連載「キリスト教と部落問題」(第1回)(1984年7月『紀要・部落問題論究』第9号)


宮崎潤二さんの作品「シベリヤ鴉の巣のある風景・ハバロフスクにて」
(昨日は、ぶらり散歩がてら、現在療養中の宮崎さんとお会いして、積もるお話をしてきました。ブログでのUPも喜んでいただきました。)




今回から連載する「キリスト教と部落問題」は、今から30年近くも旧稿で、これを書き上げる前年には「宗教の基礎ー部落解放論とかかわって」を纏めて、これと同じ『紀要・部落問題論究』に掲載しています。いずれも『部落解放の基調ー宗教と部落問題』(1985年、創言社)に収めてあります。


部落問題の解決のあゆみの中では、既にこの時は、解決への見通しが確かめられつつある状況にありましたが、日本の宗教界ではこの頃から「部落問題フィーバー」といわれたような事態を生んでいて、私のようなものまでがこういう論文を纏める必要が生じていました。


今日の若い人々にはピンとこないようなことかもしれませんが、これも記録のひとつとして連載しておくことにしました。歴史的な事実の記述として思い違いもあるかもしれませんが、今からでも訂正・ご批評をいただければ有り難く存じます。






          キリスト教と部落問題(第1回)


           一 キリスト教界の現況


         工藤・萩原論文について


 本稿の課題をあきらかにするまえに、現代日本における「キリスト教と部落問題」の現況について、まずその概略をみておく必要があるであろう。


 周知のごとく、近代目本の明治・大正期のキリスト教界の動向については、工藤英一氏の近著『キリスト教と部落問題―歴史への問いかけ』(新教出版社、一九八三年)をはじめとした諸論稿(注1)をとおして、また戦後のキリスト教界における部落解放にかかわる取りくみの、いねば開拓的創草期ともいうべきあゆみを紹介した萩原俊彦氏の論稿「プロテスタントキリスト教と部落解放運動−創立期キリスト者部落対策協議会を中心に」(『部落問題研究』第六九輯、一九八一年)をとおして、それぞれその概要は鳥瞰することができる(注2)。


 したがって本節では、工藤・萩原両氏とも主題的には論じられていないその後の動向を中心に、その経過の一端を略述することにする。〔なお『部落問題研究』第七五輯(一九八三年)で、萩原俊彦氏が聴き手になって「キリスト教と部落問題の研究−−工藤英一氏に聞く」が収められている。「賀川問題」ほか、今日の研究課題とかかわる貴重な「証言」として興味ぶかい。(注3)〕


 先の萩原論文で紹介された「キリスト者部落対策協議会」は、キリスト教界のなかにあって自主的で、しかも組織的な取りくみとして、各方面から一定の評価をえてきたものであるが、一九六八年に第六回大会が開催されて以後、活動の停滞がめだっている。すでにその前年も大会は開かれておらず、以後一九七二年の第七回大会がもたれるまでの四、五年間、組織的にはほとんど空白状態がつづいている。


          キリスト教界の“激動期”


 一九六〇年代の後半の時期は、部落問題にかぎらず、あらゆる分野にわたる根本的な問い直しの作業が世界的規模で、しかも市民的なひろがりをもって展開された思想的な高揚期であった。キリスト教界においても例外ではなく、文字どおり“激動期”をむかえるのである。


 おそきにすぎたとはいえ、一九六七年には「第二次大戦下における日本キリスト教団の青任についての告白」(いわゆる「日本キリスト教団戦争責任告白」)が教団総会議長鈴木正久氏の名においてなされ、現代に生きるキリスト者の使命と責任の方向性が確認されている。


 ところが、翌一九六八年には大阪万国博へ「キリスト教館」を出展するという、先の「戦責告白」と相矛盾する教団決議がおこなわれたのを契機に、きびしいキリスト教批判活動が内部からくりひろげられた。その結果、日本キリスト教団の総会は一九七三年まで開催されず、その日常的機能もほとんどまひするに至った。兵庫教区においても例外でなく、一九七〇年の第二五回教区総会以降、
一九七四年の総会まで空白がつづくのである(注4)。


