「断章:結婚・差別・部落」(上)(1975年『鄙語』第2号)
宮崎潤二さんの作品「岸壁につけた修繕船・神戸川崎造船所」
断章:結婚・差別・部落(上)
1975年『鄙語』第2号
この世界に生を享けはや三十五年、結婚生活十年あまりになる。
だがはたして、肝心かなめの人生の悦びの根源に、生きいきと即応して歩みだしているのかどうか。たどたどしいいとなみをとおして、どのようなことを学びえたのか。
私たちの無明、あいまいにもかかわらず、私たちを支え育て、励まし赦し審く、根源的な基点の構造は、どのようなものなのか。「結婚・差別・部落」との関連で、これらのことを、ここではメモしておきたいと思う。
* *
私たちが、「おどろき」を覚えるのは、ふつう非日常的な出来事にでくわすときである。
たとえば、或る日、交差点の角の寿司屋でたのしくやっている最中に、暴走した自動車が飛び込んできたが、さいわいにもケガはなくいのちびろいをしたとか、なにげなく暮らしている私たちの家族のひとりが急病で寝こむとか、不意をつかれた出来事に直面するときなどとくにそうである。
しかし、「おどろき」を覚えるのは、ただ非日常的な出来事にでくわすときばかりではない。むしろ、とくにどうということもなく受け流している日常的なことが、私たちにとってたいへんな「おどろき」として受けとるようになる、ということも事実である。
じっさい、こうして、いま、ここで、こんなことを書いているということであっても、単にあたりまえのことではありえない。あたかも私は、単なる私の意志だけで存在しているかのようにみえるけれども、けっしてそうではない。
私の判断と責任で住む場所を選び、職業も選んでいるのだけれども、この私の判断を成り立たせているものは、私とは絶対に他でありしかも私と偕(とも)なるかた=「インマヌエル」(「神、われら罪人と偕にいます」の意)と無関係にあるのではない。
この「インマヌエル」のもとですべてがはじまり、すべてがおわるのである。そこでは、私たちのありのままが、審かれ赦され、受け入れられている。
真は真として、偽は偽として、その都度すでに明らかなのである。そのゆえに、私たちも、真偽を判断することができるし、判断すべきなのである。
知らず識らずのうちに、単なる私をまずたてて、すべて私の思うままになるかのような錯覚から解き放たれる、ということが、つねにすべての出発点になるのだといわねばならない。
* *
人間はだれも男性か女性かであって、中性はいない。そして各々個性的な存在である。
この個性的な男性と女性が出合うのもそれは、偶然的な出来事ではある。しかし、偶然というものが成立するのには、それを人が承認しようがすまいが、かならずそこには、深い必然性が裏打ちされているのである。
もちろん、ここに「深い必然性」といっても、それが正常なかたちであらわれるものと、倒錯したかたちであらわれるものとあることは、いつも精確にみられているのでなければならない。
この事は、人の出合いだけでなく、深い必然性に裏打ちされている偶然は、私たちの日常生活全体のことでもある。私たちの日常生活が、ただ単にその日その日うき草のように揺れ動くだけのものではなく、かならずそこには、私たちを掴み促し、赦し審く、「根基の力」に支えられて成立しているのだからである。
私たちは、せっかく見出した自立的精神の基本構造を解明する労苦をさけて、単なる自立的精神に乗っかり、人間としての基本的な認識を欠いたままなのである。
その必然的な結果として、私たちの思惟は平盤なものとなり、生命の根を絶たれて、精神の枯渇を現象させているのである。
このように、自己成立の基盤を無視し、ただ眼にみえる表面的現実だけを、その根底から分離してみる、悪しき意味での現実主義にとどまるかぎり、男と女の出合いも、軽薄な御都合主義か、逆に自己本位の利己的過熱が現象せざるをえないのである。
私たちは、つねにこの傾きからのがれられず、偶然を絶対の裏から限定している深い必然性を勘定に入れず、勝手に生きて、生きたつもりになって、厳しいシッペ返えしを経験するのである。まさに罪即罰なのである。
* *
私たちの「性」は、この日常生活全体のなかの一つのコトである。とくに「性」だけをとりだして、過度にこれを偏重することも、あるいは逆に、あまりにこれを無視することも、けっして根底のある対応とは言いえない。
それでは、この「性」の根底をなすものはなになのであろうか。
私たちにとって、男と女、結婚、親と子など、「性」と不可分のかかわりのあることがらについて、原理的・実際的に、より正しい理解を得ることにつとめることは、避けてはならない重要な課題である。
興味本位や禁欲主義的タブーヘの傾きにおちいることなく、日常生活をすこやかならしめるため、是非とも明らかにしておかなければならないことである。
