「賀川豊彦の贈りものーいのち輝く」(第5回)(未テキスト化分)


 賀川豊彦の贈りものーいのち輝


 第5回・未テキスト化分


      第一章 賀川豊彦 没後四十余年


   (前回の続き)


       第一節 賀川豊彦を受け継ぐ―60年代〜70年代―


         1 『百三人の賀川伝』など


 1959(昭和34)年1月、賀川は体調不良のなか、周囲の反対を押し切って徳島を中心とした四国伝道に出かけました。しかし、高松に到着したもののすぐ緊急入院となり、三ヶ月近くルカ内科病院で過ごすことになります。ここでの療養中、関係者のあいだで「みんなで賀川伝を書こう」と話がまとまり、関係者に呼びかけたところ、早速百名ほどから原稿が集まりました。


 賀川は、ようやく3月24日になって東京の松沢の自宅に帰ります。そして5月31日には中野組合病院に入院しますが、そのとき賀川は、寄せられた原稿を見て「面白いね!」と言って、これの完成を楽しみにしていたそうです。


 しかし生前には間に合わず、翌年(1960年)4月23日、賀川が没して4ヵ月後に、武藤富男編『百三人の賀川伝』(上巻「ぼくは待っている」・下巻「無言賦」、キリスト新聞社)として完成をみたのでした。


 この作品は、賀川との大きな絆で結ばれ、同時代を共に歩んできた人々の赤裸々な記録です。河野進・牧野虎次・吉田源治郎・横山春一・安藤斎次・深田未来生・太田俊雄といった、わたしも一度はお目にかかったことのある先輩方の珠玉の文章もあり、21世紀を迎えた今、これを取り出して読み返してみても、賀川が書き残した著作とはまたひとあじ違う、「百三人」それぞれの熱い息吹きが伝わる、貴重な歴史的資料になっています。


 また、賀川の没後すぐ「追憶集」の刊行準備が「イエスの友大阪支部」の田中芳三氏を中心にすすみ、同年11月『神はわが牧者―賀川豊彦の生涯と其の事業』が出版されました。同書も前記『百三人の賀川伝』同様、当時第一線で活躍していた70名余りの人々が、賀川の死を悼みつつ、それぞれのユニークな「賀川豊彦との出合い」の手記が寄せられています。


 これには写真も満載され、巻頭に大宅壮一氏の「噫々 賀川豊彦先生」と題した良く知られている讃辞が踊っています。


 「明治・大正・昭和の三代を通じて、日本民族にもっとも大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。


 西郷隆盛伊藤博文原敬乃木希典夏目漱石西田幾多郎湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くはない。


 そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響が及んでいる。大衆の生活の即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。」(11頁)


 この追悼集はその後も版を重ね、1992(平成4)年にはクリスチャン・グラフ社から増補版も出ています。


 「私的ノート」とはいえ個人的に過ぎますが、はじめて賀川豊彦の著作に出合ったのは『賀川豊彦伝』(新約書房刊、1950年)の著者・横山春一氏の好著『隣人愛の闘士 賀川豊彦先生』(新教出版社、1952年)でした。 高校生の時です。


 山陰地方の片田舎・関金温泉のある小さな町から倉吉市の高校に通学していましたが、ある機縁で古い歴史を刻んでいたプロテスタントの教会(日本基督教団倉吉教会)に出入りしはじめ、そこで賀川を深く尊敬する鎌谷幸一・清子牧師夫妻との出合いがありました。


 とりわけ清子牧師は、賀川から洗礼を受けて牧師の道にすすんだ方でした。この牧師夫妻の暮らしぶりに魅せられ、柄にもなくわたしも喜んで牧師の道に導かれ、1958(昭和33)年春京都に出て、同志社大学神学部で学びはじめました。
 

 賀川の没した1960(昭和35)年前後の時代は、言うまでもなく日本の進路を決する「安保」時代の変革期であり、キリスト教世界も新しい時代を迎えていました。


 たとえば、「第二バチカン公会議」や「世界教会協議会」(WCC)の新旧キリスト教世界で、キリスト教の独善から解き放たれた「世界の諸宗教との出合いと対話の道」が開かれていこうとする時代でした。


 1960(昭和35)年春、2ヶ月にわたり、神学及び哲学の分野で強い影響を与えていたハーバード大学のポール・ティリッヒ教授が訪日した出来事は、その時代の象徴的な出来事でもありました。これは国際文化館知的交流委員会の招きで実現したものですが、「仏教とキリスト教の対話」が実りあるかたちで実現していく現場に、わたしたちも立ち会うことができました。