 しかし、こうした日本キリスト教団の機能停止の状況は、べつの側面からみれば、日本のキリスト教の歴史において、最も活発な批判的活動かすすめられた時期でもある。これほどに根本的なキリスト教界全体にわたる問いかけがおこなわれたことは、かつてみられなかったことである。たとえば、キリスト教の根本問題である「イェス・キリスト」問題、「パウロ主義」批判などの展開をはじめ、教会(宣教)論、教職論等々難間中の難問に直面することになるのである。〔しかしこれらの難問が、その後どのように解かれようとし、この激動期のいわゆる“教会闘争”がいかなる経過をたどってきたのか、ここでは直接的には立ち入ることはできない。(注5)〕


            新興グループの胎頭 


 さて、「キリスト者部落対策協議会」の停滞の背景には、右のような激動の波があったのであるが、一九七二年あたりから、部落問題をめぐってあらたな動きがみられはじめる。


 前にふれたように、同協議会の第七回大会が創立一〇周年を記念して、一九七二年に再開される(注6)。兵庫教区内でも、この年には、明石教会で部落問題の学習会(注7)が、また同協議会の加古川集会(注8)が、それぞれ聞かれている。

 翌一九七三年には、この協議会で「豊中教会I牧師差別問題」(注9)、「農村伝道神学校差別問題」(注10)などがとりあげられる。これらは、同年に大阪淡路教会に結成された「上田卓三を支持し、部落解放をめざすキリスト者の会」(注11)のメンバーなども加わり、従来の「キリスト者部落対策協議会」にひとつの傾向を与えることになる。


 同協議会は、この年に明石教会で集会をもち、活動のあり方をめぐってきびしい討議をおこなっている。そのときの報告を、加古川の今井己智雄氏は次のように記している。


 《……キリスト教会と信者の部落解放運動に対する自己批判的検討がきびしくなされ、協議会の名称と、それに関連した運動の姿勢についても率直な質問や追及がはげしくなされた。そのため出席者の予期に反して集会の空気が尖鋭化する一面もあった……》(注12)


 他方、この年には、同じ兵庫教区内の西宮公同教会でも、あらたな動きがはじまる。それは、先の大阪淡路教会が、「解同大阪府連・上田卓三支援」を前面に立てた活動をすすめたのと同様に、西宮公同教会も、「狭山差別裁判闘争」をかかげて、兵庫における新興「解同」に「連帯」する運動を展開しはじめるのである(注13)。


         第一七回教団総会と「狭山問題」


 そして、同年一一月、日本キリスト教団の第一七回総会が四年ぶりに開催される。そこでは、先のいわゆる「万博決議」(「日本万国博覧会キリスト教館に関する件」の決議)の誤りを認める決議が「継続審議」となったが(注14)、西宮公同教会の穴井宗司氏の名による建議「狭山決議文に関する件」(注15)は、教団社会委員会付託となるのである。


 付託をうけた社会委員会(委員長・井上良雄氏)は、翌一九七四年一月、埼玉教区の遠藤富寿氏から、二月に穴井氏と中田直人弁護士から、「狭山事件」について聞く会を開催する。そこで穴井氏は「狭山事件」の性格を「差別裁判」として、中田氏は「えん罪事件」として強調している(注6)。そして同月開かれた社会委員会で、次のような方向が確認されている。


 《まず、この裁判の性格をめぐって、単なるえん罪事件としてではなく、部落差別問題の一環としてとらえるべきだということが確認され、従来の教団の部落差別の問題への取り組み方の不十分を自己批判する必要かあること、こんごは教団全体としてこの問題に対応する態勢を強化すべきこと、についてはほぼ合意に達したが、その態勢の具体的な内容や、当面社会委員会として取るべき方策については一致をみなかった。》(注17)


 そして、「上記の合意点について社会委員長から戸田教団議長に報告して善処を求めることになった」(注18)という。
 しかしこの時点ではまだ、社会委員会は一定の主体性を確保しており、関係資料の収集についても「なるべく広い範囲の資料を用意したいと考え、今后もその方針である」(注19)ことを告げ、「教団新報」のこの問題に関する報道に西宮公同教会が抗議した件についても、「教団新報の編集権の尊重」(注20)をのべている。
 なお、西宮公同教会は幹事会の名で、これにたいする反論をおこない、「部落差別と闘い続ける人々に学び、私たちの闘いを通じて連帯すること」(注21)を主張して、社会委員会の「『主体性』ウンヌンなどシャラクサイ」(注22)などとなじっている。