しかし、ここではただ、男性と女性の個性的な人間が出合い、一対の夫婦となるという、いわゆる「結婚」の問題を、とくに「部落差別」との関連で考えてみたいとおもう。
* *
一対の夫婦が成立するということには、本来的・積極的な根拠かあるといわねばならない。しかし、だからといって、未婚の男性とか未婚の女性とかといって、あたかも結婚をしていない人は、どこか劣るかのように勘違いをしてはならない。
結婚至上主義があやまりであると同時に、結婚の否定の独身主義も正しくはない。いずれも観念的な独断にすぎない。
私たちは、身勝手なものである。自分の都合にあわせて、相手はどうにでもなるかのように思い違える。
だいぶまえ、テレビで映画「コレクター(変質者)」を観た。
或るキマジメな銀行員の男性が、「蝶」の採集に興味をもつ。そしてある日、片思いの女性を「蝶」とまったくおなじようにして、強引に暴力的に「生けどる」。
しかし、人間である彼女は、「蝶」のようには思い通りに「処理」できない。生けどられた女性は、ついには死においやられてしまうのである。
しかし、しようこりもなくこの男性は、つぎのあたらしい「蝶」を求めて、女性採集にでかける、といった恐ろしいドラマであった。
ここには、男と女、相互の根源的平等の関係は、まったく見失われている。
したがって、男と女の間(ま)――あいだ――の感覚などまるでないのである。
そして、このことは同時にまた、彼自身の存在の根源的基点にたいする無明を暴露しているのである。
男と女、とりわけ夫婦の関係が、心身ともにすこやかでないときというのは、かならず私が私であることを把えそこね、私が私自身をもてあましているときである。(もちろん、あとでふれるように、貧困や身体的疲労の影響も重大な原因としてある。)
* *
結婚の出発において、ただひとりでいることのさびしさに耐えられないために結婚を意図したり、或いは、ある運動、ある思想的・宗教的活動のために、結婚を手段化することは少なくない。
このような思い違いを、意識的にか無意識的にかおかしていく傾きから、私たちを根本的に解き放つ原事実の治癒力にぶちあたるとき、私たちの結婚生活は、この治癒力のおかげで、日々に新しくされていくことができるのである。
妻子の眼は、私がいくら自分をとりつくろおうとしても、すべておみとおしなのである。さらに、それ以上に、まったく次元を異にして、妻子をも、私自身をも、万事おみとおしなのは、この治癒力たる「在りてある方」であるのである。
* *
この治癒力はまた結合力・関係のきずなである。人間のおもいつきや内的感情を絶つと同時に真実のおもいや感情を成立させる積極的根源的な結びつきが、男と女の、とりわけ結婚の成立のそれでもあるのである。
この本来の結合力である関係のきずなへの自覚と信頼もなく、ただ単なる「自主的」な判断ですべてが成立するかのように思いこむこと、これが「結婚差別」というもとの意味でなければならない。すなわち結婚の根源的基点への無明もしくは無視をいうのである。
したがって、ふつう結婚生活を営み表面的には幸福そうに結ばれているようにみえる場合でも、その出発点から、知らず識らずのうちにみずから結婚を差別しているということは、つねにありうることである。
だれも、この差別から完全に自由な者はいない。ひとたびこの基点に覚醒してもけっしてそれは所有することはできないから、逆もどりの盲目になることもある。
逆に、だれの目からみても結婚生活の再起は不可能のようにみえても、雨で地が固まるごとくに、結婚の真実にふれて生きいきとした生活が新しく始まるということもあるのである。
そうして、結婚にも、正常なかたちで成立してくる場合と、倒錯したかたちでしか成立していない場合とあって、後者を「結婚差別」ということができるのである。
* *
このような結婚成立の基本問題が解かれていない場合に、必然的にあらわれる現象が、本来の結合力とは別の価値基準を立てて、まったく恣意的に結婚を操作するかたちとなるのである。
すなわち、根源的基点を無視して、歴史的価値基準を第一義的なこととして立てるのである。学歴、財産、境遇などの歴史的価値を、男と女の不思議な深いきずな(根源的基点)に優先させ、根源的な「縁」をしりぞけてしまおうとするのである。
一義的なことと二義的なことの区別も関係も順序も、ここにはまったく視界に入らず、二義的なことが一義的なことと同一視されて、結婚もある種の世間ていのみせものとなったり、無感動の惰性に流れることとならざるをえないのである。
先にみたとおり、これの根本的な治癒力・結合力は、その結婚の成立の裏に分ちがたく、混同しがたく、私の思いと逆にしがたいかたちで「逆接」しているのである。一対の夫婦は、ここからあたらしく歩みはじめることができるのである。
(次回に続く)