連載「キリスト教と部落問題」(第4回)(1984年7月『紀要。部落問題論究』第9号)


宮崎潤二さんの作品「北京・北海公園」





           キリスト教と部落問題(第4回)


          1984年 「紀要・部落問題論究」


    (前回の続き)


         三 当面する検討課題


 さて、ここでは、今日のキリスト教界で部落問題をとりあげる場合の、主要な論点のいくつかを摘出して、検討をおこなう。何しろこれまで、キリスト教界の動向にたいする直接的な批判的検討は皆無にひとしく、一で概略みたような現況が、ほとんど無反省のまま継続している。したがって、「当面する検討課題」といっても、その課題はあまりに多い。


 たとえば、今日のキリスト教界の部落問題についての一面的・固定的な現状認識、あるいは部落解放運動の多様な取りくみに関する無理解なども本稿ではまったくふれることができないけれども、早急にあらためられなければならない課題である。これらについては、キリスト教界内部の努力とともに、部落解放運動の側からの地道な働きかけをとおして、正しい部落問題認識と解放運動への理解が根づくように、いっそう地道な“対話・交流”活動の展開を期待したい(注82)。


 そこで以下、「キリスト教の基礎視座」ともかかわって、キリスト教界が独自にかかえている当面の問題点を取りあげる。



   1 「部落解放はキリスト教の本質的課題である」ということについて 


 “強制”を排して自発的取りくみを近年、部落解放の課題はキリスト教の根本にかかわる本質的課題であることが、しばしば強調される。たとえば、「部落解放センター」設置案の「提案理由」には、次のように述べられている。


 ≪目的―日本キリスト教団及全教会、全会員は、部落差別が福音信仰に反することを告白し、絶えざる自己変革として完全解放に至るまで、部落差別との取り組みを徹底して継続する。そのためにこのセンターを設置し、実際活動、他の諸機関や運動体との連帯活動、活動者の養成、研究、その他を遂行する。》(注83)


 まず、この点について考えておかねばならない。すでに二でみたように、人間の解放・平等・自由の基盤は、「神人の関係性」としてすべての人のもとにおかれている。人はいつも、そこに立ちかえり、そこを出発点・基点にして、新しく生きはじめるのである。そして、その新しい生き方は、人間の解放・平等・自由の発揮であり、歓びの溢れの性格を帯びている。結果的にそれは、不当な抑圧・不平等・差別への抗議となり、それをただすために共に立ちあがることともなるのである。


 このように、人間の解放・平等・自由の課題が、われわれにとって、根本的・本質的課題であることを、強調してしすぎることはないのである。その意味において、人間解放のひとつの重要な課題として、「部落解放はキリスト教の本質的課題である」ということはできるし、そういわねばならないであろう。


 しかし、あらためて指摘するまでもなく、部落解放の課題は、人間の解放・平等・自由の発揮のためのひとつの課題ではあっても、唯一の課題ではない。
 ある人が、部落問題とかかわりがあるからといって、他の人々へこれを一方的に強制するようなことはしないし、しなくてもよいのである。


 大切なことは、自らの「基礎視座」をより正確にふまえ、各々に課せられた固有の課題をになうことである。実際、部落解放運動において、堅実に確信をもって取りくむ人々は、他の人々にたいして、何か強制的・強圧的なふるまいはしない。むしろ、他の分野で活動する人、あるいは立場を異にする人にたいして、つねに聞かれた態度がいきづいているものである。


 しかしながら、今日のキリスト教界にみられる一般的傾向は、のちにもみるように、どことなく強制的な、痙攣した過熱がみうけられる。せっかくのかかわりが、ただ「部落解放」というスローガンのみひとりあるきをして、結局のところ、たんなる消極的・否定的な“差別糾弾”“告発”“問題提起”に過熱するにとどまる場合が少なくない。痙攣した過熱は、その過熱の分だけ、深い分裂を生じる。それはときとして、暴力を伴うことともなって、ますます混迷をよぶのである(注84)。


          「高杉文書」は“差別文書”か


 なお、このことと関連して、いまだに未解決のまま進展をみない「高杉文書」問題に言及しておく。


 この問題は、一ですこしふれたように一九八〇年二月、宗教界が「町田発言」問題で「解同」の糾弾がすすむさなか、部落解放キリスト者協議会が、日本キリスト教団福音主義教会連合の機関紙(一九八〇年一月号)で発表した高杉三四子牧師の「わたしの牧会と伝道」を「差別文書」であるとして、「キリスト新聞」(三月一日付)で「公開質問状」を出して以来、いまも継続しているものである。


