「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第6回)(未テキスト化分)



賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第6回:未テキスト化分


     第一章 賀川豊彦 没後の四十余年

   
      第一節 賀川豊彦を受け継ぐ(60年代〜70年代)


     (前回の続き)


      3 『賀川豊彦全集』(全24巻)の刊行


 ところで、賀川の没後すぐ関係者のあいだで、賀川の膨大な著作のうちまず日本語で著わした作品のなかから選択し『賀川豊彦全集』の刊行企画が持ち上がり、「刊行委員会」がつくられました。出版元は、賀川自身が設立運営に関与してきた「キリスト新聞社」で、社長の武藤氏がその代表となります。ここでは短く『全集』刊行に関連する経緯に触れておきます。


 「刊行委員会」のもとで「全24巻」の刊行計画が具体化しはじめたのは賀川没後の2年後で、1962(昭和37)年9月「キリスト新聞」紙上に刊行の「予告」が発表されました。


 これに対し前記「キリスト者部落対策協議会」は、全集第8巻に所収予定の、賀川が1915(大正4)年プリンストン大学に留学渡米中に警醒社書店から出版して注目を浴びた上製菊版654頁におよぶ学術的著作『貧民心理之研究』のなかの、第一編第七章第5節「穢多村の研究」を「全文削除」することを求める「要望書」を送付しました。


 その理由は、これをこのまま出版すれば「社会に悪い影響を与える」ばかりでなく「賀川先生の名誉を傷つけるものだ」として、「教会と賀川先生を愛するがゆえにこそ、この著書を世に出したくなかったし、この著書が出版されることにより教会人の部落問題への姿勢が急速に後退」するから、というものでした。
「要望書」への刊行委員会の「回答」は、「お立場は十分理解するが、故人の意志を無視して原文を削除することは当を得ないし、また著作権者たる遺族もこれを承諾しがたい事情にあるので、予定通り削除せずに出版する。しかし解説者において、巻末の解説に、キリスト者部落対策協議会の主張の趣旨をのせ、且、賀川の主張を論評して、世人の誤解をとくように努力する」というものでした。
その結果、『貧民心理之研究』の入った第八巻は、1962(昭和37)年12月に削除されずに刊行され、全24巻の『賀川豊彦全集』は1964(昭和39)年10月までに全巻の完成をみて、幅広い読者を得たのでした。しかし残念なことに、約束された「巻末の解説」の杜撰な内容が、そのあとも引き続いて問題を引きずることになりました。


        4 「賀川記念館」(神戸)の開館 


 この『賀川豊彦全集』が完成した年の4月、わたしたちは最初の任地・滋賀県琵琶湖畔にあるメレル・ヴォーリズの関わりのあった小さな農村教会(日本基督教団仁保教会)に赴任しました。


 賀川とヴォーリズの関係は深く、わたしたちの赴任した教会の前任者であった安藤斎次牧師は、前記『百三人の賀川伝』に寄稿するほどに賀川の影響を強くうけた先生でした。その安藤牧師の急逝により、ここに招聘をうけることになったのでした。


 2年間ここで働いた後、1966(昭和41)年4月から、賀川豊彦のホームグラウンドである「神戸イエス団教会」に移り、はじめて神戸において仕事を始めることになりました。


 この年は、いま岩波書店刊行の「同時代ライブラリー」の一冊に収まる隅谷三喜男氏の好著『賀川豊彦』が日本基督教団出版部「人と思想シリーズ」の一冊として刊行された時でもありました。


 神戸イエス団教会は、賀川によって創立された教会ですが、賀川は当初よりこの地域に自ら居住して「セツルメント活動」を展開し、1923(大正12)年9月の関東大震災の救援活動で活動の本拠を東京に移してからは、武内勝氏などを中心にその働きは受け継がれていきました。


