「部落問題との出合いー神戸からの個人的報告」(第3回)(1995年、野洲キリスト教会)


宮崎潤二さんのスケッチ「北京・故宮の外壕」


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            部落問題との出合い(第3回)


             神戸からの個人的報告


           1995年 野洲キリスト教


    (前回の続き)


       4 新しい出発=「番町出合いの家」の誕生!


 私たちにとって、1968年(昭和43年)春からの生活が、文字どおり「自立」した生活のスタートでした。「牧師」として正式に按手を受けて、家内も同じ様にして正式に「牧師」に成りました。そしてまもなく教会を辞して、牧師ふたりだけの「教会」を始めました。
 教団・教区という組織を否定するつもりはありませんでしたが、或る意味では、既成の教会の牧師の生活から飛び出ることになったのです。


 実際、賀川先生の、特に彼の青春時代の神戸での、住民の中で苦労をともにする生き方は、それなりに私たちにとっても、大きなインパクトがありました。
 あまり知られていないかも知れませんが、賀川先生の神戸での活動拠点は二つありました。一つは広く知られている「葺合新川」でした。そしてもう一つの拠点は長田区の「番町」という地域です。「葺合新川」と言われた地域は、明治以降に神戸港の発展と共に形成されてきた大規模なスラムでしたが、ここは、日本でも一番規模の大きい同和地域として知られてきた場所でした。そこで賀川豊彦やその仲間たちは、無料の診療所や保育所などをつくり、天隣館という隣保館活動も戦前戦後を通じて、地道な取り組みが行なわれていました。


 そういうことも背景にはありましたが、私たちは継続・延長というのではなく、新しい実験として6畳一間の「文化住宅」を借金して借りまして、地域の中での生活を始めたのでした。ここで「牧師であること」「教会とは何か」「信じて生きるということはどういうことか」といったことを学びたい、喜んで修行したいという気持でした。


 つまり、当時の私の最大の関心事は「生きる」ということでした。「楽しく生きる」ことでした。そして、私にとって生きるということは、「既存の教会の中での牧師」として歩むことではなくして、むしろ教会とはこれまで縁がなかった人々との日々の出合いをしながら、自分自身が、この社会のなかで、同じ生活の苦労をしながら、自ら「自立して生きていく」ことでした。 


 あのとき、特に読み耽ったのは、内村鑑三の『聖書之研究』でした。神戸イエス団教会で辻本四郎という当時90才を越えて、なお矍鑠として名誉牧師をしておられました。わたしがこういう形で、新しい試みを始めることをとても喜んでくださり、先生の愛読されていた宝物を、先生のベッドの下から取り出して、貴重な『聖書之研究』の原本を沢山いただきました。
 

 これは私にとってお宝ですが、ご存知のように内村鑑三は「独立」を大事にしました。信仰的・精神的な独立と同時に経済的な独立を重視しました。私はもともと同志社の伝統で育ちましたから、自治・独立、教会も各個教会の自立を大事にしてきました。ほかからの干渉を許さず「自由」と「良心」を尊ぶ生き方を良しとしてきました。


 私は当初、牧師は信徒の方々の献金のみで生きるものだと考えて、そのような教会をめざしていました。多くの教会はそうですし、皆さんの教会もそのような意欲で頑張っておられると思います。そのことに、私は反対するものではありません。


 しかし私たちは、いわゆる「信徒」のいない牧師ふたりだけの「家の教会」として生きていく道を促されたわけです。そんな実験を始めることになったのです。そしてこの実験を、兵庫教区も教団も認知して、「信徒」のいない「教会」という、世界にも例のないことが、このとき始まったのです。 


 もちろんこれは、いくらか似たような試みは東京の山谷で中森幾之進先生や伊藤之雄先生がおやりになっていました。兵庫でも同志社の先輩で、延原時行先生といって、初め伊丹教会という若者が沢山あつまって盛んな大きな教会の伝道師をしていた牧師さんですが、思うところあってその教会を辞して、近くの川西市の方で開拓伝道を始め、土方などしながら「面白い聖書研究」をやりはじめておられました。延原先生は、私たちが神戸に出てきた頃から「神戸自立学校」というものを開設され、読書会を中心にした集いもされて、これは現在も継続しています。これについては、あとで時間がありましたら触れてみたいと思います。


 ですから私に取りましては、独立して生きるその場所が、或る意味ではたまたま、それまで縁があった番町という同和地域であったということでした。


 生活する場所を何処にするのかは、牧師にかぎらず誰でも案外大きな問題です。自立して生きるといっても、それは色んな生き方があります。私はたまたま、そういう場所が備えられていたというに過ぎません。それで、住む場所が決まりましたら、次は何を生活の糧にするのかということです。そこで私が選びましたのは、これまで「労働ゼミナール」で学んでも来ました労働の現場を、地域で多くの人たちが働いている職場ということから、長田区の下町にあるゴム工場を選びました。


 最初、地域の有力者の方から、あるゴム会社(ナショナルゴムといいましたが)を紹介されて、履歴書を出すように言われて、真面目に嘘を書かないで書いて出しましたら、ずらっと会社の役員の方々が揃われた面接がありました。「あなたは何のためにこんな仕事を選ぶのか、・・なにかわけありだな・・・」というわけで・・・。私はこんなかたちで働き始めたら、どうも面白くないと思いましたし、おそらく会社の方も「怪しい」と二の足を踏まれたのでしょう。その話は結局、双方不調に終りました。


 それで今度は神戸の職業安定所に出向いて、長田区にあるゴム工場の紹介をしてもらいました。求人の条件には「中学卒」とありました。そこの求人票には「中学卒」として、めでたく念願のゴム工場で働き始めました。
 
 
 ですから、私たちは初めから同和問題の解決のとまに取り組むために、この歩みをはじめたのではありません。牧師の新しい道を探し歩むなかで、同和問題に出会ったのでした。


 この当時は、皆さんもよくご存知の岡林信康さんがフォークを歌い始めたころです。あの皆さんと歩みを共にした仁保・野洲当時は、彼はまだ高校生でした。お父さんの岡林勝治牧師には、当時色々とお世話にもなりました。


 私たちが新しいスタートをした1968年の頃は、日本だけではなく世界的な思想運動の高揚期でもありました。70年アンポの前でベトナム戦争のさなかです。そして同和問題が社会問題として注目されはじめ、本格的に解決に向かって動き始めるときでしたときです。


  (つづく)