書評:東上高志著『社会同和教育の考え方・進め方』(1975年6月、『所報・部落問題』)


宮崎潤二さんの作品。小説作品の挿絵。



 書評:東上高志著『社会同和教育の考え方・進め方


   『所報・部落問題』1975年10月号



            一


 此の度、東上高志氏の新著『社会同和教育の考え方・進め方』が京都の部落問題研究所 から刊行された。同氏編著の旧書『社会教育の手引』(一九六三年、汐文社刊)は社会教育における同和教育の理論と方法を探ねた最初の、しかも唯一の入門書であったが、これは早くから絶版である。


 旧著以後十二年、部落問題に関わる運動・行政・教育等々各領域において急速な前進をみているのであるが、これまで大きく立ち遅れていた『社会同和教育』も漸く重い腰をあげて取組みが始められているところである。


 しかしながら、この領域における基本的な「考え方・進め方」が明晰判明でないために、各地で無駄な混乱を生んでいるのも事実である。今日においてもまた社会同和教育の唯一の入門書として提示された本書は、各方面からの議論をよぶものとおもわれるが、ここではごく限られた論点に関して批判・検討を加え「書評」としたいとかもう。


 本書は、序章を含め四章から成る。
 序章「今日の部落問題と社会教育の課題」では、「解消しつつある部落差別」の現状認識をふまえ「解放の客観的・主体的条件」を概観して「社会教育の課題」を問い、第一章「社会同和教育をどう考えるか」では、その「あり方」に関して「文部省・自治体の社会同和教育」を検討し、加えて著者の「芦原同和教育講座」をはじめとした幾多の教育実践をふまえての「部落問題をどう学習するか」を概括する。

 そして第二章「社会教育全体でどうとりくむか」では、とくに松本市教委、大津公民館、久美浜連合青年団松阪市民の会、河南高校部落研の各実践報告を引用・転載する。この実践報告の引用が本書の半分をしめる。


 最後の第三章「部落における社会教育」では、「識字学校」「部落問題・同和事業・生活技術や知識の修得などの学習活動」「保育・子供会・文化活動」について述べる。


      二


 ところで、私たちが「社会同和教育のあり方」を考えるとき、すくなくとも次の四つの点をまず明らかにしておく必要があると思う。
 第一に、それは「学校同和教育」の課題とどう関係しどう区別されるのか。
 第二に、一般行政部門(同和対策室や市民局など)の「社会同和教育的活動」とどう関係し区別されるのか。
 第三に、同和行政における教育の領域の課題と他の領域の課題、たとえば神戸市の「同和対策事業長期計画」の「教育人権対策」と「環境改善対策」「生活向上対策」「福祉増進対策」との関係と区別について。
 第四に、部落解放運動をはじめとした市民の自主的な学習活動との関係と区別の問題、いわゆる「行政」と「運動」との区別と関係をどう把えるか。


 もちろんこの「あり方」の問題と同時に「教育内容」の問題、教育施設・設備、労働条件、予算などの「教育条件」の問題、「教育の方法・進め方」の問題など各々論じられねばならない。しかしここでは、本書の前半とくにその考え方・あり方の基本的な問題を批判検討するにとどめる。


 ここで、「社会同和教育」なる概念を「公教育としての社会教育における同和教育」の略称としで限定して用いる必要を強調しておかねばならない。
この点、本書では運動や住民の自立的な学習活動との結合関係を強調するあまり「社会同和教育」の概念規定があいまいになり、その結果以下にみるとおり他の領域との「区別」の視点が欠けるのである。正しい「関係」を結ぶためには「区別」が明確でなければならず、その「結切点」(「切り結び」「逆接的接属」などともよびうる)の構造が了解されていなければならない。しかし著者にとってこれらの問題意識は末だ自覚されてはいない。以下ごく概略的に先の四つの点をみておきたい。


      三

 
 まず第一の「学校同和教育」との区別と関係の問題である。
 卒直に言って今日の「社会同和教育」は、学校教育の延長もしくは附属物としての位置しか獲得していない。もちろん「社会同和教育」の独自な活動領域が存在していないわけではなく未開拓であったのである。それも、たんに「おとなの同和教育」(二二頁)として把えてよいともおもえない。それは当然、家庭教育を含む地域における公教育での同和教育を言うのであって、老若男女を含むのである。その点、「学校同和教育」と対概念となる明確な位置を持つものと言わねばならないであろう。


 一昨年末、県下各地で実施が強要されている「解放学級」などは「社会同和教育」の課題を「学校同和教育」に混人させた典型であり、公教育内部の事としても問題を生んでいるところである。しかし本書ではこの第一の問題に関する解明は行なわれていない。双方の正しい発展のためにこの区別と関係を明らかにする必要があるのである。


