「断章:結婚・差別・部落」(下)(1975年『鄙語』第2号)


宮崎潤二さんの作品「神戸川崎造船東浜岸壁より」



          断章:結婚・差別・部落(下)


          1975年『鄙語』第2号


      (前回の続き)


 では、「部落差別」とはどういうことなのであろうか。
 「部落」という用語は、ふつう小さな村落の別名として通用してきたものであるけれども、とくに差別との関連で用いられる「部落」は、「被差別部落」とか「未解放部落」とか「同和地区」などとよばれているものである。


 しかし、もともと「差別」は根源的な意味での根拠があるわけでなく、被差別の「部落」も同じである。「差別」とか「部落」とかいうのは、根源的本質に根ざしたものでないことは言うまでもない。だからこそ「差別」というのである。根源的本質を差別するのである。


 このことが、明晰判明に把えられているかどうか、人間の根源的平等の了解が、私たち相互に、どれほど浸透し、いきづいているかどうかがまず重要なのである。徹底してこのことが明らかにみられるとき、「部落差別」の問題性もいっそう明らかとなるのである。


 いわゆる「部落差別」は、日本の近世封建制の成立の過程でつくりだされた封建的身分制度であることは、あらためていうまでもない。人々を差別的に分裂支配する、いわばひとにぎりの権力の安泰のためにしくまれた、犯罪的な悪知恵からうまれたおとし子である。


 しかし、この権力的支配の犯罪的意図を見ぬき、社会と国家の根源的本質の実現のために、根本的な批判と抵抗をなすかわりに、あたかもそれが、歴史的に必然的運命的なものであるかのように思わせる策術にはめられ、明治以降の日本資本主義の発展過程の中でも「部落」は残され差別を強いられてきたのである。


 そして、これを合理化するために、「部落」の人たちは、先祖がちがい民族がちがうだとか、職業がちがい宗教がちがうだとか、一つひとつ歴史的検討を加えれば、すぐそれはまったくのまゆつばものであることが明らかであるところの俗説を流布してきたのである。


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 先にみたとおり、歴史的現実形態には正常形態と倒錯形態とがある。そして、人間を差別する形態はそれがいかなるものであれ、まったく根拠のない、単なる虚偽的支配形態であるといわねばならない。なんら積極的な存在理由をもつものではないからである。


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 「部落差別」による生活の低位性は、職業・住宅・環境・教育など生活全体におよんでいるけれども、人間同士を不当にもひきさくものとして、こんにち顕在化するのが「部落」を理由とした「結婚差別」である。


 「部落差別」が、あたかも当然のように考えられていた時点では、「部落」住民と他の者との結婚は、まったく例外的なことであったし、「部落差別」による結婚差別事件もおこりようはなかったのである。


 しかし、「水平社運動」以来、とくに戦後の解放運動と、新憲法下での教育と社会の変化によって、「基本的人権」の尊重と差別の不当性についての考え方は一般化しつつあるといえるかもしれない。


 けれども、いまだに結婚のときは、「身元調べ」とか、「聞き合せ」などする習慣はけっして消えているわけではない。


 むしろ、先にもふれたように、学歴とか財産とか職業が、第一義的なことであるように錯覚し、(錯覚していることさえ気付こうともせず)いっそうそれに拍車をかけるこんにちの世情の中で、「部落差別」もなお完全には解消されずに残されているのである。


 これはひとつには、第一義的な基本問題が未解決であるためであり、「人権の尊重」とは何か、「人間とは何か」といった根本問題があいまいであるがためである。


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 「部落差別」は、私たち人間の根源的基点に横たわるきずなを無視して、これを分断・反目させ、くずれかけんとする体制保持とそのボロカクシのために案出されたシロモノであったのだが、この悪知恵は、いつの世でもあらたなよそおいで登場してくる。そして、時にはそれは「部落解放」という大義名分の仮面をかぶることもまれではないのである。


 今日の「同和行政」といい、「同和教育」といっても、あるいはまたこれを「解放行政」「解放教育」とよんでみても、その基調をなすものが、単なる「現実主義」、単なる旧来の思惟方法にとどまり、そこから一歩も新しいふみだしがなされていないことが根本的な問題である。


