連載「キリスト教と部落問題」(第3回)(1984年7月『紀要・部落問題論究』第9号)


宮崎潤二さんの作品「北京・天壇」





          キリスト教と部落問題(第3回)


          1984年・『部落問題論究』


    (前回に続く)


           二 キリスト教の基礎視座


           1 《解放》の視座


           基本語としての《解放》


 部落問題との関連において、キリスト教の基礎視座として、まずあげることができるのは、《解放》の視座である。


 周知のように、近年日本においても“解放の神学”(注58)“民衆の神学”(注59)といわれるひとつの神学的潮流への関心が高まっている。しかしながら“解放”という言語が、現代目本のキリスト教界において、これほど自覚的・主題的にとりあげられるようになったのは、それほど古いことではないのではなかろうか。少なくとも個人的にいえば、《解放》の視座ということに注目しはじめるのは、部落問題と直接かかわりはじめてからのことにすぎない。あまりにたどたどしく多くのあいまいをのこす表現であるが、かつて一五年ばかり以前の「解放」という拙い「目録誌」に、次のようなメモをしていた。


 《……既存の制度的キリスト教用語のなかには、「解放」なる言語は未発見のままである。キリスト教の基本語の一つにあげるべきであるにもかかわらず、「解放」なる言語は『キリスト教大辞典』にものらないのである。……「キリスト教界」といい、今日の「思想界」といい、人間の基本語を見落して平気な一群とは別に、「解放」を人間の基本語として生きている一群が存在している。これらの人間解放のいぶきは、全世界的(宇宙的!)ひろがりと深さをもって、すでに燃え続けているのである。真実の思想は解放の思想である。真実の宗教は解放の宗教である。真実の人間は解放の人間である。》(一九六八年、自家製)


 しかし、“解放”といっても、その意味・内容は一様ではない。本稿で《解放》の視座とよぶものは、右にあげた。“解放の神学”や“民衆の神学”でいわれる基調と、けっして同じではない(注60)。ここでいう《解放》は、まずひとの成り立つ根源的な基礎の、いねば「神人の関係性」の消息をいう。この「神人の関係性」を、聖書では《インマヌエル》(「神我らと共にいます」の意)と言いあらわされていることは、周知のことであろう(注61)。そして、この《インマヌエル》の消息は、すべての人(物・世界)に直接に与えられている消息である。


 近代の人間は、ふつう《インマヌエル》といっても、それは単に空想的なことであって、確かなことはただ、この「わたし」という人間かいるという事実であるとして、それ以上疑わないのが通例である。


つまり、この私か存在しているという事実そのものに、どのような消息が含まれているかについて、積極的な把握を欠いたまま、欠いていることさえ疑わないのが常である。


 しかし、キリスト教における《神ノ福音》の核心は、何よりもまず、ここにかかわっているといわねばならない。われわれは「神人の関係性」のもとで、はじめて事実存在している。聖書にみる「ナザレの大工・イエス」は《インマヌエル》とよばれる(マタイ一:二三)のであるが、すべての人のもとにある《インマヌエル》=「神人の関係性」に照応して、忠実に生きたひとりの証人でもあるのである。


         カール・バルト滝沢克己


 キリスト教神学において、ことに二〇世紀の神学界において、この「神人の関係性」に照応した神学的営みをつらぬいたのは、いうまでもなく、カール・バルト(注62)である。彼は生前いちども来日しなかったが、日本のキリスト教界においても、今日もなお尽大な影響を与えつづける神学者のひとりである。よく知られるように、彼の神学の新しい出立点は、名著『ローマ書』でも明らかなごとく「万人の問い」であり「万人に関係」(注63)するところの、先の「神人の関係性」《インマヌエル》の「発見者たる喜び」(注64)にあった。


 若き日、このカール・バルトの人と神学に出合って、さらに新しい一歩をすすめたのは、滝沢克己氏である。われわれが、部落解放の課題とかかわって「キリスト教の基礎視座」をたずねるとき、この両者の、なかでも滝沢氏の探求のあとに学ぶことは、有益であるばかりでなく不可欠な作業であると思われる。


 滝沢氏によれば、カール・バルトの功績は、「聖書のイエスに導かれて、人間イエスにおいて、また自己白身を含めてすべての罪人のもとに、イエスとして現われたインマヌエルの神(ないし「第一義の神人の接触」、絶対に不可分・不可同・不可逆的な神人の原関係)を『発見』したところにあった」(注65)。ふつうキリスト教といっても、カール・バルトや滝沢氏のみている《インマヌエル》「神人の原関係」と言いあらわされる消息が正しくみられているかといえば、残念ながら、それはきわめて稀である。


