「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第4回)(未テキスト化分)


 賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第4回(未テキスト化分


        第1章 賀川豊彦 没後の四〇余年
               
                                
             はじめに


 賀川豊彦は1888(明治21)年7月10日、神戸市兵庫区島上町108番屋敷で誕生し、1960(昭和35)年4月23日、東京都世田谷区上北沢3丁目8番19の自宅で亡くなりました。71歳9ヶ月の生涯でした。


 膨大な著作を著わした賀川最晩年の重要な作品は、いうまでもなく彼のライフワークの結晶となった『宇宙の目的・Purpose of Universe』(毎日新聞社・昭和33年)です。


 その2年後、生前最後の著作となったのが、日本書房発行『現代知性全集(39)』に収められた『賀川豊彦集』です。「1960年2月」と記された冒頭の「序」が、刊行作品としての遺稿ということになるのでしょう。いかにも賀川らしい「開かれた眼」と、生涯を貫いた彼の「冒険心」を言いあらわす、つぎのような言葉で結ばれています。


 「私は凡ての行者、凡ての経典に教えられて、路傍の雑草にも生命の生き抜く道が何処にあるかを知らんとしている。それで私は、科学と宗教を一つにし、芸術と倫理生活を統一せんと努力して来た。結局私自身の日常生活が、神に向って発射された砲弾である。この砲弾は神が準備し私がその引き金を引かねばならぬ運命にある。それで私は、神を信じ、霊魂の不滅を信じ、神の国の実現を刻々待っているのである。」(4頁)


 賀川豊彦没後、早くも四〇余年の歳月が過ぎました。そしていま、新しい21世紀の「地球時代」を迎えています。その中で、新たに多くの人々によって「賀川豊彦の生涯と思想」が吟味・継承されつつあります。


 たとえば、身近なところで言えば、『歴史と神戸』第39巻第1号(218号・2000年2月1日)で「賀川豊彦と神戸」が特集されました。そこには、小南浩一氏の巻頭論文「賀川豊彦思想の現代性」と小南氏をふくむ安保則夫・黒田展之・佐治孝典・柳田勘次・高木伸夫の共同討議「賀川豊彦と神戸」、「賀川記念館」村山盛嗣館長の施設紹介などが掲載されました。(注1)


 翌2001(平成13)年5月には「2001年神戸聖書展」が開催され、『神戸と聖書―神戸・阪神間の450年の歩み』(神戸新聞総合出版センター)が編集刊行されています。


 当然ここでも賀川への言及も多く、高村勣氏の「賀川と生協」、岸英司氏の「賀川豊彦の宗教思想」、前記村山氏の「いと小さきものに仕えるために」とそれぞれ新たな「賀川豊彦の人物誌」の寄稿があり、求められてわたしも拙い小文「賀川豊彦の『贈りもの』―21世紀へ受け継ぐ宝庫」を添えさせていただきました。


 そして「ボランティア国際年」にちなんで、同年9月には、神戸市生涯学習支援センター「コミスタこうべ」で「市民サミットin神戸」特別展として「ボランティアの先駆者・賀川豊彦関東大震災」が開催されました。


 翌2002(平成14)年1月には、神戸市勤労会館において、イエス団・神戸YMCA・日本生活協同組合連合会生活協同組合コープこうべの共同主催で、同じ主題の「特別展」が取り組まれました。(注2)


 さらに同年3月には、徳島県鳴門市大麻町に「鳴門市賀川豊彦記念館」が開館し、多くの人々がここを訪ねて「賀川豊彦の息吹き」を受けとめる場所となっています。


 神戸で生まれた賀川豊彦が、幼くして両親を失ったあと、幼少年期を過ごした徳島のこの地に、賀川記念館を建設する企画は早くから持ち上がっていましたが、1996(平成8)年にようやく「目指す会」が発足し、建設資金1億2000万円すべて寄付金でまかなったといわれます。


 「ドイツ兵俘虜収容所・第九のふるさと」として有名な「鳴門市ドイツ館」の南隣に完成したこの記念館は、当初鳴門市立としてスタートし、2003(平成15)年度からは、NPO法人賀川豊彦記念・鳴門友愛会」によって運営管理され、地道な運営がおこなわれています。


 同町の「阿波の歴史を小説にする会」会長の林敬介氏は、好著『時代を超えた思想家 賀川豊彦』(阿波銀行)をまとめあげた後、この本を「文庫版」にして、「賀川豊彦記念・鳴門友愛会」の最初の刊行物として2002(平成14)年12月に刊行しています(徳島出版株式会社)。(注3)