 賀川がこの地域で活動を開始してから丁度半世紀、「賀川献身50年目」を記念した1959(昭和34)年には、神戸に「賀川記念館」を建設する企画が持ち上がります。


 翌年に賀川は亡くなるのですが、河上丈太郎杉山元治郎・阪本勝・中井一夫・今田恵の各氏らが呼びかけ人となり具体化され、賀川没後3年を経た1963(昭和38)年4月に、現在の「賀川記念館」がオープンしました。


 この建設事業の責任を担ったのは、村山盛嗣氏でした。それ以後この記念館を中心にして、それまでの「セツルメント事業」「保育事業」「教会活動」の三つの協同事業を新たに展開し、あわせて賀川関係の関係史資料の地道な収集保存なども、ここを拠点にして行われていきました。


 わたしたちが赴任したのは、開館後わずか3年を経たときですが、1966(昭和41)年当時は、神戸においてもまだ同和対策事業が本格化する前のことでした。


 地域には老朽化した住宅やバラックの家屋も多く残り、戦前に建てられた「共同住宅」も文字どおり屋上屋を重ねていて、その中に建つ新築の「賀川記念館」は、ひときわ際立つ立派な建物に映りました。とはいえまだ、新築の館内においても、日ごと夜ごと「南京虫」が出没し、大きな姿で襲ってくる夢まで見るような実態が残されていました。


 新しい使命を担った「記念館」は、そうした地域の生活実態を正確に把握するために、社会福祉協議会と協力して生活実態調査活動などにも取り組み、自治形成の核となる新しい組織「吾妻福祉会」の結成(1966年11月)にも貢献しました。そして開館の翌年(1964年)には、神戸市では最初の「学童保育」をここで開設するなど、時代の要請を先取りする実験的な試みが、意欲的に推進されていきました。


 神戸イエス団教会でのわたしの最初の仕事は、賀川の最も近しいパートナーであった武内勝氏の葬儀でした。この時点ではまだここには、数多くの「賀川豊彦を師と仰ぐ人々」が教会のメンバーとなり、記念館の諸活動にもボランティアとして積極的に参画していました。


 古い伝統をもつ「古着市」や「バザー」には、「灘神戸生協」(現在の「コープこうべ」)をはじめ多くの企業・団体・個人の熱心な自発的なサポートが寄せられ、大きな励ましをうけました。


 「記念館」には「社会福祉法人エス団」の本部もおかれ、各地の保育所・幼稚園・福祉施設・専門学校など関係機関のネットワークの中軸的役割も果たし、「賀川精神」といわれてきた具体的な生きた働きの姿を、身近に経験することができました。


 同時にこの地域で働いた2年間は、わたしたちにとって新たなスタートの準備期間として、2回の「牧師労働ゼミナール」の経験や新しい「家の教会」と「労働牧師」の構想を練るウォームアップの時でもありました。


      5 ひとつの実験「番町出合いの家」の創設


 賀川豊彦の神戸での活動の中心拠点は「記念館」の所在する「葺合新川」でしたが、同時にもうひとつ「長田区番町」も重要な場所でした。


 番町においても大正期には「無料診療所」を開設して、間島福(わたる)医師一家や芝八重氏などが献身的な働きをかさねていますし、地域のど真ん中に設けられた「天隣館」では、戦前戦後にわたって保育所学童保育の活動などが行われてきました。


 そして武内勝氏らによって、現在の「神視保育園」や「天隣乳児保育園」が開設され、地域に仕える地道な仕事が継続されてきた場所です。


 ところで1960年代後半の時期は、世界的規模で新しい価値観を模索する大きな変革・創造の時でした。ベトナム戦争が泥沼化し、戦争に反対する行動が盛り上がり、日本国内でも各地で学問のあり方、社会運動や平和運動のあり方、さらには宗教の世界でも既存の価値をその基礎から問い直す試みなどが、理論の上でも実践の上でも活発化していきました。


