連載「キリスト教と部落問題」(第2回)(1984年7月『紀要・部落問題論究』第9号)


宮崎潤二さんの作品「モスクワ赤の広場






          キリスト教と部落問題(第2回)

          
          1984年・『紀要部落問題論究』


    
            一 キリスト教界の現況


   (前回の続き)


     「部落差別問題特別委員会」の発足


 さて、この「確認会」には、日本キリスト教団から小野一郎副議長ほか、傍聴を含め一四名が出席している。そして「解同」側の要求を受け入れて、教団としての「事実確認と可能な限りの総点検」をおこなうことを約束したのである。
 そうして二ヶ月後の七月、日本キリスト教団は第三回の臨時常議員会を開催し、以下の「五項目の確認」(注30)を決議する。その全文は次のとおりである。


 《 1 今日まで、教団における部落解放の運動は、一方において断続的になされたが、それにもかかわらず、差別はくりかえし行なわれてきた。われわれは、この運動が継続せず、また差別がくりかえされた理由を明確にする必要かおることを確認する。
 2 部落完全解放は国民的課題であるにもかかわらず、われわれのそれへの取り組みは不完全であったばかりか、むしろ差別者の側に立っていたことを痛感する。
 3 教団に部落を完全解放するための特別委員会を設ける。
 4 一九七六年度各教区総会において部落を完全解放するための具体的方策を決定することができるよう、各教区に要請する。
 5 各教会が、この問題に取り組むように啓蒙活動及び実践につとめる。》


 この常議員会において、特別委員七名を選任し、八月には「部落差別問題特別委員会」(委員長・小野一郎氏)の発足をみる(注31)。最初の特別委員会で、右の常議員会の「五項目の確認」に関連して、いくつかの「共通理解」の確認をしている。そのなかで、次のようにいう。


 《第二項および第三項に「完全解放」という表現があり、これは今日の政治的、社会的状況の中ではともすれば誤解をまねきやすい表現であり、こんご教団が部落差別問題をめぐる政治的抗争の渦中にまきこまれるおそれもあると考えられる。しかし、部落差別問題と取り組んできた過去の歴史的事実とその意味を正しく理解しながら、今日、キリスト者として各自が誠心誠意部落差別をなくしていくための努力目標として「完全解放」という表現を理解する。また、教会は政治団体ではなく、信仰団体であることを確認しつつ誤認や偏見に出会っても、信仰の良心に立って自主的に忍耐強い歩みを続けなければならない。》(注32)


           教団議長戸田氏の「私見


 また、こうした指摘とも関連して、戸田伊助教団議長は「教団新報」の「論壇」で、「自主的に、そして信仰的に進めてゆきたい」と述べ、次のように「私見」を記している。


 《自主的とは、外からの問題提起を契機としそれに促されて動き始めたことは確かであるが、しかし、政治的発想で対応するのでは決してなく、あくまでも、我々自身の内的な問題として自主的な発想で取組んでゆくということである。従って、既成の団体のどこと直結するということはしない。
 信仰的に進めたいとは、「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イェスにあって一つだからである」(ガラテヤ三・二八)のみ言に立って進めるということである。これは差別してきたこれまでの歴史を悔い改めをもって克服し、キリストにあって始まった新しい人間関係に服従し、それを反映してゆこうという決意以外のなにものでもない。》(注33)


 しかしながら、これまでの経緯をみてもわかるとおり、キリスト教界の部落問題に取りくむ基調は、実質的には特定の運動団体のひとつである「解同」と連帯することを基本としたものであって、戸田議長の「私見」には、そうした動向にいくらか歯止めをかける意図が含まれてはいるものの、特別委員会設置後の教団は、以前にもましていっそう政治的・党派的色彩の濃い活動に偏向していくのである。


 そのことは、早くも第二回目の特別委員会で、「この委員会は、まず自分たちの正しいと思うこと〔引用者注=この前後の動向でもわかるように、この「自分たちの正しいと思うこと」とは、実質的には特定の運動団体との連帯の方向をさす。〕をやっていくべきで、それにたいする批判は相手にまかせればよく、ともかく、いろいろな立場にとらわれることなく、自主的にやっていこうという方向で了解を得た」(注34)と述べられていることからも知ることができる。


