「部落問題との出合いー神戸からの個人的報告」(第1回)(1995年、野洲キリスト教会)


宮崎潤二さんのスケッチ「神戸市北区僧尾・晩秋の頃」


今回から掲載するものは、1995年11月29日、滋賀県にある「野洲キリスト教会」の研修会が開催され、求めに応えて標記のような題で、自由にお話をさせて頂いた折りの記録です。


明日はまた「1・17」の記念の時を迎えます。大震災を経験した年のお話です。


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           部落問題との出合い(第1回)


            ―神戸からの個人的報告―


      野洲キリスト教会 1995年11月19日


                           
         1 はじめに ご挨拶をかねて


 此の度はお招きをいただきありがとうございます。懐かしい方々も、今日初めてお出会いする方もございます。猪俣先生は、私は存じあげていますし、辻井さんのお話では常田二郎先生や斉藤文明先生も時折皆さんのところに来ておられるそうで、私にとって大変懐かしく、お世話になった先生方ばかりです。また荒川君は私達のクラスメイトですし、奥様もよく存じあげています。


また、先日送っていただい「週報」を拝見していましたら、現在横浜におられる梅村ふみさんは、むかし同じ屋根の下で暮して、私の色んな悩みことを聞いて貰ったり、何か母親のように、現在でもお手紙を頂いたりしている方です。


 本日は、皆さんの大事な研修会ですのに、私のお話の時間を沢山頂いて恐縮しています。私は生来、人の話を聞くほうが好きで、話すのはいやなんです。牧師がそういうことをいっているようではいけませんが、実は私が正式の牧師になると同時に、いわゆる教会で説教をする牧師をやめたようなことになってしまいました。


 でもどういうわけか最近、女子学生に講義をしたり、年に一度だけ名古屋の近くの中京女子大学というところに三日間の集中講義というのを頼まれてもう6年くらいなりますが、朝8時から4時前迄、三日連続の講義があります。そんなこともあるのですが、しかし私のとっては皆さんのお話をお聞きする方が楽しいことです。どうぞあとで時間が許しますかぎり、お聞かせいただきたいと思います。


 ところで、今年早々に起こりました「阪神大震災」には、いろいろとお気遣いいただきありがとうございます。辻井さんご夫妻には、わざわざ神戸まで見舞いに来てくださいまして、それこそ30年振りにお出会いして、お二人のいつまでもお若いご様子に驚きました。あの地震の日から早くもまる10か月が過ぎました。


 あの1月17日は、恐ろしい出来事でした。当日の詳しい経験は、たまたま家内が記録を書き留めていまして、『阿吽』という雑誌に入れてもらいましたので、今日も持ってきていますので、あとで読んでいただければうれしく存じます。


 そしてお手元には、最近でたばかりの日本科学者会議の防災の本に頼まれて、短いものを寄稿しましたものと、『思想のひろば』の書いたものをコピーしていますので御覧頂ければと思います。大震災の話を始めますと、それだけで終ってしまいそうですので、終のところでもし時間がありましたら、あの『いのちが震えた』という絵本にまつわるお話など、最近の神戸の状況にも触れさせて頂きたいと思います。


 ところで今回は研修会のプログラムの中で「部落問題について」話しをするように依頼をうけました。詳しい事情は知りませんが、皆さんの教会が新たに「野洲キリスト教会」として誕生するに至った経緯には、少なからず「部落問題」と関連する事柄があったように聞いています。


 ですから、お求めのようにこれから、私自身の経験することのできた「部落問題について」お話をさせていただきたいと思います。それで一応お話のタイトルは「部落問題との出会い―神戸からの個人的報告」とさせていただきました。


 ただ私に取りまして、なにしろ皆さんとは30年振りですので、あるいはまた今回初めての方々との出会いですので、まことに勝手ですが部落問題を中心にいたしますが、私自身の青春時代から現在までの歩みを振り返りながら「キリスト教」の理解についても、率直に語らせて頂きたいと思っています。


 どうぞ、部落問題についても、またキリスト教の理解に関わっても、あくまでの「神戸からの個人的な報告」ということで、大いに批判的に聞いていただければ、私にとって気が楽でございます。


     2 仁保・野州時代への感謝(「出合いの家」の誕生)


 私ももう55才になりました。家内も先日誕生日で同い年です。我が半生を振り返るような、そういう年になりました。
 初めての皆さんとの出会いは、同志大学神学部の4回生の時に夏期伝道で派遣をされて、仁保教会に参りました。二十歳過ぎた頃です。辻井さんはまだ結婚されてなかったのではないでしょうか。


 私は、山陰の鳥取県の農村で育ちましたから、将来牧師になるのなら農村で暮したいという願いを持っていました。それで実習も農村の教会を希望していましたが、近江八幡市の仁保というところは当時、近郊農村でした。現在は大分変わっているかもしれません。