 (丁度、時を同じくして、わたしにとって大きな出来事がふたつありました。
ひとつは、仏教の真髄をひとりで世界に伝えつづけた鈴木大拙師のお話を聴く機会にめぐまれたことと、もうひとつは、すでに『西田哲学の根本問題』(乾元社、1936年)『夏目漱石』(三笠書房、1943年)『仏教とキリスト教』(法蔵館、1950年)などを著わして、独自な思索を続けてきていた滝沢克己教授の名著『カール・バルト研究』(刀江書院、1941年)に出合うことができたことでした。このふたつの出来事は、わたしたちのその後のあゆみの大切な糧となったものですが、ここはそれに立ち入る場ではありません。)


       2 「キリスト者部落対策協議会」のこと


 ところで、部落問題解決の歴史のなかでも、賀川没年の1960(昭和35)年という年は、解放運動の「国策樹立」の要請をうけて「同和対策審議会」が設置された年として知られています。


 前年には、住井すゑの小説『橋のない川』が雑誌『部落』に連載されはじめていましたし、60年には亀井文夫監督のドキュメンタリー映画「人間みな兄弟」の製作や藤川清の写真集『部落』が三一書房で刊行されたりしました。


 そして地域・職場・学校などに「部落問題研究会」がつぎつぎ組織され、学習運動が各地に展開されていきました。前年に続いて「第2回学生部落問題研究全国ゼミナール」が京都で開催されたのも、この1960(昭和35)年です。


 すでに先輩の牧師たちは、広島の福島町や大阪の西成地域などで、部落問題の研究と実践的な働きを開始していて、学生たちへの働きかけも行っていました。工藤英一氏(明治学院大学教授)なども、「キリスト教と部落問題」に関する地道な歴史研究を積み重ねていました。


 こうした取り組みをうけて、1961(昭和36)年1月には「関西キリスト者部落対策協議会」が設立され、キリスト教界内部への働きかけにとどまらず、部落解放運動や実践的な研究調査活動へも積極的な関わりを広げていきました。


 当然のことながら、これらの活動に参画もしくは深く共感を抱いた人々のなかには、賀川豊彦と深い関わりをもつ人々も数多く存在しました。


 同協議会は、1961(昭和36)年4月に機関誌『荊冠』を創刊していますが、「神の前に人間はみな兄弟である。基督者(キリストシヤ)は兄弟として全ての人に仕える責任がある」という標語を掲げた創刊号には、巻頭に前記『百三人の賀川伝』を編集刊行した武藤富男氏(キリスト新聞社社長)のインタビュー記事が入り、「賀川門下生」を自認し賀川の協同組合論に深く共鳴してきた嶋田啓一郎氏(同志社大学教授)などの寄稿文が収められていることからも、そのことを知ることができます。


 この組織は、結成の翌年(1962年2月)に全国組織となり、「キリスト者部落対策協議会」へと発展を遂げていきます。そして同年8月には「東京キリスト者部落問題懇話会」(代表・工藤英一氏)も発足していくのです。


 右の動向に呼応して、クラスメイトなどは一時休学して「筑豊の子供を守る会」の活動に参画したり、わたしたちも西成教会でのフィールドワーク体験などにでかけました。


 夏期休暇を活用し、零細企業の現実を労働体験を通して学びあう「学生労働ゼミナール」にも参加するなどして、「60年安保」時代のひとつの大きな変革期のなかで、貴重な社会的経験をすることになります。


 もちろん上記の映画「人間みな兄弟」の自主的な上映運動も熱心に取り組まれ、寮生活を共にしていた先輩が寮生を集めて、熱っぽく「部落問題解決の必要」を訴える機会などもありました。


 このような取り組みを背景にして、日本基督教団出版部においても、1963(昭和38)年7月には、宣教研究所第四分科の編集責任で、工藤英一・益谷寿・松田慶一三氏の共著『部落問題とキリスト教』の刊行も実現したのです。


                


1  横山春一氏とは生前一度だけご自宅を訪ね、貴重なボズウェル『サミュエル・ヂョンスン伝』上中下(岩波文庫)を戴いた。かつて同氏の代表作『賀川豊彦伝』を古本で求めているが、それには賀川豊彦の自筆サイン「死線を越えて我は行く」が残されていた。


2  ポール・ティリッヒの日本滞在の講演集は、高木八尺編訳『宗教と文化』(岩波書店、昭和三七年)として刊行されている。