 しかし、誤解があってはならないが、だれそれの「発見」などといえば、いかにも特別のことのようであるが、そのこと自体は、すべての人のもとに直接に与えられている「神人の原関係」であって、だれにでもすぐわかるはずの消息なのである。


 ところがどういうわけか、生来のわれわれは、この消息を「未発見」のまま生きつづけているのである。そして、時到ってわれわれにもこの「発見」がおこるとき、旧来のものの考え方・感じ方の根本的な転回が生起するのである。滝沢氏は、力−ル・バルトにその消息をみるのであるが、つづいて次のような重要な指摘をおこなうのである。


 《……その欠陥はイエスその人において、インマヌエルⅠ(神の原決定)とⅡ(人の自己決定)を十分明らかに区別せず、後者(すなわちナザレのイエスという姿)の登場によって前者(すなわちインマヌエルという原決定)が始めて成立したかのような考え方の一片を残していた点にあった。絶対無条件に事実している神人の原関係=永遠に揺ぎなく措定せられた生命の岩のうえに、十字架の死に至るイエスの一生は一歩々々実現したのに、逆にキリスト教会の主柱となったその十字架の姿によってその土台である生命の岩が置かれたかのような倒錯がそれである。》(注66)


 こうした「倒錯」は、じつはキリスト教成立以来、清算されずに今日に至っている、最も重大な病根である。滝沢氏は、一九三〇年代に力−ル・バルトのもとで学びはじめてすでに五〇数年の時を経て、いっそう厳密・明晰に「聖書のイエスその人の存在/活動に秘められている二重性−−インマヌエルⅠとⅡの独一無比の区別、関係ないし順序−(注67)」を明らかにするために細心の注意を傾注するのである。


 われわれが、ここで《解放》の視座とよぶものは、はじめに記したごとく《インマヌエル》「神人の関係性」が、すべてのひとのもとに措定され、働き、促されている、その消息をいうのである。



            2 《平等》の視座


             万人の平等性 


 「キリスト教の基礎視座」として、ここでは、《平等》の視座を確認しておくことにしたい。1で《解放》という言語が、旧来のキリスト教会においてながく基本語となりえていなかった点にふれたが、この《平等》も事情はおなじである。実際、キリスト教神学において、これまで《平等》論を主題的にとりあげたものは、ほとんどないといってよいであろう。


 しかしながら、《インマヌエル》「神人の関係性」の消息を知るとき、「キリスト教の基礎視座」として《解放》とともに《平等》も、基本語のひとつとして確認することには、何らの障害もありえないであろう。したがってここでも、滝沢氏の見ている視座には、いっそう注目すべきものがある。少し長い引用になるが、極めて重要であるので、次に掲げておく。


 《……一切の己れの思いに先立って、真実自由自在の神と、絶対に不可分・不可同・不可逆な関係において結ばれているという一点において、いやしくも事実存在するすべての人は、その神を「わたしの神」と呼んだナザレのイエスと、全く平等の位に置かれている。「わたしの父」はすなわち「あなた方の父」である。真実無限に親密・厳格なその関係は、文字どおり唯一絶対の関係であって、その間に親疎・上下・先後の別は全くない。私たちは、「宗教」上のそれを含めてこの世界内部の一切の資格を問わず、何よりもまず第一にこの根源的関係の臨在を認識するようにと、この関係じたいによって求められ、促されている。私たちが私たち自身の生の真実確かな基礎すなわち根源を求めて倦まないならば、そして時到ってこの探求を私たちのなかに生起せしめたこの絶対的関係そのものの光によって私たちの心眼が開かれるならば、私たちはだれでも、直接に、自己がただ右の根源的関係において在る―−敢えて言えば、真実自由自在な「神の子」である―−ことをとおしてのみ、絶対に神ではない人もしくは「人の子」として、実際に存在するものであることを、明晰判明に認識することができる。私たちは、己れの自然的環境、遺伝的特質、歴史的・社会的境遇、ないしは「偶然の運命」を理由に、この恵まれた可能性の発揚を怠ること、その責任を回避することは許されない。》(注68)(傍点、○印とも原文ママ


          聖書のイエスの“平等感覚”