       キリスト者部落対策協議会」の名称変更


 これまで、主として日本キリスト教団の取りくみの経過を追ってきたが、その中心的な活動の推進役は、一九七二年から活動を再開している「キリスト者部落対策協議会」の人々である。


 一九七三年までは、同協議会の大会に阪本清一郎氏や木村京太郎氏の顔がみられるが(注35)、以後は「狭山問題」(第一〇回大会)、「野間宏講演」(第十一回大会)、「地名総鑑」(第十二回大会)とつづき、一九七八年の第十三回大会で名称を「部落解放キリスト者協議会」と改め(注36)、その立場もいっそう鮮明なものに傾いていくのである。


 また、詳しい経過は省略せざるをえないが、日本キリスト教協議会(NCC) においても、第二六回総会で「部落差別問題特別委員会」が一九七六年に設立されたほか、一九七八年の第二〇回教団総会では、土方鉄氏を招いた「部落差別問題講演会」をプログラムにくみこむなどしたことは記録にとどめておかねばならない(注37)。


 そしてこのころから、教団の部落差別問題特別委員会の活動のあり方にたいし、委員会の内部からあらたな方向の議論がおこりはじめる。それは「キリスト教部落解放センター」(仮称)構想とよばれるもので、翌一九七九年六月に正式に提起される。しかしまだこの段階での構想は、「もっと本格的、恒久的な構想のもとに取り組むこと」といわれるだけで、そのご次にのべるいくつかの出来事を経て、およそ二年後にようやく具体化するのである。


 その出来事というのは、一つには、同年八月、米国プリンストンで聞かれたWCRPⅢ(世界宗教者平和会議第三回大会)での、曹洞宗宗務総長町田宗夫氏の発言をめぐる問題(注39)であり、二つには、翌一九八〇年一月号の日本キリスト教団福音主義連合機関紙に掲載された京都・洛南教会高杉三四子牧師の一文をめぐる問題(注40)である。前者は日本の宗教界全体の、後者はキリスト教団内部の、いわゆる「部落問題フィーバー」の火種となったものであるが、ここではふかく立ち入れない。


         「部落解放センター」の設立  


 こうして、「部落解放センター」(仮称)の設置については、一九八〇年二月の教団常議員会で、第二一回教団総会へ提案することが承認されたものの(注41)、十一月の総会ではきまらず常議員会付託となる(注42)。そしてようやく一九八一年一月の常議員会で、それも「解同」から上杉佐一郎・大西正義両氏をその会に講師として招いて可決にこぎつけている(注43)。


 先の「町田発言」問題にたいする「解同」の第二回糾弾会は一九八〇年二月に開かれ、キリスト教関係者もこれに参加している(注44)が、その過程で「解同」は「全宗教界がこの問題を自主的にきびしく受けとめ、緊急に部落解放のために誠意をもって行動することを強く要請し、宗教者と会合を数回にわたって行なった」(注45)。その結果、「東西両本願寺天理教、立正佼正会及び日本キリスト教協議会(NCC)の五者が会合して今後の部落差別問題との取り組みを協議することとなった」(注46)。この「五者会合」は、八〇年十二月、八一年一月、二月と開かれ、「解同の緊急課題」である「措置法強化・改正」のために、署名活動など具体的行動をおこすことを決定している(注47)。


 そして、八一年一月の日比谷公会堂での「決起集会」、二月の「差別実態全国集約会」などへの参加をはじめ、三月の「同和問題にとりくむ全国宗教者結集集会」には、五一教団三連合体が結集するに至るのである(注48)。しかもその議長団に、日本キリスト教協議会(NCC)総幹事東海林勤氏が加わり、「経過報告」を教団副議長で部落差別問題特別委員長でもある小野一郎氏がおこなっている(注49)。このようにして、同年六月、「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」の結成総会をむかえ、日本キリスト教団から総幹事中島正昭氏が副議長に就任することになるのである(50)。


 こうした動きと並行して、日本キリスト教団の「部落解放センター」の組織化はすすみ、従来の「部落差別問題特別委員会」は「部落解放センター委員会」に改組されていく。同年九月の第一回委員会で、「部落差別が福音信仰に反することを告白し、絶えざる自己変革として完全解放に至るまで、部落差別との取り組みを徹底して継続する」(注51)ことを確認し、北海道から沖繩まで全教区を包含する委員構成をおこなう。そして、「現場での部落解放のための日常活動を原動力に、全国への広がりを目指していく構想(注52)」のもとに、「委員会」とはべつに「活動委員会」を設け、十一月には、大阪・四条畷市に「日本キリスト教団部落解放センター」の開設をみるのである(注53)。なお、機関紙として、「部落差別問題特別委員会」から「委員会通信」が、「部落解放センター」から「解放へのはばたき」が発行されて、現在に至っている。