 右のような経過のなかで、同年三月、井上社会委員長は、「『狭山差別裁判』について」と題する次のような文書を、教団諸教会にむけて発表するのである。


 《……この事件は、主イエスがすべての人のために死に給うたことを信じ、従ってあらゆる差別と両立し得ないわれわれの福音信仰にかかわる問題といわねばならない。この事件を契機として、諸教会がわが国になお根強く存在する部落差別に目を開き、これを自らの問題とすることを強く訴えたいと思う。
 教団はすでに一九六六年の総会において「日本基督教団社会活動基本方針」を決定(中略)しかし、その後の教団がこの問題にどれほど取り組んできたかといえば、はなはだ不充分であったといわざるを得ない。このことの反省の上に立って、今後教団は、永続的にこの問題を担わなければならない。
 第一七回総会では、今回の建議については何の論議もなく社会委員会に付託されたが、将来の総会では、部落差別問題全般に対する教団の今後の取り組み方が充分に論議されなければならないであろう。社会委員会としても、そのために努力したい。》(注23)


 しかし、同年一二月に開催された第一八回教団総会においても、①第一五回総会のいわゆる「万博決議」の誤りを認める件、および②「東京神学大学機動隊導入の誤りを認める件」をめぐっての集中論議がおこなわれ、建議「狭山差別裁判第二審、東京高裁寺尾裁判長による差別判決(有罪無期)に抗議し狭山差別裁判の取り消しを要求する件」は審議されることなしにおわっている(注24)。


         「解同」による「教団確認会」


 このような、教団内部の状況を背景として、一九七五年五月、「部落解放同盟」による「日本キリスト教団」へのはじめての「確認会」がおこなわれる。そしてこれを契機として、教団の取り組みは、新しい局面の展開をみせはじめる。


 この「確認会」を教団側は「会合」とよび、「大阪府大阪市、東京都の同和対策指導部のあっ旋による」ものだとしている。もちろん「あっ旋」に至るまでには、一定の事前の動きがなければならない。それは、先の大阪淡路教会の「部落解放をめざすキリスト者の会」の取りくむ「豊中教会I牧師差別発言問題」が、「単に一牧師、一信徒、一教会の問題でなく、その教会が所属する日本キリスト教団大阪教区あるいは日本キリスト教団そのものの問題であるとし、精力的に教区や教団の責任者にも働きかけた」といわれているところからも、また「解同」側から西岡智中執、木津譲大阪府連執行委員らが出席して、以下に記す十一の「差別事例」を提示し、それが事実かどうかの確認と教団の責任を追及していることからも知ることができる。つまり、「めざす会」や「キリスト者部落対策協議会」の人々が、「解同」へ左の「差別事例」リストを提示し、行政関係者らが「あっ旋」して、この「確認会」が設定されているのである。


 ところで、そのリストはあまりに粗雑で誤りの多いものであるが、「解放新聞」に「差別表現が指摘された出版物」として報道されたものを、句読点など原文のまま引用しておく。(ゴチは誤りの部分)


《①貧民の心理(賀川豊彦)「部落民は異民族である」 ②歴史を担う教会
(賀川ハル)
〔引用者注‥「歴史を担う教会」が正しければカッコ内は(雨宮栄一・国安敬二)となり、(賀川ハル)が正しければ「月刊・キリスト」となるはずである。〕「特殊部落」を使用 ③キリスト教研究(野本真)「特殊部落」を使用 ④真心の共同体(竹中正夫)「特殊部落」を三回使用 ⑤雑誌・信徒の友(高橋三郎)「特殊部落」を使用 ⑥福音時報(平出亨)「特殊部落」を使用 ⑦日本社会とキリスト教隅谷三喜男)「特殊部落」を使用⑧東京神学大学報(長島伊豆夫)イ、未解放部落=暴力団の本拠地という差別意識 ロ、差別の実態=貧困=親のまねをして遊んで食べてはいけないという表現と他に三点あり ⑨精神衛生について(伊藤教授)「部落は教育の程度の低さ、知能の低さその他のために義務教育に行くのにも不十分なものも出ている」と記述し、また「結婚に際しては興信所で良く調査してもらうことが必要である」とも述べている。⑩健康体育概論(川畑愛義・宇田尚夫・大原純吉)「血縁を良く調べ、精神病や悪質の伝来病患者を良く調べると明記 ⑩キリスト教理入門(野義)「特殊部落」を使用。》(注26)