 その結果、「部落」問題を、過熱したかたちで「特殊化」するか、「運動」のなすがままに「教育」も「行政」もその日ぐらしをくりかえすか、各地にみられるような不幸な事態が生じざるをえないのである。

 行政、教育のみならず、「解放運動」も知らず識らずのうちに、人間の解放の根源的基点から足を離して、単なる告発あるいは私的要求の運動に転落する。


 そして、うすっぺらな現実主義、内的情念を出発とした道学者的なパリサイ主義が横行するのである。


 「解放運動」とかかわらねばならないことを強調しながら、実際は「部落」を解放する視点を把え得ないまま、単に「差別の現実から学ぶ」とかいって、倒錯した「解放運動」に拝脆・同一化する青白きインテリたちも族生するのである。


 表面的なことばや行動の激しさとは逆に、「運動」みずから、分断支配の権力的意図に乗せられ、密通することはなにも不思議なことではないのである。


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 ひとは、自己成立の根もとからかわっていく。決して、外からの強制的なものによるのではない。そのときはじめて、人間の根源的基点からあふれる、まったくあらたな感じ方、見方、考え方へと変革されていくのである。


 部落解放運動も、このあふれる力に促され、自己批判と相互批判をいきづかせながら展開されるとき、深く広くあらゆる人々と響き合うかかわりが実現していくのである。


 けっして、ひとの心の奥に土足で入りこんだり、まして暴力的糾弾で暴走することはゆるされないのである。


 しかし、不幸なことに「部落差別」への単なる怒りと怨念にあやつられる「運動」は、これまでたびたび結婚を成就させるかわりに、これを破壊させる結果をもたらしてきた。


 もちろん、破壊に至った責任がすべて「運動」のせいだというのではない。
こんにちなお生き続けている「部落差別」のきびしさが複雑に作用し合って、この不幸をもたらしているのであるが、そこでの倒錯した現実形態である「結婚差別」、しかも根拠のない「部落差別」を、あたかも第一義のように見誤ってよい理由は何もないのである。


 結婚差別にかかわる解放運動のかかわり方については、いま根本的な検討が加えられなければならない。また、教育・行政関係者のこの問題への対応の仕方も再検討が必要である。


 それにはまず第一に、「部落差別」の正しい把握と結婚についての正しい理解が前提である。


 この基本問題を明らかにすると同時に、第二に、「運動」と「行政・教育」の区別と関係が正しくみられているのでなければならないのである。


 「差別」に直面したふたりの男女、一対の夫婦にむかって、私たちのできること、なすべきことは、真実の愛の根拠、結婚の根基を、すこしなりとも明晰判明にさせること、「差別」に絶対的根拠のないことを、ともに発見することである。


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 戦後の、とりわけ現代に生きる私たちにとってハッキリしていることは、結婚の「差別」も「部落差別」もまったく根拠のないものであり、「虚しきもの」の誘いに乗った考えであり行為であるということである。


 もともと、人間が人間として成立するということは、一方は物質的極面の、他方は精神的極面の等根源的相補的成立ということでなければならない。


 したがって、一対の男女が結婚するということも、この物心両面の成立がなければならない。すなわち、一つには結婚の経済的物質的基盤の確立のために日々あらゆる努力をしていくのである。同時に他方、一対の男女は、生活が順調であるときばかりでなく逆境に立つときに、そのようなときにこそ、結婚の真実のきずなを映して、いっそう夫婦相和して、逆境をのりこえていくのである。


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 じつに、「部落差別」は、人間を、社会を、そして結婚を冒涜するものである。
「差別」への真実の怒りは、人間を人間たらしめるものの湧出の結果である。


 本来的な、行為・理論は、この湧出・あふれの性格を帯びている。
解放運動も、もともと、人間の根源的基点にめざめえた人間たちのよろこびのあふれである。


 人間の存在を、社会の成立を、その根底から把えなおし、絶対平等の根基を精確に了解するところからはじまるのである。


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 「結婚・差別・部落」に焦点をあてて、日ごろの思いを断片的にメモしてみた。ご批評を頂き、さらに事柄を明らかにし、着実な一歩をあゆみだしたいとおもう。
                            (一九七五年)