 〔さらに、その後の動さとして、一九八三年一〇月には、カトリック聖公会日本キリスト教団など九教団・教派で、「部落問題と取り組むキリスト教連帯会議」が発足し、「組織づくり」と「研修会の開催」を当面の課題として取りくみを開始している(注54)。〕


 以上、最近一五年ほどの日本キリスト教団を中心とした「現況」の一端を概観した。ここではまったくふれえなかったが、キリスト教関係の学校・大学、或いは出版関係などの現状、また各教区・教会・個人の多様な取りくみ、さらに国際的な交流や「キリスト教と部落問題」にかかわる研究活動の現状など、重要な諸分野について、さらに詳しくみておく必要があるであろう。そうした課題は、こんご新しいかたちの“対話と交流・研鑽”の機会がすすむなかで、明らかになるにちがいない。


           歴史的検討と理論的検討と 


 簡単にふれるつもりの「キリスト教界の現況」が、おもいのほか紙数をとりすぎてしまったが、本稿の課題をここで確かめておかねばならない。


 先にみたように、近年のキリスト教界のこの問題をめぐる現況は、いっけん教団組織をあげた取りくみになりつつあるという点で、またより多くの人々の関心事となりつつあるという点で、際立った前進をしめしているように見受けられる。しかしながら、その取りくみの基本ともいうべき視点とその活動内容をみるかぎり、けっして単純に肯定的評価をのみくだすわけにはいかないであろう。


 ちょうどこの一五年ほどのあいだ、個人的経験としても直接的に部落問題とかかわりつづけたこともあって、しかも日本キリスト教団に所属するキリスト者のひとりとして、先にみたキリスト教界の動向には、少なからぬ憂慮を覚えながら、その責任の一端を痛感しつづけてきた。


 ただ、われわれの場合、すでにその当初から、キリスト者としての部落対策、もしくは部落へのキリスト教の伝道といった旧来の志向性からは自由であった。当時「キリスト者部落対策協議会」は休眠状態であったけれども、この協議会に属する人々との個人的交流はべつにして、組織的な参加というかたちの同伴はいちどもしないできた(注56)。


 また、一九七三年ごろからの「西宮公同教会」や「明石教会」などの、いわば新興グループの同僚だちとも、この問題では行動をともにすることをせず、さらにそのごの日本キリスト教団につくられた「部落差別問題特別委員会」の活動や「部落解放センター」の取りくみにたいしても、一定の距離をおいて批判的なかかわりかたをしながら、今日に至っている。


 それは、部落問題そのものの把え方やその行動形態に同調できないためばかりではない。そのことも重大な要件のひとつではあるけれども、同時に他方、キリスト者としての部落問題へのかかわりかたの基調そのもののなかに、積極的に同調できるものを覚え得なかったからでもある。


 したがって、今日における「キリスト教と部落問題」を検討する際、二つのことが必要である。一つは、先にみたキリスト教界のあゆみを、より正確に歴史的に批判・検討することであり、一つは、キリスト教の基礎視座そのものの批判・検討をおこなうことである。つまり、歴史的検討と理論的検討が不可欠となる。


 そこで本稿では、力点を後者において、「キリスト教の基礎視座」を、あらためて積極的に言いあらわすことを課題にしなければならない。そして、その作業は、ある意味では逆に、前者の歴史的検討をすすめる上で欠かせない作業ともなるにちがいない。


           「宗教革命」の時代 


 とはいえ、この作業は、われわれにとって容易なことではない。それは、困難をともなう難問であり、ひとつの試論を出るものではない。しかし、この作業をぬきにしては、この主題をめぐる展開はできないので、できるかぎり率直かつ簡潔に言いあらわすことにつとめたい。