 右の記述は、Iでもみたように、キリスト教の根本問題であるいわゆる「イエス・キリスト」問題、つまり「イエスがキリストである」ことの意味を解く上で、旧来のキリスト教の陥りやすい「イエスの神格化」「キリスト教の唯一
絶対主義」の傾きから解き放つ「基礎視座」を提示する点で、独自の意義をもつものであるが、さらに、人間存在の絶対無条件の平等性を、「イエスのペルソナ」理解から明晰にした点でも、けっして無視できるものではない。


 そしてまた、この「絶対無条件の平等性」は「必然かつ当然に、一面『すべての人』を超えて、『すべての物』の絶対平等の位にまで拡がるとともに、他面この世界の内部に現成するあらゆる秩序の根基・根源を成す」(注69)ことが了解されてくるのである。


 このように、すべてのものが絶対に平等であることを、動かしえない事実として、また「人間の正・不正、善悪以前の端的な事実、文字どおりすべての人に成り立ってきている人間存在の事理」(注70)としてみることができるかどうか、「キリスト教の基礎視座」として重要なポイントである。


 ここで「絶対平等」といわれるものは、くりかえしになるが、「人間世界内部の主従・上下・先後の関係とはまったく次元を異に」(注71)するものであって、「私たちが他の人々とちがってこれこれの者であるとか、かくかくのものを有(も)っているとかいうことを盾に、この事実を消すことはできない。私たちがそれを肯定しようが否定しようが、この事実の真理は微動もしない」(注72)ことはいうまでもない。この「絶対平等」の位=基盤に照応し、促されて、ものをみ、表現するところに、ひととしての自然なあゆみが現出するのである。


 聖書のイエスの言動には、こうした《平等》感覚とでもよべるものがいきづいている。例えば、次のようなことばは、その消息をよく伝えているようにおもわれる。


 《……あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。》(マタイ二三・八)
 《……なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。》(マルコ一〇・一八)
 《……敵を愛し、迫害する者のために祈れ。……天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。》(マタイ五・四四〜四五)


 こうした、《平等》感覚が、われわれの基礎視座として発揮されるかどうか、それは現代に生きるわれわれにとって、当面する困難な諸難問を解くための、重要な鍵となるにちがいない。



            3 《自由》の視座
       

           “自由な思惟・自由の人”
 

 「キリスト教の基礎視座」として、第三に《自由》の視座をあげねばならない。これまで略述した《解放》《平等》の視座と同様に、ここでもその根本的な《自由》の把握が求められる。


 つまり、前にもみたように、近代人の共通した考え方のなかには、われわれがものを作り、行動をおこしたりすることは、まったく自明のことであって、人間が「自由な主体である」こと、また「人間として存在すること」は大前提のように主張される。そしてほとんどの場合、この「『である』という一つの繋辞、『存在する』という一つの事実それじたいに、どんな大変なことが、驚天動地というもおろかな一大事が、厳乎として秘められているかについては、全然思いを致さない」(注73)というのが実情である。こうした実情は、キリスト教界においても例外でないのである。


 しかし、あらためてくりかえすまでもなく、右の「一大事」には、われわれがそれに気づくと気づかぬとに関係なく、第一義的な意味において、《インマヌエル》「神人の関係性」の消息が働いている。したがって、人間の《自由》も、まずこの「神人の関係性」のもとでいわれてくることでなければならない。


 聖書のイエスにおいて、「父の御意」(マタイ一二・五〇)=インマヌエルの神こそ《自由》の基礎であって、日々あたらしくこの基礎に信従することが、信仰であり行為であったのである。


 だからこそ、《インマヌエル》の「発見者たる喜び」に生きたカール・バルトも「自由な思惟・自由の人」(注74)のひとりとしてみることができるのである。そして、ここでの《自由》は、「私たち人間が与えたり奪ったりすることはおろか、これを保ったり棄てたりすることさえ全然不可能な・絶対に自由な不可視の・決定が、いまここに、厳存する」ということができるのである。


          イエスの自由閔達さの秘密


 こうした《自由》の視座に注目しつつ、独白の視点を提起する神学者のひとりに、延原時行氏(注76)がある。すでに二〇年近く、滝沢氏との興味深い交流・対話がつづけられているが、その旧稿『「イエスとキリスト」問題へのanalogia actionis(行為の類比)の提言(増補版)』(BAMBINO叢書I、一九七一年)で、「イエスの行為」を「福音」(=原事実)への直接の即応としてとらえ、その自由闊達さの秘密を解明している。


