「部落問題との出合い―神戸からの個人的報告」(第4回)(1995年、野洲キリスト教会)


宮崎潤二さんのスケッチ「琉璃廠(りゅりちゃん)18世紀頃文人たちが集まった。屋根のかたちに特徴を持つ街並み。書画骨董・文房の専門店。北京にて」


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           部落問題との出合い(第4回)


            神戸からの個人的報告

           
           1995年 野洲キリスト教


    (前回の続き)


           5 部落問題の解決にむけて


 ようやく、部落問題に直接触れることになりました。私自身は、長田区の下町・番町に来て初めて、毎日の生活のなかでこの部落問題に出合うことになりました。


 1968年当時は、まだまだ問題がいっぱいで、どこから問題解決の手を付けたらいいのか手探りのときでした。でもやっと1965年に同和対策事業の「答申」が出されて、この問題を国の責任で総合的に解決しなければならないのだという国の方向性が提示され、世論も大きく動いていくところでした。
 

 けれどもまだ「答申」が出ただけで、特別の法律的措置が講じられたわけではありません。私たちは新しい生活を始めた翌年の1969年にその法律ができるのです。これに則って、国や県、各自治体が本格的に解決に乗り出していくのです。


 この法律は時限立法で最初10年間でしたが、この法的措置は3年延長されます。1982年に「同和対策事業」という名称の法律は区切りをつけて、新たに「地域改善対策特別措置法」というものに改めて5年の継続となり、さらに略称「地域改善財特法」として5年。そして1992年から5年延長されあと1年余りで、長かった部落問題の解決のための特別措置が1997年の3月で終結を迎えようとしています。何と28年間になるのです。(注記:実際はさらに5年間、2002年3月末まで継続して終わりになります)


 私たちはこの間、専らこの部落問題の解決にむけて関わってきた歳月でした。しかし私たちにとって、教団・教区での部落問題の関わりということには、直接的には殆ど関係をもつこともなしに、むしろ地域のなかで、まったくモグラのように、地域の人々と一緒になって、この問題の解決に取り組んで参りました。


 まさにはじめの10年余り、1970年代は、疾風怒涛の時代でした。それで神戸でどんなことをしてきたのか、簡単にお話をしてみたいと思います。


 1969年当時は、やっと部落解放運動が、国の動向もあって大きく動き始めた時でした。なにしろ、人口が1万人を越える大きな地域ですから、そこのまちづくりは一挙には進みませんでしたが、私たちは地域の住民のひとりとして、何のわだかまりもなしに受け入れられて、まちの自治会づくりに関わりました。子供会をつくっていろんな取り組みをいたしました。


 自治会の大きな仕事は、地域の不良住宅をどうして改良していくのかということが第一の課題でした。共同便所、共同水道が多くのこされていましたので、自治会で力をあわせて薬剤散布などを続けておりました。


 また、当時はまだ子供たちの長期欠席、不就学の問題もありましたが、「識字学級」の取り組みも必要でした。「あいうえおからの学び」ですが、借金のために夜逃げとか自殺とかがあって、それをどうして自立した生活を建て直すのかという課題で、「厚生資金利用者組合」を新しく組織して、貧しさからの自立の助けあい運動が始まりました。


 そしてまた、生活の自立のために仕事保障を実現させるために「自動車の運転免許」を取得するために「車友会」という組織をつくり、自動車学校に入学するための法令や構造の予備学習をするなどしながら、私たちもその取り組みのなかで免許を取得しました。


 神戸には30近い同和地域があって、市街地に8つの大きな地域が存在していました。ゴム工場で働きながら、安い日給・月給で、一日休めば大変な痛手でしたが、それでも皆が協力して、市役所にでかけて交渉し、役所の方たちに要求する。はじめの10年近くは、行政に制度確立を求めて、皆が大変な犠牲をはらって努力してきました。この時代が一番、部落解放運動として値打ちのあったときでした。みんな誇りをもって闘い取ったという、熱い日々でした。


 昭和46年(1971年)ですが、問題を本当に科学的な根拠に基ずいて、行政も教育も住民も取り組めるために同和地域の総合的な実態調査をする要求をだして、実施することができました。これは、その後の神戸におけるこの問題の解決に大きな土台になりました。


 つまり、住民のなかには色んな考え方がありますが、住民の置かれた生活実態をどうしたら解決できるのかということで、住民と行政と学識経験者、また議会の方も加わって、一つのテーブルについて、「神戸市同和対策協議会」を作り進めることができたわけです。

 
 この昭和46年調査を踏まえて議論を重ね、48年には「長期計画」を各地区ごとの年次計画を含めて策定することができました。それにのっとって計画的に総合的な施策を実現させていったのです。
 

 こうした流れのなかから、このような社会問題は自主的・科学的な研究機関の必要を訴えて、1974年の春には「神戸部落問題研究所」を設立してその裏方の責任を担うことになりました。この研究所は、1982年でしたか「社団法人」の認可を得て名称は「兵庫部落問題研究所」となっていますが、主として神戸における部落問題の調査研究を続けて現在に至っています。