 「差別文書」と指摘された部分は、次の三個所である。


 ≪1 ここ京都駅裏、東九条一帯は、山谷か、釜が崎のような所だ」、2「東九条のもつ多くの問題、在日韓国人の問題、部落差別の問題、貧困の問題、キリスト者の善意や親切では解決できないことばかり。政治に結びつけて活動したくなる誘惑にさらされながら、教会は教会だけができることに重点をおかねばならない」、3「私の言い方によれば在日韓国人の問題、部落差別の問題は、牧師が片手間でするような仕事ではない。そのことに召命をうけた人が、めされてなすべきわざである……」》
 

 これにたいして、前記「協議会」のほか、部落解放センター委員長小野一郎氏からも「高杉発言は差別の助長につながるもので、教団の活動に対する挑戦といわねばならない」(注85)といった批判の声があげられていく。


 その後、福音主義教会連合からの公式的な見解は、「公開質問状」から二年後の一九八二年四月に発表(注86)され、これにたいして日本キリスト教団大阪教区が同年一一月に、「高杉文書問題に関する経過と見解」を公表している(注87)。「連合」は「高杉文書」の正当性を論じ、「教区」はその差別性を論じて譲らない。


 もともと、この「高杉文書」が問題となった背景には、日本キリスト教団内部の複雑な事情もあるのであるが、率直にいって、この「高杉文書」を「差別文書」と断定した最初の判断に無理があるようにおもわれる。


 また「公開質問状」のあて先が、執筆者の高杉牧師でなく、「連合」にされていたことも不可解である。組織レベルの論争はそれとして意義のあることかもしれないが、「高杉文書」のような、牧師(あるいは教会)の根本姿勢にかかわることがらについては、個々の見解を率直に提示して、相互理解と相互批判を展開してこそ、生産的な意義があるのである。


 なお、この「高杉文書」を「差別文書」と断定する人々は、おおむね次のような見方に立っている(注88)。


 《すべての者は傍観者であってはなりません。(中略)傍観者であることは差別する者の側に立つことであり、差別に手を貸すものであります。(中略)差別者が、自らの差別体質を認め、差別の実体(ママ)を学び、被差別者の苦しみを知るところから、真の解放運動は始まるのです。(中略)被差別者でない者は、差別者であるという認識を先ず、私たちは持たなければなりません。》(注89)


 こうした見方の問題性については、次の項で検討したい。



     2 “差別体質”の“悔改め”などの強調について


       「悲しき面容(おももち)」を脱する視点 


 「自己の差別性」「教団の差別体質」を「悔改め」「反省する」といった論調で色どられるのが、宗教界の一般的傾向である。ここでは、この問題を考えておかねばならない。


 まず、キリスト教界のこの分野における「指導者」の位置にあるふたり、有近康男氏(部落解放キリスト者協議会会長)と小野一郎氏(日本キリスト教団部落解放センター委員会委員長)の共同執筆である「部落差別問題と今日の課題」の結びで、次のようにいう。


 《……自己の差別体質を鋭く糾弾されることに対して、その痛みをとおして、差別される者の痛みのはかり知れないことを知ること。そして、悔改めて、自己自身の差別性の解放を主に祈ること。そこから、立ちあがって、生涯をかけて、自らの日常生活の中で、差別を憎み、差別のない人間社会をめざして誠実な歩みを生きる限りつづけること。これ以外に道はないと思われる。》(注90)


 こうした表現は、いまでも「解放教育」関係者に共通しているが、とくに「糾弾」を受けて、そこではじめて部落問題の重大性に気づかされた人々に、よくきかれる声である。


 もちろん、こうした考え方が、全面的に誤っているのではない。それは一面、誠実かつ良心的で、しかも熱意にみちた「決意」の吐露であるにちがいない。問題はただ、その熱意の出どころ、その「決意」の基調がいかなるものかである。


 二でみたとおり、第一義的・根本的意味において、われわれ自身の「差別体質」に気づかせ「悔改め」を促させる当のものは、《インマヌエル》なる「神人の関係性」の促しにほかならない。この「神人の関係性」に覚醒させられて、はじめて生起することである。


 言いかえれば、この「神ノ福音」(赦シト審キ)によって、ありのままの自己が絶対無償で受け入れられていることを知るのである。だからこそ、その基調は、前にもみたように「歓び」の溢れの性格を帯びざるをえないのである。けっして「悲しき面容」(マタイ六・一六)ではありえない。


 また、人間の「差別体質」といわれるものも、いわゆる運命的なものではない。それは、否定的で根拠のない、ただ「虚しきもの」(聖書で「悪魔」「サタン」などとよばれる)のさそいにのるものである。


 逆に、人間の事実存在にはじめから、すべての人に措定されている積極的なものは、「神人の関係性」そのものの働らきと促しとしての「解放・平等・自由」である。われわれはみな、この幸いな「神人の関係性」をおうて、この世に生を受けているのである。


 そうであるからこそ、人間の解放のために、多様なかたちで共に力をあわせることができるし、あわせなければならないのである。そこで、はじめて自らの罪を、ごまかすことなくなげき悲しむこともできるのである。