 そして、(注)として「いずれも『特殊部落』を『悪の代名詞』として差別的に用いている」とされ、「説教・講義については、調査中」と付記されている(注27)。〔「解同」が各教会でおこなわれている「説教」や関係大学などでの「講義」を「調査中」とはどのような意味なのか、「めざす会」や「キリスト者部落対策協議会」が独自に「調査中」なのか、それとも「連帯」して共に「調査中」なのか、よくわからない。いずれにせよ、あまりの杜撰さにおどろかされる。〕


 なお、こうした「解同」による「確認会」が設定された背景には、キリスト教団内部の状況を打開するために「部落差別問題」が取りあげられたという側面も否めないようである。その経緯の一端は、小柳伸顕氏が、「大阪教区は、例の万博問題で教区機能が停止していて突破口がなかなかみつからなかった」(注28)と率直にもらしているところからも知ることができる。


 注

(I)工藤英一氏は、ほかに『部落問題とキリスト教』(松田慶一・益谷寿と共著、日本キリスト教団出版部、一九六三年)、『社会運動とキリスト教』(日本YMCA出版部、一九七二年)、『明治期のキリスト教』(教文館、一九七九年)などの著作で「部落問題とキリスト教」の歴史的研究にあたる。現在、部落解放キリスト者協議会顧問と東京キリスト者部落問題懇談会会長。
(2)この時期については、益谷寿「部落解放運動とキリスト教」(前掲『部落問題とキリスト教』所収論文)ほかキリスト者部落対策協議会機関紙「荊冠」 一九六一年創刊)各号参照。
(3)これについては、『部落』一九八四年一月号の「研究動向」欄でみじかく紹介した。なお、本稿ではいわゆる「賀川問題」について取りあげることができなかった。さしあたり工藤論文がその経過を知る上で有益である。最近も角樋平一「現代キリスト教界における「賀川問題」」(『部落解放』一九八三年二一月号)が発表されており、いずれ検討を加えておくべき課題である。
(4)この間の経過については、日本キリスト教団兵庫教区『第二六回教区総会にのぞむ常置委員会の姿勢』一九六四年)参照。
(5)さしあたり、『イェス・キリスト――テイーチ・イン・記録』(日本キリスト教団宣教研究所、一九七〇年)、田川建三『批判的主体の形成』(三一書房、一九七一年)、滝沢克己キリスト教と日本の現状況』(新教出版社、一九七二年)、延原時行『現代キリスト教批判ノート』(加茂兄弟団自家製、一九七六年)など参照。
(6)「荊冠」一九七二年二月二〇日号参照。
(7)加辺永吉「明石教会における部落問題の取組み」(日本キリスト教団兵庫教区「社会部ニュース」一九七七年一一月一日号)参照。
(8)「荊冠」第二〇号(一九七四年四月一日号)参照。
(9)「荊冠」第二二号(一九七四年一一月三〇日号)参照。
(10)「荊冠」第一九号(一九七三年一〇月三一日号)参照。
(11)この会の結成前後の経緯については、小柳伸顕「日本キリスト教団の軌跡―教会と部落差別」(『伝統と現代』七三号、一九八一年一一月号所収)参照。
(12)「荊冠」第二〇号参照。
(13)「公同通信」号外 現認報告・狭山差別裁判(一九七三年一一月二〇日号) 〔前掲『第二六回教区総会にのぞむ常置委員会の姿勢』所収〕参照。
(14)日本基督教団『第一七回日本基督教団総会議事録』参照。
(15)日本キリスト教団機関紙「教団新報」一九七四年三月二三日。
(16)これらの経過については、日本キリスト教団発行「働らく人」一九七四年三月一日)、「教団新報」一九七四年二月二三日)ほか参照。
(17)(18)前掲「働らく人」参照。
(19)(20)「教団新報」一九七四年三月、日付不詳。
(21)(22)「教団新報」一九七四年四月二七日。
(23)「教団新報」一九七四年四月六日。
(24)日本基督教団『第一八回日本基督教団総会議事録』参照。
(25)前掲、小柳伸顕論文、五四頁。
(26)(27)部落解放同盟機関紙「解放新聞」一九七五年五月二六日。
(28)前掲、小柳伸顕論文、同頁。