 1976年でしたが、当時まだ結婚差別も残っていましたが、壁を乗り越えて結婚家庭を築いているご家庭を訪ねてお話を聞いてテープ起こしをし、「結婚と部落差別」という序文を書いて『私たちの結婚―部落差別を乗り越えて』という本も作ったりいたしました。


 ところで、大変不幸なことですが、1960年代の後半から部落解放運動の中が分裂し始めていました。法的措置が出来ると一層乱暴な「差別糾弾闘争」が繰り返され、利権が絡んだり、暴力が伴ったりして、混乱が始まっていきました。特に兵庫県では、1974年のことですが、但馬地方で「八鹿高校事件」というとんでもない暴力リンチ事件が起こりました。
 

 神戸では、そのような暴力事件を引き起こす解放運動とは無縁な取り組みをしようということで、先程も話しましたように、何よりも第一に、部落問題を解決するために、暴力で自分の考え方を貫こうとするような解放運動とは同伴しない立場を確認しあいました。
                                      
 しかし全国的には、非常に引きつった独り善がりの解放運動が独り歩きをしはじめて、1970年代以降、こうした運動団体の動向に迎合するような行政や教育が進められて、部落問題のタブーが増幅し、市民の協力と理解ある支持のを得られにくい状況が蔓延していきました。


 神戸では、その一番大事な部分で脱線をしませんでした。多くのところで「窓口一本化」ということが言われて、運動団体の意見に反対する人には「同和対策」が適用されないような事態が一般化していきましたが、神戸ではそうした間違いは、はじめから起こりませんでした。


 また、同和対策は部落出身者だけに適用されるべきだといって、「属人対策」をとったところも多く見られましたが、神戸では「属地対策」を貫きました。劣悪な住環境を改善していきます場合「属人対策」で進めますと、これまで色んな事情でこの地域に住みつかれた人々は、同和対策によってその町に住めなくなって参ります。当然国籍が違う人なども排除されてしまいます。それではほんとうのまちづくりになりませんから、神戸では、私たちのようなものも、また外国籍の方も、そこに住んでいる人はみな、まちの主人公ですから、当然事業の対象にして取り組みました。

 
 また、大阪や多くの地域で、解放運動団体に暴力団などが入り込んで利権をむさぼり、暴力で行政や企業をくいものにするような問題が頻発しましたが、あの暴力団の拠点でもあります神戸で、彼らが解放運動に紛れ込むこともさせませんでした。解放運動が私服をこやすようなこともなく、市民的な支持を得ながら、同和対策事業が取り組まれていきました。


 同和対策も総合的な取り組みが進みましたが、一定の成果が上がってきますと、「見直し」の作業が順次進められて、まもなく国の法律も終りますが、神戸市の場合も同和対策は完了・終結することになっております。


 例えば一例を申しますと、住宅の家賃など最初特別に低家賃でしたが、こんなことでは部落問題は解決しない、家賃も値上げして適正化しなければならないということから、住民のなかから「家賃の値上げ運動」の取り組みが進みました。


 皆さんの滋賀県でも、神戸のような方針で進められている地域はいくつか出てきています。例えば大津市は、殆ど神戸と同じです。実態調査を受託していくども大津にはまいりました。野洲の近く安土町には、近く調査をさせて頂く予定です。日野町はもう数年前に「完了のお祭り」をなさいました。
逆に、皆さんの野州町では逆の方針が出されて、近江八幡市も同じようですが、いつまでも部落問題で混乱が続いているようにお聞きしていますが・・・。


 同和問題は、日本における封建的身分差別の残滓・残り物です。現在、法的にも「部落民」などという身分は存在しません。もしも今日「私はもと武士、士族の出です」などといわれる人がいれば、この人は変な人・古い人だなとおもわれます。


 30年まえでしたら、実際に就職や結婚などで差別が横行していましたから大変でしたが、現在ではこの間12兆円を越える予算をつぎ込んで、総合的な改善対策を集中的に行なってきましたから当然ではありますが、かつての地域の状態は一変してしまいました。


 ですから実際、現在の若い人たちは「部落」ということを気にもしていません。もし、そんなことを気にしている人がいたら、そんなことをきにしなさんなと言います。


 以前は、長い間「同和地域」として、劣悪な環境のまま放置され、就職の時ははじめから除外され、本当に貧困と差別に苦しんできました。しかしこの30年の間に、すっかり様かわりして、最近の全国調査でも、住環境、仕事、教育など全ての面で、部落差別の結果として傷跡が残されているということがいえなくなってきたことが報告されています。


 私たちはもう早い時期から、同和対策を終結させて、残されている問題は一般対策のなかで解決していくべきであるという考えを主張してきました。これは今日の常識でもあって、その点国の方針とは大きな方針の隔たりはありません。


