「部落解放理論とは何か」(下)(1976年『RADIX』第8号)


宮崎潤二さんの作品「潜水艦建造工場:神戸川崎造船所」



          部落解放理論とは何か(下)


         1976年 『RADIX』第8号

             1974年執筆


    (前回の続き)


    三 「部落差別の社仝的存在意義」の概念規定について


 先に、「部落差別の本質」の概念規定で述べたごとく、根源的な意味においては「部落差別の社会的存在意義」というものはないといわなければならない。このところを明晰判明にすることによって、真に根源的な積極的批判の視点を把えることができるのである。


 したがって「部落差別の社会的存在意義」といわれる場合の「存在意義」は、まったく否定的消極的なものであることはあらためて指摘するまでもないところである。


 でなければ、「全て社会的に存在している諸問題には、それが社会的に存在する理由をもっている」ということも、根源的な存在理由かあるかのように錯覚され、これを運命視する誤りへの歯止めの視点を獲得することにはならないのである。ここでは当然、部落解放の、とりわけ「物質現象」の側面の積極的な解放理論が展開されなければならない。


 「方針」では、支配者の支配思想を「封建時代における部落差別は経済的にはその時代の主要な生産のにない手であった農民にたいし、搾取と圧迫をほしいままにし政治的にはそこから発生してくる反抗をおさえる安全弁として政策的に作り出されかつ維持され」「今日独占資本主義の段階では独占資本の超過利潤追求の手段として部落民を主要な生産関係の生産過程から除外し、相対的過剰人口のなかでの停滞的慢性的失業者の地位におとしこむことで、部落民労働市場の底辺をささえて一般労働者の低賃金・低生活のしづめとしての役割を果たさせ、政治的には部落差別を温存助長して部落民を一般労働者と対立させ分割支配する道具として利用している」と指摘している。


 これは、戦前の部落問題を論ずるときの支配者の意図の指摘としては一応首肯できたとしても、現代の部落問題認識としてはむしろ批判の対象となるものである。


 しかもこれは、経済構造・支配構造そのものの解明として見る場合でも、「部落民を主要な生産関係の生産過程から除外」されていると言えるかどうか。むしろそれは、杉之原寿一氏の指摘のごとく「現代日本における主要な生産関係である資本主義的生産関係にくみこまれ、平均以上にプロレタリア化か進行している」(注5)とみなければならないであろう。


 さらに「方針」では、「私的所有」を「法則」とする資本主義的生産関係を根底から批判するところの視座・方法=「個即類・類即個」(フォイェルバッハ『キリスト教の本質』)、「人間主義自然主義自然主義人間主義」(マルクス『経哲草稿』)とみる「経済原則」=が、いまだ精確につかまれていないのみならず、たんなる「経済法則」が視界に入るのみで「経済原則」にまでは、気付くことさえいたらないのである(注6)。我々はまたつぎの点を指摘しておかなければならないであろう。


 「方針」によれば、「市民的権利の水準」のひくいのは、「全て部落差別が社会的に存在している」ためであり、これに気づくことによって初めて真の共闘・統一をもたらす条件をつくりあげることができるというのである。


 しかし事実はむしろ逆であって、気づくことによって初めてではなく、部落問題が現代の民主主義の課題として、部落解放運動が必然的に共闘関係を結ぶし結ぶことができるのである。そして、その共闘のなかで、支配者の意図も社会経済構造の把握もよりいっそう明らかになるのである。そして、幅広い連帯をつくり、分裂支配の融和的傾向に対して、つねに厳しく克服していく方向をさぐるのである。


 さらに「方針」によれば、「自己のおかれている社会的立場を客観的に理解」し「いわゆる『主観』から脱」することが強調される。


 しかし、「社会的立場」というものを「客観的」と称してあたかもこれを絶対的な(根底のあるという意味で)ものと見誤るとするならば、たいへんなわざわいをもたらさざるをえないのである。


 ここで「客観的に理解」するといっても、それはたんなる倒錯形態としての部落差別しかみられていないのである。また「主観」を脱するといっても、それがただ「主観」から「客観」に関心を移行したにすぎないとすれば、いまだ真の「主観」も「客観」も厳密には把えられていないといわざるをえないのである。



  四 「社会意識としての部落民に対する差別観念」の概念規定について


 ここでもまず「社会意識としての部落民に対する差別観念」といわれるものは、「精神現象」の「歴史的現実形態」の倒錯形態の一つとして把えられなければならない。つまり。これを実体視して根源的本質に根ざしたものとみることはできない。それは、先の「部落差別の社会的存在意義」がそうであるのと一般である。


 ところで、部落差別の「物質現象」と「精神現象」との関係はどのように受けとるべきであろうか。はたして「方針」のように「社会意識は社会的存在の反映であり・・・社会意識が形成される基盤は全て生産関係の中にある」という「反映論」で片づけてよいのであろうか。


