「部落問題との出合いー神戸からの個人的報告」(第2回)(1995年、野洲キリスト教会)


宮崎潤二さんのスケッチ「北京の八大名勝のひとつ:盧溝橋・北京市の玄関口」




         部落問題との出合い(第2回)


             神戸からの個人的報告


           1995年 野洲キリスト教


   (前回の続き)


     3 神戸に出て―神戸イエス団教会(賀川記念館)での経験


 辞任の意志を固めて赴任先を探していましたら、神戸の三宮の近くにある賀川先生の活動の本拠地(当時「葺合区」)につくられた「神戸イエス団教会」から招聘がありました。


 これは私達にとって、一時の「出稼ぎ」のつもりでした。就任の説教で、地方の教会の困難について申し上げ、私は出稼ぎに来て、将来はまた機が熟しましたら農村で生きたいということを申しました。


 実際のところは、農村における教会の苦労を放棄して、困難な壁を乗り切れずに出ていっているのにです! おそらく猪俣先生などの農村伝道の大先輩の目から御覧になれば、お笑い物だったかもしれません。


 私の母教会は、鳥取県倉吉市にあった倉吉教会という古い伝統のある教会で、牧師は鎌谷幸一牧師でした。高校生のときにキリスト教に出会って、そのときに牧師夫妻を通して賀川先生のことをはじめて知りました。賀川豊彦のついて書かれた本など読んで、こんな方が日本におられたことに大変驚きました。また大学生のときには、のちに「賀川問題」いわれる先生の部落に対する誤った認識のあったことなどは十分に知っていました。知ったうえで、神戸の教会には赴任させていただきました。


 神戸の教会に赴任した年は1966年ですから、部落問題の解決の歴史から見ますと、すでに仁保・野洲時代に、1965年(昭和40年)には同和対策審議会の「答申」が出されて、遅まきながら漸くにして、この社会問題を国の責任で解決していこうという機運が出てきたときでした。教会のなかでも、例えば滋賀県ではすでに東岡山治先生や代議士でもあった西村関一先生などが、開拓的な取り組みを始めておられました。


 私は学生時代、仁保に夏期伝道にくる前に大阪の西成教会に派遣されて、毎週出向いていました。1960年にはあの有名なドキュメンタリー映画「人間みな兄弟」もできて、上映運動などもされていました。


 神戸に出てきて、私たちは賀川記念館のなかに住んでいました。賀川先生の小説『死線を越えて』など読まれた方は、明治・大正期の神戸の貧民窟「葺合新川」ということで御存じと思います。この地域は、明治時代から大規模のスラムを形成して、大正・昭和、そして戦後も、地域の環境改善が手付かずの場所でした。実際まだ私たちが移り住んだ当時は、あの南京虫もいました。


 賀川先生は1960年に東京で71歳の生涯を閉じられましたから、神戸の賀川記念館はその後に建てられていて、地域のなかでは大変立派な建物でした。住んでいた部屋は狭い場所でしたが、地域の人たちの生活環境や仕事ぶりは、大きな問題を抱えたままでした。


 私自身はここで、身近な問題として、はじめて「部落差別」の問題を考え始めました。教会に来られる方は、賀川先生のフアンで遠方からこられるのですが、地域の中で暮しておられる方々の暮らしは厳しいものがありました。


 当時教会では、「家の教会」を目指して家庭集会を大事にして、地域の中で集会をもっていました。ベニヤ板で仕切られた家庭でお話をしたり、生活のことを語りあいました。話していますと、南京虫が出てきて話を中断したりして・・。


 このとき私は「伝道師」で、2年後に「牧師試験」を受けて「牧師」になる、その準備期間でもありました。私にとっては、自分がこれから正式に「牧師になる」というとことについて真剣に模索する時でもありました。


 この2年間、地域の人々との出会い、スラムでの家庭集会、「家の教会」の模索、相談活動、古着のバザー、地域の子供クリスマス、キャンプ・・・など、貴重な学びのときでもありました。


 特に、神戸に出て来てからは、牧師仲間の自主的な研究会なども旺盛に行なわれていて大きな刺激を受けました。なかでも忘れられないのは、「牧師労働ゼミナール」です。尼崎教会(種谷俊一牧師)で1週間あまり泊まり込んで、毎日労働の現場に出かけ、食事を共にしながら夜は聖書研究など語り合う、愉快な牧師研修でした。すでに学生時代にも「学生労働ゼミナール」の経験をして、相方ともそこで初めて出会ったわけですが・・・。


 初めに申しましたように、私はこれまで「現代教会の革新」をもとめて、教会はどのように新しい息吹を受け、生き生きと愉快に、おたがいに切瑳琢磨しながらともに成長することができるのかを、ずっと考えてきました。そして仁保・野洲時代には「礼拝の革新」に力点を置いて、新しい試みを進めてみました。


 しかし、問題の核心は、単に「教会の礼拝のあり方」というところにあるのではなく、教会を構成している「キリスト者」とは何なのか、信徒・牧師とは何か、説教をする私自身のこととして問いそのものが跳ね返ってきました。自分自身が、喜んで生きるということがなくして、ほかの人にうんぬんするのは・・という思いが強くなってきました。


 その意味で、この神戸に出稼ぎに出てきて最初の2年間は、「牧師」になることと同時に、新しく「牧師」とは何かを尋ね求める、長い旅の途上にある、そういう新しい旅立ちの準備のときとなったのでした。今から振り返ってみましても、あの2年間は、大切なウオーミングアップの時でした。