 ところが、まだまだ自治体によって、同和行政や同和教育の見直しもしないで、ただ法律の切れるのを待っていることろが多いのです。あるいは、これからもさらに特別にこの問題に関わっていかなければならない、という人々もあるのです。これはキリスト教会の中にそういう傾向が強くなっています。


 私たちはこれまで長い間、この問題の解決のために関わってきて、ようやくこの取り組みも終るときを迎え、展望が開けてきたことを喜んでいますのに、いまのキリスト教会では、これから本格的にやろうというのですから、まったく歴史感覚が全く違ってきてしまっています。


 同和対策はあくまでも「特別対策」ですから、一般対策を補完するものでしたから、現在のようにその必要性がなくなってきましたら、早急に終結・完了して、あと残された問題は、一般対策で取り組んでいけば良いわけです。部落問題だけを特別に、いつまで延々と継続実施しますと、逆の結果を生んでしまって、これまでの成果も台無しになってしまうと思うわけです。


 皆さんはいま日本キリスト教団から離れておられますから、教団のことを話しても面白くないでしょうが、本来教会というところは、時代の先進的な役割を担ってきました。ところが、今日の部落問題の関連では運動のあと追い、それも反動的ともいえる解放運動の後追いとなっているところは、誠に残念至極です。

 
 そんなわけで一定程度足許の地域の問題が一段落しましたら、こうしたキリスト教会の取り組みのゆがみを指摘したり、正していくことにも努力をしなければならないと考えています。これまでささやかに、単発的に教団や教区の取り組みに対して、いくらか批判的に関わってきたに過ぎません。


 例えば、どれだけ御存じか知りませんが、教団をあげて異常な形で、教団総会の決議までして、賀川豊彦を「差別者」として断罪するような動きがありました。その時には、兵庫教区でも大いにそのやりかたに批判させていただきました。みなさんはただ黙っておられましたから柄にもなく、『賀川豊彦と現代』などという本も作りました。これは思いのほか沢山の方が読んで下さいました。これでいくらかこの問題は鎮静化したのではないかとおもっています。
 

 現在でも教団は、この問題を重要な課題として「部落解放センター」を作って取り組んでいます。京都教区もその中の滋賀地区もこの問題には熱心に関わっておられるようですし、皆さんの場合もこの問題が人ごとではなかったわけです。


 「賀川問題」では、特に次の2点に触れておきたいと思います。ひとつは、この問題も歴史的にその変化を正しく見ることが大切です。歴史は大きく動いています。同和問題はいま、30年前のあのひどい差別状況ではなくなっています。この歴史的な変化をはっきりと認識しなければ、問題を見誤ることになります。賀川を差別者だと断じる人は、今の価値観から、大正初年の賀川の考え方を断罪しようといたします。時代錯誤も甚だしいことです。賀川豊彦を歴史的に批判的に検証することは大切なことですが、賀川をダシにして現在の教会や福音理解を乱暴に云々するのは説得性にかけるものがあります。
 

 もうひとつの点は、認識と行為、理論と実践の区別と関係を明晰判明にして、議論を進める必要です。賀川の認識の間違いはそれとして批判されなければなりませんが、その人の実践・行為というものまでが全く無価値かといえば、そんなことはないのです。人間の考え方と実践とは、のっべらぼうに連続していません。


 いつもえらそうなことを言っている方が、あんなこをしておられるという場合も多く、逆に、日頃いいかげんな様に見える人が、見えないところで凄い立派なことをするということも多いのです。そこが、実に面白いことです。賀川が、明治・大正・昭和、戦前期の神戸における活動は、それとして適切な評価をすべきものですし、その歴史を踏まえ、それを乗り越えて戦後の歴史も刻まれてきているのです。


 それと私自身は、部落問題を考えるうえでもっと重要だと考えていますことは、部落問題についての本質的な理解の重要性です。つまり、人間について・ものの存在について、学び直すことの大事さです。


 ものの尊厳性、人間の尊厳性とは何か、人間が本質的に「平等」である、「自由」である、とはどう言うことなのか。このことを、身に沁みて知ることが必要ではないかとおもうのです。

 
 お手元に、震災のあと書きましたものを二つコピーしました。一つは、最近発行された『日本列島の地震防災』という日本科学者会議が、専門家の皆さんを動員して作り上げられた著書に、求められて書いたものです。そしてもう一つは、1頁だけのもので『思想のひろば』の5号に入れられたものです。「インマヌエル」という原事実について、あらためて震災のなかで経験させられたことを書いています。私たちがいま・ここに、こうして存在していることに、その隠れたるを見給う神、「インマヌエル」の確かさ! この喜ばしい発見が、不思議なことに私たちのもとにも来ている、ということです。


 「自由」「平等」という事実は、決して観念や理念ではありません。すでに人間だれしもこの事実に裏打ちされていない人は一人もいないのです。「部落」かそうでないか、といったことは、私たちにとって本来何の意味もないことです。そのことを現在では、現実の問題としてもいえるような時代をむかえることが出来たのです。


(この項つづく)