 いわゆる「土台」(下部構造)からは決して把えることのできないものまでも、無理に反映論で「意識」の問題を解明しようとしているのではないであろうか。このような「理論」にとどまっているかぎり、部落解放といっても全人的(物心両面の)解放ではなく、表面的な物質的極面の獲得に一面化することにならざるをえないのである。


 先にみたとおり、両極面の区別と関係が、根源的一点を介して切り結ばれる消息がみられなければならないのである。差別観念という疎外された意識は、根源的一点から成立してくる根源的解放意識によって克服されるのである。


 差別意識はもちろん社会的経済的諸条件によって強い影響を受ける。しかし、けっして「方針」にあるような「自己の意識するとしないにかかわらず、客観的には空気を吸うように一般大衆の中に入りこむ」というようなかたちで、あたかも人間の責任ではないかのような把え方に留まる限り、真の解放理論は展開されえないのである。


 差別意識は、根源的には何ら積極的根底をもつものではない。もともとそれは端的にないものである。すでに完全に破られているものである。それはあたかも、運命的に永遠に存在し続けるかのように思わせたり思ったりするところに虚偽かあるといわざるをえない。


 そのことが徹底して了解され見極められていないとき、それを利用し助長する者の跳梁をゆるすことになるのである。


 けっして、安易なかたちで社会構造のせいにすることはできない。社会構造の根底的変革のためにもそれはできない。


 この「方針」にみられる視点は、「歴史的現実形態」を告発しているだけとなって、差別の怨念や私的情念もしくは内省的な道徳論におちこまざるをえないものである。


 差別者と被差別者という平板な位相で発想するかぎり、いまだ解放運動の一歩さえもふみだしてはいないことになるのである。

 

          五 部落解放理論の展望


 以上みてきたとおり、「解同」の「三つの命題」といわれる「解放理論」は、けっして根底のある理論とはいえない。なぜならば、この理論の基調になっているものは、いわゆる「近代主義」であるからである。これをどれほど精確に超克していくかによって、今後の部落解放理論の展望の成否が定まるのである。


 人間の全人的解放を実現させる当のもの(一つの根拠)から、ただちに分極する物質的極面と精神的極面の健やかな成立こそ不可欠なのである。


 前者の理論的解明のしごとは、カール・マルクスによって、後者のそれは、カール・バルトによって本格的にすすめられてきたものである。


 そして、ひとたび「近代主義」の根底的な批判として提起されたこれらの先達の重大な視座を、さらに一歩ふみだして徹底させ、なお残されている問題を解明していく仕事が、滝沢克己氏や延原時行氏によって着実にたどられているのである。


 したがって、これらの先達に学びながら一歩でも新しい歩みだしをすることこそ、我々のつとめでなければならない。部落解放理論は、他の解放理論と別にあるのではない。真の部落解放理論は、人間の物心両面の全人的解放理と基本的には一つでなければならない。


 既述のとおり、一般に今日「解放理論」といわれるものは、ほとんどつねにたんなる疎外・倒錯形態の告発・批判・否定のための理論で間に合わせ、それでつっぱしることが多い。端的にいって、それこそ「解同」の「三つの命題」は、告発の理論として築きあげられたものだと言わざるをえないものである。


 もちろん、すでに指摘したとおり、人間の試みる理論はつねに根源的に否定されるのでなければならない。私的「理論」に固執する必要はないからである。


 もしもだれかに批判されて頭に血がのぼり他を罵倒しようとやっきになるとすれば、それはその人の理論が正しくない証拠だとふんでよいであろう。なぜなら、人間の「理論」が〈原〉理論によって否定されることこそ幸いであるからである。


 「私」できない〈原〉理論によって批判される視点から、活発な理論的な討論が展開されていかなければならない。部落解放運動の分裂も理論上の対立も、万人がけっして無視すべきでないところの「一つの根拠」への無明からもたらされているといわざるをえないであろう。


 相手をおそれたり既存のものを絶対視して、根底から事を疑おうとしない傾向は、最もおそるべきものを知らないことから必然的におこる一現象であるとみなければならない。


 今日、混乱と分裂の中で「統一と刷新」を求めて多くの人々が努力をつづけている。しかし、部落解放の理論的な問題に限ってみる限り、それはけっして容易なことではない。


 それはただ、我々自身の人間理解、そして国家・家族に対する理解など、先達から批判的に学びつつ、根源的に問い直し思惟する苦労を経ることによってのみ見いだすことのできるものであろう。


 しかしそれは、万人の脚下の〈原事実〉なるが故に万人によって照顧されるべきであり、それがすでに、すべての人に可能であることも、明らかなことなのである。
                           (一九七四年)


               注


(5)杉之原寿一「階級分化の進行と部落差別」(『同和教育運動』第四号所収、部落問題研究所、一九七四年)。
(6)滝沢克己「『経済法則』の性格にかんする一哲学徒の省察」(滝沢克己著作集第九巻『経済学・哲学論集』所収、法蔵館、一九七四年)参照。