 ここでは、詳しく言及できないが、イエスの生涯の「基本線」を、①安息日に反してまでの癒しという人間愛(対人性に立つ)、②これを断罪するユダヤ教への宗教批判(社会性に立つ)、③そのことを通じて、ローマ帝国への権力批判(一人性に立つ)の三つにみて、それぞれが有機的に関連しながら一つのダイナミックスをなして、遂に十字架刑による死に至る(注77)、とみる。


 これとは対照的に、イエスを裏切り・逃亡し・見棄て、その結果イエスを殺させた弟子たちの「悪しき行為」を際立たせつつ、イエスの「正しい行為」を「人間存在の基点への直接の即応」(注78)(傍点ママ)としてとらえ、あたらしい「行為概念の自立」の根拠をあきらかにするのである(注79)。


 そして延原氏は、従来のプロテスタンティズムに伝統的な「信仰告白からのみ倫理は出てくる」といったみかたを排して、(一切のキリスト教信仰告白なしの行為」(注80)(傍点ママ)の独自性に注目する。


 こうして、「人間存在の原規範・インマヌエル」から成立してくる「信仰と行為」「言語概念と行為概念」の「相対的独立性と根源的同根性」(注81)(傍点ママ)といった「関係学」を展開するのである。


 このような、《自由》の「原規範・インマヌエル」に即応する新しい思惟と新しい行為の成立する消息にめざめること、すなわち《自由》の視座の回復は、「キリスト教の基礎視座」をたずねる上で、最も大切なことのひとつである。


 以上、不充分ながら、《解放》《平等》《自由》について、いわば第一義的な「基礎視座」にかかわる側面に限定して検討をすすめてきた。これらの詳細な吟味は、ひきつづいて取りくまなければならない課題であるが、本橋では、以下三において、部落問題との関わりで、いくらか具体的に展開しておかねばならない。


                  注


(59)“民衆の神学”といわれるものは、主として現代アジア神学の一潮流で、前記“解放の神学”と多くの点で共通する視点に立ちつつ、アジアの民衆の「現場の神学」として独白な展開をみせつつある。CCA都市農村宣教部編『民衆の神学をめざして』(新教出版社、一九八三年)など翻訳書も刊行されている。
(60)“解放の神学”にみじかくふれた拙稿「現代の危機と革命の神学」(『世界政経』一九七七年一月)、「思想の旅から―ある日の午後の事」(『鄙語』第四号、一九七七年三月)参照。
(61)マタイ二・二三。この《インマヌエル》の本格的な省察は、後に詳述する滝沢克己氏の諸論稿、とくに『カール・バルト研究』(『著作集』第二巻、法蔵館、一九七五年)、『自由の原点・インマヌエル』(新教出版社、一九六九年)および橋本鑑遺稿集『インマヌエル』(新教出版社、一九六六年)ほか参照。
(62)カール・バルトの著作は、日本語に翻訳されたものだけでも、『著作集』(既刊一一冊)、『教会教義学』(既刊二三冊)をけじめ、ぼう大な教にのぽる。
(63)(64)吉村善夫訳『ロマ書』上巻、一九頁、一五頁(角川書店、一九五九年)。
(65)(66)(67)滝沢克己『あなたはどこにいるのか』(三一書房、一九八三年)四四頁。
(68)滝沢克己『聖書のイエスと現代の人間』(三一書房、一九八一年)七九〜八〇頁。
(69)同右、八二頁。
(70)同右、二二八頁。
(71)(四に)同右、二二九頁。
(73)滝沢克己『自由の現在』(三一書房、一九七九年)一七頁。
(74)滝沢克己氏が、カール・バルトヘの追悼の一文を草したかエッセイ題。
(75)前掲『自由の現在』二五〜二六頁。
(76)延原時行氏は、一九六四年から日本キリスト教団加茂兄弟団牧師。一九七六年より南部カリフォルニア大学クレアモント神学校に留学の後、ベルギーのルーヴァン大学と米国テキサスキリスト教大学で教鞭をとり、再びクレアモントにもどって「仏教とキリスト教の対話」を講じている。また、アメリカ宗教学会(AAR)の中に新しく「仏教とキリスト教の対話」の分科会を設け、その座長として活躍している。
(77)延原時行『「イエスとキリスト」問題へのanalogia actionis(行為の類比)の提言(増補版)』(加茂兄弟団、一九七一年)、二三頁。
(78)(79)(80)(81)同右、六頁以下の注四参照。