 このように「21世紀に生きる賀川豊彦」を、それぞれの受け止め方で「記念・想起」しつつ、「友愛と平和を心に刻む」日々の営みが続けられています。


 そこで本章ではまず、標記のとおり「賀川豊彦 没後40余年」と題し、賀川がその生涯を終えてから現在までの半世紀近い歳月を振り返りつつ、「21世紀を生きる賀川豊彦」の素描を試みてみたいと思います。


 いうまでもなく「賀川豊彦の全体像」 をつかむことは至難のわざです。まして直接賀川を知らない世代のものには、いっそうこの課題は容易ではありません。


 しかしこれまでわたしたちは、「賀川豊彦」に触発されつつ、その「思想と実践」の一端にふれる幸運に恵まれました。とくに縁あって、1960年代の半ば過ぎから今日まで、賀川のホームグラウンドともいうべき神戸の「葺合新川」地域並びに長田区番町地域の住民のひとりとして、部落問題解決の歩みの上での激動期を過ごすことにもなりました。


 この限られた経験をふまえ、ここに忘備録的な「私的ノート」を書き留めておくことにいたします。


 周知のとおり、賀川豊彦の「没後40余年」のあいだには、広く読書界に歓迎された『賀川豊彦全集』全24巻(キリスト新聞社、昭和37年から39年)が刊行されたのを皮切りに、1992(平成4)年には東京の賀川豊彦記念・松沢資料館の全面協力のもとに米沢和一郎氏の編集になる大作・日本アソシエーツ発行『人物書誌大系』(25)の『賀川豊彦』(これには邦語の全著作目録・参考文献目録・年譜が網羅され、大量の英文書誌は別途準備中です。補記=米沢氏は、2006(平成18)年6月に「人物書誌体系」(37)『賀川豊彦Ⅱ』を刊行し、賀川に関する先行研究を網羅する貴重な資料・図書を紹介しています。) が完成するなど、現在では関連する基礎資料も膨大なものになり、賀川の活動を反映して研究分野も広範囲におよんでいます。「没後40余年」は、そうした研究史を一瞥するだけでもけっして容易なことではありません。


 早速、賀川没年以後を、第1節(60年代〜70年代)、第二節(80年代〜90年代)と20年毎に区分けして、大まかに年代を追いつつ断片をつなぎ、最後の第三節で「21世紀に生きる賀川豊彦」を構想してみたいと思います。



                 


1  『月刊部落問題』1998年2月号(兵庫部落問題研究所刊)では、賀川記念館の村山盛嗣館長の聞き取りなどを入れた特集「地域と共に生きる」を編集している。


2  牧田稔『21世紀NGO運動―ボランティア国際年の想い」(賀川記念館「ボランティア」2001年7月号)及び「過去・現在・未来の時間空間ネットワーク−賀川豊彦関東大震災に学ぶ」(コープこうべ・ボランティア情報誌『つなぐ』2002年冬季号)参照。拙稿「なぜ今『賀川豊彦』なのか」(日本労働者協同組合連合会・ボランティア研究会『季刊ボランティア』2001年1月第3号)参照。


3  林敬介氏の『時代を超えた思想家 賀川豊彦』は、賀川の全生涯を幅広く豊富な資料を駆使して平易な筆使いで書き上げた最新の「賀川豊彦入門書」である。「鳴門市賀川豊彦記念館」の開館を祝う地元ならではのオリジナル作品で、新たな知見が豊かに盛り込まれている。同記念館の開館に関しては、イエスの友会「火の柱」(2000年6月号・2001年8月号・2002年5月号)、「毎日新聞」(2000年5月18日「ボランティアの先達伝えよう」)、「神戸新聞」(2002年4月2日「友愛と平和の心に刻む記念館・鳴門」など参照。


4  『賀川豊彦の全体像』(神戸学生・青年センター刊、1988年)のタイトル。


5  「人物書誌大系」(25)『賀川豊彦』の編纂後も邦文・欧文全体の書誌完成に努める米沢和一郎氏は、最新の詳細なレポートを「賀川豊彦資料案内番外編」としてまとめている(「賀川豊彦研究」第44号、2002年7月)。また、2002年12月には、財団法人「雲柱社」と「賀川豊彦記念・松沢資料館」から「賀川豊彦講演録『下座奉仕』」(賀川豊彦音声資料1)が「開館20周年記念」として特別頒布された。補記・2006年3月、財団法人雲柱社・賀川豊彦記念松沢資料館が『中間目録Ⅰ』を刊行。これには膨大な『賀川家(松沢)資料と賀川家(西宮)資料が分類されている。また同年6月には明治学院大学キリスト教研究所が米沢和一郎氏による『賀川豊彦の海外資料―光と影の交錯を読み取るために』を刊行している。



   (次回に続く)