにおける非生産的対立に、屋上屋を架すことに、貴重な生命を消耗すべきではないからである。この根なし草的理論に足をすくわれることのないように、正しい理論と実践の基礎的理解を闡明するためにつとめることこそ肝要ではないであろうか。


              二


 つぎに、先に引用した《分科会の討議はすべて「実践中心」で自分の具体的実践例を持だないと発言しにくいという息づまるほど充実したものであった。≫という点に触れておかねばならない。


 このたびの大会が、殊にその分科会が、充実していたのかそうでなかったのかは、知る人ぞ知るというべさであろう。討議が最初から「実践中心主義」で制約されているなかで、どうして自由な討論が期待されようか。


 しかも、分科会での「実践報告」も、まさに「自分の具体的実践」のなまの報告がつづけられる。
 本来、私たちの実践の発表とは、個々の具体的な実践の厳しい批判的・反省的総括のことであり、実践の積極面と消極面を吟味の上、ひとつの試論を参会者に提起することにある、とでも言えようか。


 ところが、「実践中心主義」にもとづく「実践報告」は、単なる「私的体験発表会」といった印象をのみ與え、研究集会とは似つかぬ事態を生じているのである。このまま歯止めなしに進められるなら、全同教は自然につぶれてしまうのではないか、と真面目に心配する声が聞かれるほどである。


 私たちは、実践を大切にする。そして、これを大切にすればするほど、「自分の具体的実践」は極力隠されていたらいいと考え、安易なかたちで言葉にすることに適正なチエックをする、というのが自然な傾さである。


 事実は、そううまくはいかないにしても、少なくとも「実践」を「ショー」 (見世物)にしてはならないという基本感覚は、大切にしなければならないところである。


 しかしながら、最近の全同教には、こうした初歩的な感覚すら麻庫しつつあるのではないかと危惧せざるを得ないのである。そして、この「実践中心主義」が、それに一層油をそそいでいるのも確実であろう。


 ここにはまた、「自分の具体的実践例を持たないと発言しにくい」ということ
が、あたかも「会の充実」の証明のごとく述べられているけれども、事実はまったく逆である。


 「実践中心主義」に対する批判者への口封じはできても、内容的な空洞はいか
んともしがたくなるばかりである。


 また、同じく先の引用で、《実践の輪が広がることは同和教育運動の質を、さらに高めることになるであろう》という指摘について一言しておかねばならない。


 実際、このような「実践中心主義」という運動の質が、どれほど量的に拡大されてみても、それは倒錯した「理論」と「実践」の輪が、あちこちに蔓延するだけのことであることは、火を見るより明らかだと言うべさであろう。


 また「運動の質」の高さは、けっして数量的拡大と単純に正比例するのでないことも、あえて指摘しておかねばならない。


 もちろん、ここで一口に「運動の質」というけれども、これまた運動の「理論的質」と「実践的質」とは混同されてはならないのである。


 以上、ごく大雑把な検討であるけれども、「実践中心主義」というものが、いかに理論的に擬似理論―悪しきイデオロギーにすぎないか、さらには、この擬似理論に乗っかってモノを言い、その輪を広げることに何の疑問も覚えない今日のマスコミの問題性か、いくらか明らかになし得たであろうか。


 あらためて指摘するまでもなく、私たちの中心的課題は、単にこのような擬似理論に青すじを立てて反発することにあるのではない。むしろ、私たちは、理論的・実践的いとなみの基礎的な理解を、明瞭かつ分明に見きわめることこそ、最も重要かつ緊急の課題であると言うべさであろう。


 なぜなら、これらの擬似理論は、理論と実践、思惟と行動に関する基礎的省察を欠くことから派生する必然的現象であるからである。


 この積極的理解から、必然的・結果的に擬似理論が解明され、止揚・超克されていく、というのが、私たちの見方である。


 それにしては、本稿は少しく青すじを立てたきらいなきにしもあらずであるが、言わんとするところをご理解の上、厳しいご批評をいただければ幸いである。
                         (研究所常務理事)