 実際のところこれまで、「キリスト教と部落問題」について主題的に論じたことはほとんどなく(注57)、むしろ黙しているほうがわれわれにはふさわしい。ただしかし、部落問題とかかわりはじめて以来、というよりもはじめにキリスト教接して以来、「キリスト教の基礎視座」とここでよぶものは、ずっとわれわれの関心事でありつづけていることであって、この機会に書きとどめておくことは、われわれ自身のこれからのために、重要なことだというべきであろう。しかもこのことが、同じ問いのもとで模索する人々にとって、何か役に立つとすれば、それにすぎるよろこびはない。


 ちょうど今年(一九八三年)十一月一〇日は、宗教改革者M・ルター生誕五〇〇年の記念の年にあたり、日本においても種々の記念の企画がおこなわれているが、現代は、ルターの“宗教改革”《Reformation》を超えて“
宗教革命”《Reformation》の時代であることが指摘される。そこには、旧来見失われていた視点の回復、つまり新しい視点の発見がその出発にならなければならない。


 そこで、本稿では、「キリスト教と部落問題」の主題に即して、二において「キリスト教の基礎視座」として《解放》《平等》《自由》に関する考察をおこなうことにしたい。そして、三では再度ひるがえって、一でふれることのできなかった、今日のキリスト教界で特徴的ないくつかの視点をとりあげつつ、「キリスト教の基礎視座」の具体的な展開を試みることができれば、と考えている。以下、早速その課題にとりかかる。


                  注


(29「教団新報」一九七五年五月三一日。
(30)「教団新報」一九七五年七月二〇日、「働らく人」一九七五年九月一日。
(31)(32)「教団新報」一九七五年八月二三日、「第一回部落差別問題特別委員会記録」一九七五年八月一日。
(33)「教団新報」一九七五年八月二三日。
(34)「教団新報」一九七五年一〇月四日。なお、同委員会の正式記録には、そのことは書かれていない。
(35)「荊冠」一九七三年六月一五目。
(36)「荊冠」第三五号、一九七八年七月一日。
(37)日本基督教団『第二〇回日本基督教団総会議事録』、「教団新報」一九七八年一一月二五日、ほか参照。
(38)「教団新報」一九七九年八月一日の。緊急インタビュー”における小野一郎氏の発言。
(39)部落解放同盟は「解放新聞」一九七九年一〇月二九日号ではじめてとりあげる。この号で、WCRPⅢに出席した日本キリスト教協議会総幹事・東海林勤氏の報告が掲載されている。
(40)「高杉文書」問題については、本稿三の2を参照。
(41)「キリスト新聞」一九八〇年三月八日、「教団新報」一九八〇年三月一五目、「委員会通信」第一一号(一九八〇年三月)。
(42)「教団新報」一九八〇年一一月二九日、日本基督教団『第二一回日本基督教団総会議事録』参照。
(43)「教団新報」一九八一年二月七ロ。なお、同紙「論壇」で、小柳伸顕氏は「いささか乱暴な幕切れであったが、去る一月十三日の夜九時半、『部落解放センター』は、常議員会で可決された」と述べている。
(44)「キリスト新聞」一九八〇年三月一日。キリスト教関係から、WCRP日本委員会相談役の飯坂良明・山岡喜久男両氏らが出席した。
(45)(46)(47)「教団新報」一九八一年二月二一日。
(48)(49)「教団新報」一九八一年三月二一目、四月四日。
(50)「教団新報」一九八一年七月一八日、「委員会通信」第五号(一九八一年一一月)。
(51)(52)「教団新報」一九八一年九月二六日、同右「委員会通信」。
(53)同右「委員会通俗」。
(54)「キリスト新聞」一九八三年一〇月二二日。
(55)キリスト教界の取りくみの概要については、前掲小柳論文のぼかに、小野一郎「部落解放センター――開設までの経過と今後の課題」(日本キリスト教団発行『信徒の友』一九八二年四月)、東岡山治「キリスト教界のこれまでの取り組みと今後主として日本基督教団の場合」(『部落解放』一九八〇年六月)参照。
(56)こうした経緯の一端は、「週刊・友へ――番町出合いの家から」NoI〜23(一九六九)、『解放目録抄』一九六八年〜)、「被差別部落と番町出合いの家」(「教団新報」一九七四年)などにメモした。
(57)たとえば、拙稿「部落解放運動とキリスト者」(『福音と世界』一九七四年六月、本書Ⅵに題を改めて所収)など。