 先の「牧師労働ゼミナール」や「労働牧師」「家の教会」などといった、具体的な実験的試みにも励まされ、この新しい変革と創造の時の只中にあって「一人のひととして・信じて生きることを学びたい」という志に促され、わたしたちも新しい一歩を踏み出すことになりました。


 「一人のひととして」ということは、もちろんわたしたちにとって「一人の牧師として」ということと別のことではありません。つまり、そこでは「牧師職を単なる職業とせず、普通に労働して日々の暮らしを立て、経済的にも精神的にも独立自立すること」、そして「地域社会のなかで共に生き、世界の出来事にも日々開かれてあるところの生活者でありたい」というものでした。


 それは必然的に、既成教会の牧師のかたちとは異なる「新しい実験」となりました。


 そこで導かれて選択した新しい生活の場所が、「長田区番町」であったのです。


 当然のこととはいえ、ここでの労働の場所は、同じ長田区の下町にあるゴム工場でした。ゴム工場のなかでも「ロール場」と呼ばれる現場で、そこの「雑役見習い」というものでした。


 「中根アパート」と呼ばれた共同便所付き「文化アパート」1階の六畳ひと間が、妻とふたりの幼い娘の四人暮らしの新しい我が家となり、世界ではじめての信徒のいない、文字どおり小さな「家の教会」がスタートしました。


 これが公的に「日本基督教団・番町出合いの家伝道所」として認可されたのは、1968(昭和43)年4月16日のことです。


 この時期は、部落問題の解決の歴史の中では、それまでの長い苦労のトンネルを潜り抜けて、ようやく手探りででも解決への見通しを見出して「歴史が動き始めた」という、たいへん面白い時節を迎えていました。


 部落解放運動も全国的に大衆的な盛り上がりを見せ、神戸でも住宅要求の組織化や「車友会」と呼ばれた自動車運転免許取得の取り組み、そして「厚生資金利用者組合」という生活建て直しのための自立組織などが、澎湃としてつぎつぎと誕生して行くときでした。


 同時にまた、そのころから自治会組織や子供会づくりなども活発化し、夜間の小さな「識字教室」も開講され、住民のひとりとして、それらの交わりにも加わることにもなりました。
 

 ところで、1960年代早々に歩み出した「キリスト者部落対策協議会」の活動は、丁度このころから活動が停止状態におかれていました。


 人々の関心の焦点はもっぱら、旧来の取り組みを批判的に吟味しつつ、いっそう根源的な問いに注がれていきました。たとえば、キリスト教界では、「大阪万博へのキリスト教館の出展問題」などが論じ合われ、それらをめぐって教団総会や教区総会、各個教会の総会なども開催不能となるなどの事態が続くことになります。これは、当時の「大学闘争」とも連動するキリスト教界における「教会闘争」といわれるものです。


 この「闘争」のなかで、解放運動の課題のひとつであった「狭山差別裁判闘争」なども取り組まれ、1970年代になって、教団も急速に「部落解放同盟」という特定の運動団体の「洗礼」を受けることになるのです。そして1975(昭和50)年5月には、教団への「確認会」が行われ、その中にいわゆる「賀川問題」といわれるものも含まれていきます。


 こうして急速に、運動団体との「連帯」を基本とした、教団としての部落問題の取り組みがはじまり、日本基督教団「部落解放センター」の設置へとすすむのです。


                 注


1  隅谷三喜男氏の岩波「同時代ライブラリー」版『賀川豊彦』(1995年)では、新たに年表と解説を付し部落問題にも触れて、拙著『賀川豊彦と現代』にも言及いただいた。(補記・隅谷氏は2003年2月22日逝去)。


2  武内勝口述『賀川豊彦とそのボランティア』(武内勝口述刊行委員会、1973年)参照。


3  この期間の経緯の一端は拙著『部落解放の基調―宗教と部落問題』(創言社、1985年)第一章「新しい思惟と新しい行為」参照。


4  同書『部落解放の基調―宗教と部落問題』第三章「キリスト教と部落問題」参照。