          「差別・被差別」を超える視点


 ここで、小笠原亮一氏の、次の主張にもすこしふれておく必要かおる。


 《……解放運動における糾弾の是非が問われる場合がよくある。糾弾ではなく教育を、という声もきかれる。しかし、いずれにせよ、人々が、自己の差別性に気づき、自己変革することが如何にして可能か、という問題に帰着する。(中略)私は、そのような自己認識に到達するには、社会科学的な認識もさることながら、真に他者の立場に身をおいて自己を見つめることが必要だと考える。(中略)糾弾によるにせよ、教育によるにせよ、自己の差別性の認識は、結局は、自己批判的、自己糾弾的認識である。》(注91)(傍点、鳥飼)
また、ほかの個所では、次のように述べる。


 《……なによりも大切なのは、他者からの視点、被差別の側から自己を見ることを学ぶことだと考える。そしてさらに、被差別の側からの視線や声を通じて、その彼方からくる絶対他者の視線を感じ、声をきくことだと考える。》(注92)(傍点、鳥飼)


 小笠原氏の思考の枠には、特に宗教界に多く残っている、いわゆる「被差別側の人間」と「差別側の人間」をまずたてて、その上で両者の関係を問う方法から脱しえていないところがある。そして、「その彼方」に「絶対他者」をおくのである。


 こうした見方に、ほとんどのキリスト者は疑問をはさもうとはしない。しかし、本稿で「キリスト教の基礎視座」とよぶものは、その基調において、根本的な相違がある。では、どこにその相違はあるのだろうか。


 それは、何よりもまず、「神人の関係性」においては、「差別の側」か「被差別の側」かといったことは、全然問題にならないということが、はっきりとみられていない点である。


 すべての人のもとに、この「神人の関係性」が措定されている。「自己」は「神人の関係性」において成り立っており、ほんらいの意味での「自己変革」は、「単なる目己」からとか、単なる「他者」からではなく、この「神人の関係性」からおこることは、先にみたとおりである。


 「自己」とか「他者」は、ポツンとそれだけであるのではない。はじめから「神人の関係性」のもとで成り立っているのである。「被差別の側」にあろうと「差別の側」にあろうと、この「神人の関係性」の外にあるものはない。


 したがって、小笠原氏がここで「自己批判」とか「自己糾弾的認識」とよぶのも、単なる「自己」を出発にするのではなく、この「神人の関係性」においてみられる新しい「自己」理解のもとで言いあらわされるものでなければならない。


 また、右の点が明晰判明とならなければ、「被差別の側からの視線や声を通じて、その彼方からくる絶対他者の視線を感じ、声をきく」といった表現の危うさにも気づくことはないであろう。


 知らずしらず「差別・被差別」を固定化し、「被差別」の側を絶対視する傾きから、自他ともに解き放つ力が、すでに「神人の関係性」のもとに躍動していることを、端的に「受用」(注93)させられることこそが、われわれにとって何より重要なこととなるのである(注94)。



                 注


(82)拙稿「宗教と部落問題−“対話と交流”の前進のために」(『月刊部落問題』一九八四年一月)参照。
(83)「教団新報」一九八〇年七月二六日。
(84)たとえば、次にふれる「高杉文書」問題に関連する「事件」。(「教団新報」 一九八二年七月二四日、「キリスト新聞」同年七月三一日、日本キリスト教団福音主義教会連合機関紙「福音主義教会連合」一九八三年一〇月一〇日、ほか参照)。
(85)「毎日新聞」一九八〇年八月六日。
(86)(87)「教団新報」一九八二年コー月一八日。
(88)前掲「福音主義教会連合」一九八三年一〇月一〇日号によれば、近く福音主義教会連合の市川恭二氏による「キリスト教内部における『部落解放運動』に関する憂慮と提言」が論文として公表される予定。
(89)「教団新報」一九八二年一二月一八日。
(90)『一九八三年度キリスト教年鑑』(キリスト新聞社、一九八三年)五五頁。
(91)小笠原亮一『ある被差別部落にて』(日本キリスト教団出版部、一九七六年)八三頁。小笠原氏には他に『共に在ること』(同出版部、一九八二年)の著書がある。
(92)同右、一二一頁。
(93)カブ・グリフイン共著『プロセス神学の展望』(延原時行訳、新教出版社、一九七八年)二七四頁の「訳注3」で、enJoymentの訳語として「受用」とした点にふれ、この概念には受ける面と、受けたものを自ら用いる面とあるという。
(94)小笠原氏の主張にふれて批判的に検討した拙稿「部落解放論の基調を問う−−全国水平社「創立宣言」の批判的検討」(「九州大学新聞」一九七八年一〇月二五日号、所収)参照。