 第二の問題は、同和行政内部での任務分掌に関わる問題で、一般行政部門の行なう社公同和教育的活動との区別と関係の事である。著者はこの点に関して、社会同和教育の独自性を強調して次のように言う。


 「同和対策事業においても教育活動のしめる役割はきわめて大きい。しかしながら解放運動や同和事業のなかで社会教育的な活動が行なわれているとしても、それをもって、社会教育における同和教育が実践されているとは言えない。むしろ逆に、部落問題を解決する上で、社会教育活動はそれほど重要な位置を占める、ということであり、それだけに、社会教育独自の活動領域を明らかにし、実践することは、部落解放運動や同和事業の発展を保障する直接的な基盤となると考えるべきであろう」(二六頁)


 運動との関係は後にみるとして、「公教育、すなわち教育委員会の行なう社会同和教育」は、従来、予算的にも体制的にも極度に不備であったために、神戸市の場合でも、他の部局がその多くを不充分なかたちで肩代りしてきたのである。しかしこれは、「社会同和教育」の独白な活動領域を明らかにし、本来的な活動を行う条件を確立していく過程で解決される問題であるが、やはりつねにそこでの区別と関係の問題を明らかにし、その位置づけと方向性を明示しなければならないであろう。


 さて第三の問題は、第二と同じく同和行政内部での分掌の問題であるが、同和行政における教育の領域と他の領域の課題との区別と関係を問うもので、より基本的な認識に関わる事である。


 先に引用した個所で、著者は「社会同和教育」が「同和事業の発展を保障する直接的な基盤である」と言う。一応この見解は問違いではないであろう。しかし、環境・職業など生活条件を整えるいわば「物質的」極面と教育・人権の課題に主として関わるいわば「精神的」極面との区別と関係があいまいなまま、教育が事業の「直接的基盤」であると言うことは正しくはない。


 なぜなら、事業が教育の「直接的基盤」だとする単なる「物質的土台の反映論」と逆の誤まりをさそわざるをえなくなるからである。これは最初に触れた「結切点」の理解のしかたと直接関係する問題である。


 最後に第四の、部落解放運動をはじめとした市民の自主的な学習活動との区別と関係の問題である。著者は「はしがき」で、「本書をまとめるに上でつねに問題点のひとつであったのは、公教育、すなわち教育委員会の行なう社会教育と、市民団体、大衆団体、労働組合の学習運動との関係であった」と言う。そしてさらに「公的機関が推進したり条件整備をしたり、援助したりするものに限定」しつつも、「公教育としてここまで責任をもってとりくもうではないか、という願い」から「全国的に革新自治体が増加している今日、(公教育として)実践できるものは積極的にとり入れた」とも言う。


 そこには、著者の実践的意欲と運動諭的関心が強く反映されており、その限りでは強調してしすぎることはないであろう。しかし、ここでも「区別」があいまいなまま両者のむすびつきを強調することはけっして正しくはない。


 著者は、「市民団体、大衆団体、労働組合の学習運動はそれ自体すぐれた社会教育だ」と考え、むしろそれこそ「社会教育の本来的なあり方」だという見解をもち(四頁)、自立的な学習運動の発展を強調するものであるが、昨年の「八鹿事件」を頂点として露見した問題点の核心の一つは、運動・教育・行政それぞれの混同・ゆ着にあったのであり、これらの基本問題を厳密に解く作業を進めることこそ、今日不可欠の課題でなければならないとおもう。その点、本書はこの課題にこたえるにけっして十分とは言えないのではなかろうか。


      四


 以上、社会同和教育の「あり方」に関わるごく限られた問題に触れたにすぎない。それも多分に幼児のないものねだりにも似た著者への批判であったかも知れない。
 また、原理論的認識の問題と実践的な行為の問題とは、不可分・不可同の関係がみられておらねばならず、これまた混同されてはならないのであるが、本書の最も中心的な部分 である「進め方」についても、「公教育における社会同和教育」の「進め方」の問題として、批判的に検討を加える必要があるであろう。


 本書は、「公教育としての社会教育における同和教育」の手引というより、部落問題の自主的な学習活動を進めるための手引として活用されるであろうし、また活用されねばならない貴重な労作であると言えよう。


 もちろん自主的な学習活動を進める場合も、上記の基本的な区別と関係の問題を明確にすることなしには、自主的運動そのものの正しい発展もありえないことを付記し拙評にかえたいとおもう。