「部落解放理論とは何か」(上)(1976年『RADIX』第8号)


宮崎潤二さんの作品「木工工場風景:神戸川崎造船所」





           部落解放理論とは何か(上)



          1976年 『RADIX』第8号
             (1974年執筆)



                はじめに


 部落解放運動は今日混乱と分裂の中にある。それはもはや統一も刷新も不可能であるかの如くである。


 そして、この「運動」とは「不可分・不可同」の関係にある部落解放の「理論」は、一九七三年三月の「解同」第二八回大会で決定をみた運動方針(以下「方針」とする)によれば、すでに「三つの命題」によって「完成するに至った」として自説の宣伝と他者の罵倒に過熱するのである。


 我々は、ここで当然今日における解放理論上の争点を整理し、その批判の当否を厳密に解明する作業を進めなければならないのであるが、その作業を始める前に是非経ておかなければならない基本的なことがらについて、まず検討を加えておきたいと思う。


 なぜなら、以下に述べる「基本的なことがら」は、「三つの命題」のみならず今日一般に流通している解放理論が、ほとんどすべてこれを素通りしている、とみなければならないからである。早速、「方針」を批判的に考察することからはじめたい。


          一 部落解放の「理論」とは何か


 「方針」によれば、「部落解放理論は、今日の部落解放運動の根拠として確固として存在している。この理論は運動のひろがりの中で発展し、その結果運動が益々ひろがるという経過を繰り返しながら着実に築き上げられ」「今日の部落解放理論として完成するに至ったのである」(傍点、鳥飼)という。


 しかし、「理論」と「運動」の関係を、このように表面的かつ平板なレベルでこれを把えているかぎり、それはつねに「運動」を合理化し絶対化するための「理論」でしかなく、逆に「理論」をまずたてて「運動」を従属させる陥穿におちこまざるを得ないのである。


 「理論」の「根拠」と「運動」の「根拠」は一つである。そしてこの「一つの根拠」から「理論」も「運動」も必然的に分極してくるのである。「運動」は「理論」に、「理論」は「運動」に対応しているけれども、両者は共に独自の位相をなしており、この「一つの根拠」を介してのみ相互に「切り結ぶ」関係をもつのである(注1)。


 ここで「理論」と「根拠」との関係について明らかにしておかなければならない。先に「理論は一つの根拠から発する」といったけれども、理論が正しく理論であるためには、その根拠である〈原〉理論が根底にあるのでなければならない。


 もちろん、この〈原〉は「理論」によって「私」することができないということであって、当然それは、いわゆる「理論の発展」といわれる位相とは絶対に混同できないことをあらわしているのである。


 そして、この〈原〉理論と理論とは、単に別にあるのでも(不可分)、混同させるのでも(不可同)なく、理論が理論として成立するためには、理論はつねに〈原〉理論によって消滅・発起するという構造(不可逆)が見極められていなければならない。


 すなわち、理論と〈原〉理論とは逆にすることのできない厳密な順序があるのである。この区別・関係・順序が正しく把えられているかどうか、或いは少なくとも「理論」というものに対するこの「基本感覚」がいきづいているかどうかが、つねに問われているといわねばならない(注2)。


 また、「部落解放理論」は、狭義の部落解放運動理論もしくは部落解放行政理論と混同されてはならない。


 むしろ、運動論と行政論とが分極してくる根底が把えられなければならない。行政が狭義の運動理論を密輸入して、これがあたかも行政論であるかのように見誤り、これと同一化することで、その日ぐらしの首振り行政にあけくれたり、運動の下請化を同和行政と見誤ることは多い。


 他方逆に、運動が行政と同一化して下請化し、融和運動に堕することもつねにおこる現象である。しかし、これらの諸傾向は、いずれも部落解放理論の根底がさらに一歩ふみこんで厳密に見定められていない証拠であるといわざるをえない。


 運動と行政とは、決して「順接」することなく「逆接」する関係にあることが明晰判明に把えられていなければならないのである(注3)。
 以上、理論上の基本的な前提となる諸点をふまえた上で「三つの命題」を考えてみたい。



      二 「部落差別の本質」の概念規定について


 部落解放理論は、その〈原〉理論と不可分・不可同・不可逆の関係の下で解明されなければならないことは先にふれた。


 事実、解放理論の最も重要な点は、「解放の本質」を明らかにすることでなければならない。だれでもすぐに解るとおり、根源的な意味において「差別の本質」というものはまったく存在しないということが、まず厳密に了解されていなければならない。


 もともと「本質」という概念は、「偶有性」或いは「事実存在」に対立する概念である。前者は「根源的本質」、後者は「歴史的現実形態」と呼ぶことができる。


 普通「差別の本質」といわれるものは、「歴史的現実形態」としてのそれであって、しかも「歴史的現実形態」の倒錯形態であるといわねばならない。


 だとすれば、当然差別に積極的な本質などあるはずはないのである。その意味で「方針」の「部落差別の本質」といわれるものは、「部落差別の歴史的現実形態」のことだと言いうるであろう。