 仁保教会は当時、安藤斎次先生が牧師をしておられましたが、夏期実習の終わって直ぐ、全く忽然と先生が急逝されてしまいました。それで請われるままに、何にもわからないまま仁保教会に移り住んで、学生をしながら京都まで通学する生活を始めました。「学生」の説教もどうかと思いながら、結局数年間、神学部を卒業して大学院の2年間も仁保から通いながら修士論文も書き上げました。


 でさらに、学校を卒業すると同時に、24才で結婚もして、家内も同じ様に牧師(伝道師)でしたので、仁保教会で新婚生活を始めました。私は仁保教会の責任を、そして家内が野州伝道所の責任を負うかたちで、野州の岩井さん(まだお若かったです!)などとの出会いが始まりました。この新婚生活の2年間は、私達にとって、その後の歩みにとって、大変大きな経験をさせてもらいました。教会の皆さんには、ご迷惑をかけるようなことでしたが、全く若気に至りというべきですが、二つのことが私達の課題でした。


 一つは、教会は「出合いの家」であるという、ある確信めいたものの探究・模索がありました。「月刊出合い家」というガリ版の印刷物をつくって、それをだいぶん広い範囲に配布したりいたしました。相沢良一先生という大島元町教会の牧師さんで、農村伝道に熱心な先生がおられて、先生は「黒潮」という素晴らしいものを発行して全国に読者をもっておられました。或るとき、先生をお迎えして集会をもち、先生と琵琶湖を一周いたしました。将棋のお好きな方で、将棋指しをしたりして・・・。


 私も、相沢牧師がなさっていたように、このまちの方すべてが有縁の方々で、単に教会に所属しておられる方だけを相手にしているのではないのだという思いが強くありました。この地域で生きておられる方は、すべて友だちで、このまちのことは私達の教会の責任でもあるということで、「地域のなかの教会」とか申しまして・・・。それで教会の玄関に「この家はみんなの家、男も女もいます。・・なぜなら、悩みも苦しみ、喜びも、ともに語ります。・・」とかいう、お粗末な詩のようなことばを掲げた看板をつくったりいたしました。


 そしてもう一つそのとき力をこめて取り組みましたのは、「教会の革新」ということでした。第一線に足を踏み出したばかりの青二才が、新しいチャレンジを始めてしまいました。


 それは「教会の革新」を進めるためには、教会の中心である「礼拝」の革新でなければならないとして、「新しい礼拝のあり方」を模索し始めました。なにしろこれまでの教会は、余りに「牧師中心」で、信徒の方々はいつもお客さんではないか、プロテスタント教会はもともと「万人祭司」であって、教会を革新するには先ず「礼拝のあり方」を変えていかなければならないのではないか、特に「説教」のかたちをかえて、礼拝のなかに「話し合い」を組み入れることはできないか、また、一段高いところからなされる説教も、できればみんなが丸くなって礼拝はできないか、などという小さな試みをはじめて、信徒の皆さんには色々とご協力とご迷惑(?)をお掛けいたしました。


 この「礼拝の革新の試み」は、手製のガリ刷りでパンフレットにしてみたりもいたしました。ですから、私たちにとって「出合いの家」の夢は、仁保と野洲の時代に、その中核はつくられていきました。


 正直に申しまして「教会の革新」ということは大変で、難渋いたしました。教会は「神の言葉」が中心で「説教」が礼拝の中心になっていなければならないことはわかります。しかし、本当に現代社会で、ひとりひとりが生き生きと、人生をエンジョイして、持味を発揮できるような「万人祭司」の精神を、現代に生かすのにはどうしたらいいのか、しっかりと悩んだわけです。


 その点、野州伝道所の方では、もともと信徒が少なく、はじめから車座で、説教も本当に家庭的な形で、礼拝の後でもゆっくりとして、一週間の出来事などもざっくばらんに語りあえて、牧師も信徒もともに元気が出る、そういう集いが出来ていたようにおもえます。

 
 しかし、そうこうしているうちに、私達には子供がふたり授かることになります。
 私は当時、基本的な考え方として、牧師はどんなに貧しくてもアルバイトは少なくし、ただただ信徒の方々の支えで暮すというかたちが大事なことであると考えていました。そのように、先輩方からもずっと教えられて来ました。


 ですから、当時いくらかのアルバイトのつもりもあって、兄弟社学園で聖書科で教えたりいたしました。また、近隣の教会との連帯をつくるために、当時教団がすすめていた「伝道圏伝道」構想などの取り組みにも積極的に関わっていました。


 ですが、ふたりの子供がみうまれるという段階で、どうしても生活的に難しくなって、私の最初の夢であり志であもあった、農村での生活を一時変更して「出稼ぎ」することを決断してしまったわけです。これは私達にとって、後味の良くないものでもありましたし、また教会のみなさんには、大変ご迷惑をかけてしまう結果にもなりました。