 ところで、根源的本質としての「解放の本質」とは何なのであろうか。「方針」では、この最も重要な論点をどれほど積極的に言いあらわしているのであろうか。


 そこではわずかにとってつけたようなことばで、部落解放運動が「人間の自由と平等を追及する輝かしい精神の歴史であった」といわれるだけであって、何ら積極的な人間解放の理論は展開されてはいない。しかも「人間の自由と平等」といってもおよそ満足のいく論究はなされてはいない。


 もともと部落解放理論の展開は、人間の根源的本質にめざめた者の人間性発揮としてみることができる(注4)。


 「水平社宣言」や「よき日のために」でも明らかに記されているように「人間性の覚醒」が起点となっていることはあらためて言うまでもない。


 このことを逆に言えば、それは人間の単なる恣意・感情・意志から出発するのではなく、解放の〈原〉動力によってつき動かされ湧出しかものであったのである。


 根源的本質を無視して勝手に「つくったもの」が部落差別である。けっしてそれは運命的・宿命的なものではない。完全に根底のないものなのである。かかる根源的な人間把握は、さらに厳密に言いあらわされるのでなければならない。


 ところで、人間の根源的本質からただちにふたつに分極してくる「精神現象」と「物質現象」の両極面が正しくみられていなければならない。


 「方針」では、「差別を観念として考えてきた時期から差別が社会に、生活にあると考えるように発展」したという。しかし、あとでもふれるように、これではせっかくそれ自体並々ならぬ悪戦苦闘の末の発見であるにもかかわらず、もしそこで両極面の正しい関係・分節の解明かさぼられるとするならば、或はまた、精神現象と物質現象の区別と関係も不明確のまま、たんに差別意識の問題から「物質的基礎」に視点を移行・拡大させるにすぎないのであるとするならば、これほど残念なことはないのである。


 部落の解放は、人間の解放であり、人間の根源的本質の発揮、それも物心両面の発揮として把え、精神的解放と物質的解放の全人的解放でなければならないのである。


 そしてつぎに、「方針」で指摘されている「解放理論」の第一命題「部落差別の本質」について考えておかねばならない。


 そこでは「部落差別の本質」を「部落民に市民的権利が行政的に不完全にしか保障されていないこと、なかでも就職の機会均等の権利が保障されていないため主要な生産関係から除外されている点にある」という。


 「主要な生産関係」云々についてはあとでふれるとして、「市民的権利が行政的に不完全にしか保障されていないこと」という点に関していえば、これでは、いわゆる「行政闘争」むけの「解放理論」に矮少化させているにすぎなくなるのではなかろうか。


 たしかに、今日とくに行政責任はいくら強調してもしすぎることはない。しかし、だからといって、「市民的権利を保障すべき責務をもつ『行政』に全ての責任がある」(傍点、鳥飼)としてすまされてよいわけはないのである。


 「方針」で用いられている「市民的権利」とはいったい何なのであろうか。
 そこでは、これを「単なる人権というようなものではなく、歴史的な発展過程の中で培かわれた社会科学上の概念であり、近代社会におけるもっとも主たる権利であって、封建割に対立して近代市民社会を建設するためにたたかわれたフランス革命その他の市民革命を通じてかちとられてきたものである」と説明が加えられている。


 しかし注意しなければならないことは、この「市民的権利」という概念は「近代市民社会」の概念ではあっても、これをただちに今日無批判に前提視できるものでは断じてないのである。


 なぜなら、この「近代市民社会」というものは「資本主義社会」のことであって、それを無批判に受け入れるわけにはいかないからである。


 さらに指摘しておかねばならないことは、「方針」で「奴隷制封建制・資本主義の各社会を通じて『私有財産制』は変らなかった」として、これを肯定的・永続的なこととして把えてあやしまない点についてである。


 すくなくとも現代の解放理論を云々するものにとっては、この「近代市民社会」批判、「資本主義社会」批判、いわゆる「市民的権利」批判がともなわなければならないのは、いわば常識でなければならない。


 「私的所有」の根底的批判が出発となるのである。そして、この「私的所有」批判は、たんに「物質的基礎」「経済的土台」のみにかかわるのではなく、あとでふれるとおり、人間の精神現象にも貫かれなければならないものである。


 また「方針」で強調される「民主主義の水準の前進」(傍点、鳥飼)ということも、「市民的権利が民主社会の基底となる重要概念である」といわれる「民主社会」ということも、無批判に受け入れることのできるものではなく、その概念のあいまいを明らかにしながら、その中に残る「近代主義」を批判的に止揚することでなければならないのである。


  (後半は次回に)


              注


(1)延原時行『「イエスとキリスト」問題への analogia actionia (行為の類比)の提言』(加茂兄弟団、一九七一年)参照。
(2)滝沢克己『日本人の精神構造』(講談社、一九七三年)参照。
(3)拙稿「市民啓発の重要性について」(神戸部落問題研究所所報第二号所収、一九七四年)参照。
(4)拙稿「部落解放運動とキリスト者」(『福音と世界』一九七四年六月)参照。